跡を塗り替えて
「え……?」
遅れて反応した私はそうこぼしながら、今の状況を理解しようとする。
私の頭の後ろや背中に当たるのは冷たくてゴツゴツした地面。そして目の前にあるのはフィデリスの顔。
長い髪が下に垂れて、私の顔の横に落ちる。
おお、これが髪カーテンってやつね……ってそうじゃない!!
「フィデリス!?また寝ぼけてるの?」
私は彼に声をかけたが、彼はそれに答えず、あろうことか私のローブのボタンを外した。
私はそれに慌てて、フィデリスの手を掴んで言った。
「な、何してるの!?」
しかし彼は私の手を振り払う。彼に比べれば私の手の力など取るに足らないので、私は簡単に手を離してしまった。
そして彼は私の首を突きながら言った。
「これはなんだ」
そう言われても鏡でもなければ自分の首など見えない。ただ、必死に記憶を巡らせた末に、同じ場所を突かれたことを思い出す。
そういえば、ルシルフリート様が贈り物とかなんとか言いながらなんかしてたね。なんもしてないと思ってたけど、そんなことなかったのかな?
「何があるの?」
私が気になって尋ねてみると、彼は驚くようなことを口にした。
「マーキング」
「えぇ!?」
思わず盛大に驚いた私を見て、フィデリスは不思議そうに首を傾げた。
「何故其方が驚く?」
……うん、それもそうだね。驚いてるのはそっちだよね。
だが私もそんなものだとは知らなかったのだ。私は記憶を辿ってあの時ルシルフリート様が何を言っていたのかを思い出す。
「ちゃんと剥がしてもらえ」、だっけ?シャロンティーヌ様のものだからとかなんとか……。
となると、彼は私があとでこういう状況になることを予想していたのだろうか。彼は私の好きな人を知っていて、その上で……。
つまり状況を整理すると、ルシルフリート様は私に、剥がされることが前提のマーキングをした。そして案の定、フィデリスがそれを見つけてこの状況に。で、おそらく彼の筋書き通りならこのあとフィデリスがこのマーキングを剥がしてくれるわけだけど……、マーキングって剥がすものなの?
っていうかそもそも、彼が私のマーキングを放っておく可能性だってあるよね?自分にとってどうでもいい人が誰かにマーキングされてようが気にしなくない?
まあ正直私は人間なので、竜の考えは分からないのだが。
「誰のものだ」
フィデリスがそう聞いてきたので、私は素直に答える。
「ルシルフリート様だよ、たぶん」
「誰だそれは」
「ドラゴンエンペアの王子様」
私がそう言うと、彼は珍しくチッ、と舌打ちをした。滅多に見れないフィデリスが見れて嬉しい。そんなことを思えるのも今のうちだった。
「忌まわしき王族め……」
彼はそうやら怒っているようだ。これでは彼の竜国王族嫌いは加速する一方だな、と思う。
でも、みんながみんな悪い人ってわけじゃなさそうだし……。
そう思って、私は彼の機嫌を直そうと声をかける。
「ルシルフリート様はそんなに悪い人じゃなかったよ?むしろいい人だと思う。白竜のことも……」
嫌っているわけじゃないみたいだったし、と言おうと思ったのだがその言葉を遮ってフィデリスが言った。
「そいつを庇うのか。随分、仲良くなったみたいだな」
彼の顔色を伺えば、今までに見たことないくらい、怒りをあらわにした表情のフィデリスがいた。
……すごい怒ってる。怒られてる張本人じゃなくても怖いよ。
「我が残した跡を塗り替えるとはな」
フィデリスは忌まわしげにそう呟いた。私にはわけが分からなかったが。
「でも、ルシルフリート様は剥がしてもらえって言ってたよ。剥がせるものなのかはちょっと分かんないけど……」
私の言葉にピクッと反応したフィデリスは、怪訝そうな顔で言った。
「一体何が目的なんだ?その王族は」
「分かんない……」
私もそう返すしかなかった。位の高い人はこういう遠回しなことを好むのだろうか。
まあお礼にはなってるかも。いつもは見れないフィデリスの顔とか見れたし。
私はそう思い、ついニヤついた笑みを浮かべてしまった。それを見てムッとしたフィデリスが言う。
「その王族のことを考えてたのか?其方にそんな表情をさせるようにな存在になったのか、そいつは」
フィデリスは私に跨ったまま、私の頬をつねりながら言う。まさかあなたのことを考えていたなんて言えるわけもなく、私は言葉を濁す。
「そ、そういうわけでは」
「……まあいい」
そう言ってから、彼は私の首に顔を近づける。
「上書きしてしまえば、それも終わりだ」
そう言った彼に対し、なにを、と私が口を開く前に、彼は私の首に牙を立てて齧り付いた。
「痛っ!」
私は思わずそう声を上げる。痛みに思わず暴れた手は、フィデリスの手によって地面に押さえつけられた。
それから二、三回噛まれた後、彼は自分が噛んだ場所を舐める。ぞくっとする感覚に「ひぅっ」という声が漏れた。
顔を離したフィデリスを、涙目になりながら見上げれば、彼は何かに耐えるような顔をしながら、私を見下ろしていた。
