第2話 Aeturnum: The Last Exile
校門を出て、三人で並んで歩く帰り道は、いつもと同じ、しかし、どこか特別な空気が流れていた。住宅街をオレンジ色に染める西日が、三人の影をアスファルトの上に長く、長く伸ばしている。
「マジで明日、12時ぴったりにログインできるかなあ」
「うちの回線、最近ちょっと調子悪いんだよな。親父が変なサイトでも見てんのかな」
「ルーター再起動しとけよ、絶対。あと、PCのスペックも最終チェックな」
友人たちの会話は、尽きることがない。それは彰にとっても苦痛ではなかった。むしろ、彼らの楽観的な会話を聞いていると、自分の内なる野心が上手くカモフラージュされるようで、都合が良かった。彼は適度に相槌を打ち、時折、当たり障りのない意見を口にする。完璧な「ゲーム好きの、ただの高校生」を演じきっていた。
彼らが話すのは、どの髪型にしようか、どんな名前をつけようか、最初の街はどんな場所だろうか、という夢に満ちた話題だ。それはそれで、彰も楽しみではある。だが、彼の思考は常に、その先を見据えていた。
(最初の街に長居はしない。最低限のクエストをこなし、装備を整えたら、すぐに次の狩場へ。問題は、序盤の金策だ。ポーション代、装備の修理代……レベルが低いうちは、常に金欠との戦いになる。他のプレイヤーが非効率な金策に時間を浪費している間に、俺はレベルを上げる。その差を、どうやって作るか)
その答えが、先ほどのRMTの話に繋がる。
友人たちが「萎える」と切り捨てた、現実の金銭を力に変えるシステム。彰にとって、それは「萎える」どころか、最高の武器だった。時間は、金で買える。このゲームにおいて、それは公式に認められた真理なのだ。ならば、利用しない手はない。
やがて、いつも別れる三差路にたどり着く。
「じゃ、また明日な!」「おう、12時に、Aeturnumでな!」「ログインできなかったらSNSで連絡しろよ!」
健太と雄二が、それぞれ違う方向へと手を振りながら去っていく。彰も軽く手を上げてそれに応え、二人とは別の道へと足を踏み出した。
一人になった瞬間、彼の表情から、人当たりの良い穏やかな笑みは完全に消え失せていた。目に宿るのは、獲物を狙う狩人のような、鋭く冷たい光。友人たちと共有していた、和やかで祝祭的な空気は霧散し、彼の周りには、目標達成のためだけに思考を最適化する、トップゲーマーとしての空気が張り詰める。
(課金額、か)
健太に問われた言葉を、頭の中で反芻する。
友人たちが想像している「課金」は、せいぜい数千円、奮発しても一万円か二万円、といったところだろう。アバターアイテムや、便利な消耗品の詰め合わせパック。運営に「お布施」するような、ささやかなものだ。
だが、彰が考えているのは、そんな「お小遣い」の範疇ではない。
それは「消費」ではなく、「投資」だ。
彼の頭の中では、具体的な数字が瞬時に弾き出されていく。
時給1100円のコンビニの深夜アルバント。学業と両立させながら、この半年の間、彼はほとんどの時間をそこに費やしてきた。友人たちと遊ぶ時間も、趣味に使う金も、全てを削って。その結果、彼の銀行口座には、高校生としては破格の金額が眠っている。
(スタートダッシュで、最低でも5万は投入する)
それは、他のプレイヤーが最初の街から出て、ようやく一体目のモンスターを倒しているであろう時間帯に、すでに街の店で買える最高級の装備一式と、大量の回復ポーションを揃えるための資金だ。
(序盤の最難関とされる、最初のダンジョン。その攻略までに、追加で10万は見ておくべきか……)
他のプレイヤーがパーティを組んで、何度も全滅を繰り返しながら攻略法を探っているであろうダンジョン。そこを、圧倒的な物量と準備によって、ソロで、しかも最速で駆け抜ける。そこで得られる先行者利益――ユニークアイテム、多額の経験値、そして何よりも「最初の攻略者」という名誉――は、12万という投資額を考えても、あまりあるリターンをもたらすはずだ。
合計、17万円。
友人たちが聞けば、正気を疑うだろう。たかがゲームに、と。
だが、彰にとって、これは「たかがゲーム」ではなかった。
一億人が参加する、世界で最も巨大で、最も過酷で、そして最も平等な競争の舞台。現実の出自も、容姿も、年齢も関係ない。ただ、その世界で誰が一番優れているか。その一点のみが問われる場所。
退屈で、予測可能で、理不尽な制約に満ちた現実世界よりも、よほど彼にとっては「リアル」な世界だった。
そこで勝つこと。頂点に立つこと。それが、相馬 彰という人間の存在価値を証明する、唯一の方法だと信じていた。
様々な思考を巡らせているうちに、見慣れた自宅の玄関が見えてきた。築三十年の、ごくありふれた二階建ての一軒家。彼の部屋は二階にある。そして、その一室に、白い繭――『イドラ・リンク・カプセル』が、主の帰りを静かに待っているはずだった。
玄関のドアを開け、「ただいま」とリビングに声をかける。母親からの「おかえりなさい」という返事を聞き流しながら、彼は一直線に階段を上った。自分の部屋のドアノブに手をかけ、ゆっくりと開く。
そこには、彼の城があった。
勉強机は部屋の隅に追いやられ、中心を占めているのは、プロゲーマーが使うようなハイスペックなゲーミングチェアと、壁一面を覆う巨大なウルトラワイドモニター。そして、その傍らに、異様なほどの存在感を放って鎮座する、純白の流線形カプセル。
