魔王降臨
気づかぬ間に広がっていた曇天の空は、一瞬で村の全てを覆った。
天の光が届かない分厚い雲の層に、一瞬光が刺す。
その瞬間だ。
空が裂けたかと思えば、アルフォンスたちに襲いかかろうとした村人たちの元へ、鋭い雷が一つ叩き落とされた。
「――っ!」
「きゃぁぁあぁっ!」
「なんだ!?」
地響きかと思うほどの揺れ、目が眩むほどの強い光、鼓膜を破らんとするほどの大きな音に、人々はたまらず悲鳴をあげて後ずさる。
ヘスティアもまた突如落ちてきた雷に驚き瞬きを繰り返し、しかしゆっくりとその顔を渋く歪ませていく。
顔を伏せるヘスティアとは逆に、村人たちは口をあんぐりと開けつつ空を指差した。
「……あ、……あれって…………」
「…………まおうだ」
「――っ! 魔王だっ!」
小さく呟かれた声はやがて大きく広がっていく。
人々が指差し叫び悲鳴を上げる中、ヘスティアだけがゆっくりと背後を振り返った。
「――なんでいるのよ」
そこにそれはいた。
切り裂かれた雲の切れ間、稲妻が光るそれを背に男が一人宙にいる。
漆黒の長い髪は毛先の方だけ赤く、まるで燃えているように見えた。
切れ長の冷たく感じる瞳は赤く、人々を虫けらのように見下す。
筋の通った鼻梁に薄い唇。
まるで彫刻のようだと言われる見目麗しい男が、有象無象を一瞥した。
「…………」
魔王はまっすぐとヘスティアを見つめると、その次に鋭い瞳を人間たちに向けた。
「私の娘になにをした――?」
その声が鼓膜を震わせた時、人間たちは無意識にも体を震わせた。
恐怖か、嫌悪か、はたまた享楽によるものか。
ぞわりと背筋が震え、二の腕には鳥肌がたった。
しっとりとした、しかし殺気の混ざったその声に人々は無意識にも恐怖を覚えたのだ。
明らかに己らとは違う存在。
圧倒的強者であることが、そのたった一言で理解できた。
「…………魔王」
人間たちは先ほどまでの殺気を忘れ、ただ現れただけの存在に恐怖する。
手を振るせ武器を落とし腰を抜かす。
人々から全てのやる気を無くさせたその男は、そんな人間たちを一切気にすることなくゆっくりと地上へと降り立った。
「――魔王様! なぜこちらに!?」
「魔王様! ご尊顔を拝謁できて光栄です!」
ルークとラスティの二人に一瞬視線を向けた魔王は、しかしすぐにヘスティアへと向き合った。
「………………」
「……………………」
「………………なにしに来たのよ?」
「……………………娘のこと、普通は心配するだろう」
どうやらヘスティアの身になにか起こったとわかりやってきたらしい。
魔王は魔力のないヘスティアを見てさらに眉間に皺を寄せた。
「どうなっている? ルーク!」
「は! 申し訳ございません。ヘスティア様は魔導具によって魔力を失われたらしく……」
「――魔導具?」
「この村に昔いた魔法使いが作ったものなんですって。それを使われて……不注意だったわ」
不穏な気配を感じていたのに、察せなかった自分が悪い。
そう伝えればなぜか魔王の眉間の皺はさらに濃くなる。
「この村……? たかが人間如きが、私の娘を傷つけたと……?」
それはまるで地響きのようだった。
曇天の空から放たれた太く力強い稲妻は、巨大な音を立てて村を守る門を一瞬で消し炭にする。
その衝撃に地震でもあったかのように地面が揺らぎ、またしても村人たちから悲鳴が上がった。
もはや阿鼻叫喚の村の中で、冷静なのはヘスティアたちだけだろう。
「その魔道具はあるのか?」
「魔道具? それなら……」
アリアが持っているはずだ。
捕えられているアリアへと視線を向ければ、彼女は尻餅をつき青ざめている長の足元で転がっている。
どうやら気を失ったようだ。
「あの女が持ってるはずよ」
「……ルーク、調べろ。ものによってはなんとかなるかもしれない」
「――なんとかなるのか!?」
魔王に詰め寄ったのはアルフォンスだった。
彼は切羽詰まったような顔で魔王へと歩み寄るが、とうの魔王は嫌に冷静である。
必死な様子のアルフォンスを一瞥すると、刃のように鋭い瞳をさらに細めた。
「……勇者。お前を信じて娘を預けたのに、この体たらくはどう説明するつもりだ?」
「――……っ、それはっ」
「ちょっと、これは私の失態よ。責めるなら私を責めなさい」
これは決してアルフォンスのせいではない。
油断した己が悪いのだ。
そう伝えてもアルフォンスを睨みつける魔王の前に、ルークが二本の棘が交差するようなデザインの腕輪を差し出した。
「魔王様。こちらです」
「…………なるほどな」
ルークから受け取った魔王は、腕輪を数秒眺めるともう用はないと言わんばかりに投げ捨てた。
「くだらん。人間どもはいつも下等なことしかしないな」
父親である魔王のことは、娘としてよく知っていた。
ヘスティアの母を心から愛し、魔族を愛し、魔界を愛した。
愛情深い魔王様。
人々がそう口にする男は、娘から見てもそうだった。
だがその愛情は魔族という限定されたものにのみ与えられる。
ここまで嫌悪を表に出す魔王を、ヘスティアは久しぶりに見た気がした。
「これ、治るの?」
「魔界に戻ればな」
地に落ちた腕輪は、魔王の力によって一瞬で燃え上がり消し炭となった。
「この程度の魔法、私にかかれば造作もない」
「じゃあ今すぐに治してよ」
さっさと治してくれれば、ヘスティアもこの村人たちを止められる。
まあもう魔王の登場によって腰を抜かし戦意喪失しているものたちばかりなので、王都に向かおうなんて思わないかもしれないが。
どちらにしても力のない今ではアルフォンスを守ることもできない。
早く元に戻せと魔王に手を差し出したが、彼は静かに首を振った。
「失った魔力を戻すのは簡単ではない。ヘスティアほどの魔力量を戻すなら、最低でも一年は魔界に止まるしかない」