「っ、なんで急に噛んだの!」
私が少し怒りながらそう言うと、彼も少し怒ったような口調で返す。
「其方につけられたマーキングを剥がすために決まっているだろう」
「だからって……。せめて一言言ってからにしてよ!」
私は解放された手を首に当てながら言う。顔が熱い。きっと今の私は茹でダコみたいになっていることだろう。
「……其方にマーキングをした王族は、先に断ってからやったのか?」
私はフィデリスにそう言われて考える。そういえば、彼も突然私にやった気がする。
「……でも、あれは別に痛くなかったもん」
私は拗ねたようにムッとしながら彼に返した。
「……痛かったか」
暗い声で尋ねてきた彼に私は答える。
「痛かった」
顔を歪めて泣きそうな表情を作れば、彼はさらに申し訳なさそうな顔になる。
「すまなかった。ただ……」
その後の言葉は、いくら待っても彼の口からは出てこなかった。とりあえず謝罪はしてもらえたので、許すことにしようと思う。
私は手を伸ばして彼の頬に触れながら言った。
「次からは、ちゃんと私の許可を得てからにしてよね」
「許可を得れたらまたやっていいのか」
「なっ!?そ、そういうことじゃない!」
またやるつもりがあるのか、と私が真っ赤になりながら驚いていると、フィデリスは長い間の後で「……冗談だ」と言った。
冗談に聞こえないけど……。
フィデリスはそこで私に跨るのをやめ、私の上から降りる。それから私の手を引いて起き上がらせてくれた。
「……それで、本当は何の用だ?あの驚きようからして、マーキングを剥がしてもらうのが目的で来たのではないだろう?」
フィデリスにそう言われて私はハッと思い出す。
「そうだった!ねぇ、あのマルコシアスのこと、覚えてる?」
私が尋ねると、彼は頷いた。それを見て、私は続ける。
「私はあれはドラゴンエンペアの国王の仕業だって思ってたんだけど、さっきルシルフリート様に聞いたの」
彼の名前を出すと、フィデリスは明らかに不機嫌そうになった。そんな彼には構わず、私は話し続ける。
「国王は今、病床に伏せてるんだって」
「……そうなのか?」
私は彼に頷いた。
「……そうなると、彼が犯人の可能性は薄いな」
「そうでしょ?だからそれを伝えて、一緒に考えたかったの。それだけだったのに、まさかあんなことになるなんて」
私は赤くなった頬を誤魔化すように、それを膨らませて言った。フィデリスはそれに申し訳なさそうな顔をする。
「……でも、どうしてフィデリスはあんなに怒ってたの?寝ぼけてただけ?」
私はふと、彼にそんな質問をした。
彼はそれにどう答えるか迷っているようだった。しかし私は彼の答えを待たずに次の質問をする。
「私、フィデリスの匂いがするってルシルフリート様に言われたの。竜の匂いって、一緒にいれば移るものなの?」
その質問に対して、フィデリスはむせた後で忌まわしげに「余計なことを……」と呟いた。
「……なんで、私のマーキングを剥がしてくれたの?」
私は横にいるフィデリスを見上げながら、そう尋ねた。
「……剥がして欲しくなかったか」
そう言った彼に私はただ静かに首を振った。
それを見て、彼は黙った。それからしばらく何も言わなかったので、彼は答える気がないんだと判断した私は一人考える。
放っておいてもよかったのに、そうしなかったのは、何かわけがあるのかなと思ったけどそうじゃないみたい。
実は私と同じで独り占めしたいとか、思ってくれてるのかなって期待したのに。
「はぁ」
私は思わずため息を吐く。
それに対して、ずっと黙っていたフィデリスが口を開いた。
「……マーキングを剥がすというのはつまり、それを上書きして新たに跡を付けるということだ」
それを聞いて、私は考える。
……つまり私の首には今、フィデリスのマーキングが付いてるってこと!?
混乱する私を置いて彼は続ける。
「元々其方には我と長くいたことで移った匂い、我が付けた跡があった。しかしどこぞの王族がそれを塗り替えて其方にマーキングをした」
自分の体に知らないうちにそんなたくさんのことが起きていたとは。私は驚きに目を見開く。
「だから、その王族に仕返しをしただけだ。其方のマーキングを塗り替えることでな」
彼は私の首にそっと触れながら言った。
それに対し私は、彼の言ったことについて考える。
……それって嫉妬?嫉妬だよね?
私はどこかから湧いてくる嬉しさを噛み締めながら彼に返す。
「そっか。ふふっ」
「なにがおかしいんだ」
怪訝そうな表情で首を傾げる彼に、私は「違うよ」と言った。
「嬉しいの」
そう言った私に、フィデリスは驚いたように目を見開いた。それからフッと表情を和らげて言った。
「そうか」
それから私たちはしばらく見つめ合い、それからおかしくなって笑い出す。洞窟の中に、笑い声が響いた。
いつからこんな甘い話になったんですか、この作品は。