『イドラ・リンク・カプセル』。
それは、部屋の雰囲気から明らかに浮いていた。近未来的なデザインと、生活感に満ちた高校生の部屋。そのアンバランスさが、これから起ころうとしている世界の変革を象徴しているかのようだった。
彰は鞄をベッドの上に放り投げると、まるで恋人に触れるかのように、そっとカプセルの冷たく滑らかな表面に手を触れた。ひんやりとした感触が、指先から伝わってくる。
「……明日、か」
呟きは、誰に聞かれることもなく、部屋の空気に溶けて消えた。
彼の高校生としての平穏な日常は、今日で終わる。
明日、このカプセルが起動する時、彼はただの相馬 彰ではなくなる。
一億人の頂点を目指す、孤独な戦士『AKIRA』になるのだ。
*
夜が更け、時計の針が午後10時を回った頃。
シャワーを浴び、軽い夕食を済ませた彰は、再び自室のゲーミングチェアに深く腰掛けていた。壁一面のモニターには、無数のウィンドウが開かれている。そのほとんどが、明日始まる『Aeturnum』に関連するものだ。
巨大掲示板の専用スレッドは、もはや人間の視認能力を完全に超えた速度で、膨大なコメントの奔流を垂れ流している。更新ボタンを押す必要などない。毎秒、数千というコメントが投稿され、過去のログはあっという間に押し流されていく。
『あと2時間! ドリンク剤50本用意した! 俺は寝ない!』
『会社に急な不幸があったことにして明日から一週間休む!上司よ、すまん!』
『今から風呂入るか、明日の朝入るか、それが問題だ』
『ベータ無しのぶっつけ本番とか、イドラ社も思い切ったことするよな』
『↑それだけAIのアルケイディアに自信があるってことだろ。むしろ、プレイヤー全員が同じスタートラインに立てるんだから、最高の采配だわ』
『いや、公式RMTがある時点で平等じゃねえだろjk』
『金も実力のうちってことよ。資本主義社会へようこそ』
皮肉、期待、不安、そして圧倒的な熱狂。あらゆる感情がデジタルの奔流の中で渦を巻き、巨大なエネルギーの塊となっていく。彰はその流れを冷めた目で見つめながら、必要な情報だけを的確に拾い上げていた。
彼は掲示板だけでなく、海外のゲーマーたちが集うコミュニティサイトや、情報解析を専門とするブログなども同時に巡回している。英語、中国語、ロシア語……言語の壁は、翻訳ツールを使えば問題にならない。世界中のゲーマーが、この瞬間に向けて、同じように情報を渇望していた。
(やはり、ウォーリアの初期能力値に関するリーク情報は、どの国でも信憑性が高いと見られているな……)
それは、彼にとって好ましい状況だった。多くのプレイヤーがウォーリアを選択すれば、それだけ情報交換が活発になり、攻略情報が出回るのも早くなる。だが、その他大勢と同じ選択をするということは、競争が激化することも意味する。
(問題ない)
彼は自信を深める。
同じクラスを選んだとしても、プレイングの質、知識の深さ、そして何より、このゲームに懸ける覚悟の量が違う。スタートダッシュで「投資」する資金力も、彼にはある。序盤でつけた差は、雪だるま式に膨れ上がり、やがて誰にも追いつけない絶対的なアドバンテージとなるはずだ。
彼は思考を切り替え、明日のための最終準備に取り掛かった。
モニターの片隅で、事前に作成しておいたチェックリストを確認する。
一、食事と水分の確保。机の横には、一週間は籠城しても問題ない量のカロリーバーとミネラルウォーターが箱で積まれている。
二、体調管理。最高のパフォーマンスを発揮するため、今から日付が変わるまで2時間の仮眠を取る。アラームは10分おきに三重でセット済みだ。
三、通信環境。有線LANケーブルは最高品質のものに交換し、ルーターも再起動した。万が一のプロバイダ障害に備え、スマートフォンのテザリング準備も万端だ。
四、カプセルの状態。全てのインジケーターが正常であることを確認。緊急停止用の物理ボタンの位置も、目を閉じていても押せるように何度もシミュレートした。
完璧だ。彼にできる準備は、全てやり尽くした。
あとは、運命の時を待つだけ。
彰は全てのウィンドウを閉じ、モニターの電源を落とした。途端に、部屋は静寂に包まれる。聞こえるのは、PCの冷却ファンが立てるかすかな音と、壁の時計が秒針を刻む音だけ。その規則的な音が、まるで祭りの始まりを告げる太鼓の音のようにも聞こえた。
彼は椅子から立ち上がり、ベッドへと向かう。
しかし、横になる前に、窓の外へと目を向けた。ごく普通の住宅街の、ありふれた夜景。家々の窓から漏れる光は、その一つ一つの中で、自分と同じように、明日を待つ人間がいることを示唆していた。
学生、サラリーマン、主婦、プロゲーマー。
様々な人間が、それぞれの生活の中で、明日、同じ世界に降り立つ。
その誰もが、自分が物語の主人公になることを夢見ている。
(だが、物語の主人公は、いつだって一人だけだ)
彰は静かにカーテンを閉め、部屋の明かりを消した。
暗闇の中、唯一、その存在を主張するように、『イドラ・リンク・カプセル』のスタンバイランプが、青白い光を点滅させている。まるで、眠る主を誘うかのような、妖しい光だった。
彼はベッドに滑り込み、目を閉じる。
これから始まる、長く、そして過酷な戦いに向けて、心と体を休ませるために。
1億人のプレイヤーが参加する、史上最大の椅子取りゲーム。
その頂点に立つ自分の姿を、彼は暗闇の向こうに、はっきりと幻視していた。