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修行帰りの肉食令嬢は吸血鬼伯爵を捕獲する

作者: 阿佐夜つ希

「肉うんめええ……じゃなくて大変おいしゅうございますわあ」


 肉は骨付き肉に限るとベアグレルは常々思っている。

 ヴァーリハ公国の君主主催の夜会での、骨付き肉との思いがけない再会。ダンスに興じる男女にくるりと背を向けて、無我夢中で肉にかぶりつく。

 優しき母の用意してくれたドレスを汚してしまわないように注意しながら、むちむちぃっ、と骨から肉をはぎ取っていく。

 ほどよく香辛料の効いた肉のおいしさに、鼻をふんふんと鳴らす。

 父や兄たちの言いつけ通りに充分に咀嚼してから飲みこむと、満足感にため息をついた。


「むは~。久しぶりのお肉……! うんめええ、っとと、美味! 美味ですわ……!」


 山での修行中は、食糧を入手するのもひと苦労だった。そのせいで、食べ物にありつけたときには食事のマナーを守るどころか口調が乱暴になりがちだった。

 食べ物に食らいついているときの荒っぽい口調がうっかり出てしまった瞬間、周囲からの視線を感じた。とはいえベアグレルは昨日まで山にいて魚や木の実、そして果物中心の生活を送っていた。一か月ぶりに食べる肉の前では、周りの目を気にする余裕などない。

 料理の並ぶテーブルのそばにはベアグレル以外誰もいなかった。遠巻きにいぶかしげなまなざしを向けられる。


「なんでしょうあの野生児は」

「レウムスク侯爵家の四女ですよ」

「ああ、レウムスク侯爵家といえば……ご子息様がたはそれぞれ第一、第二、第三騎士団長をお務めになってご立派でいらっしゃるのに、末娘のベアグレル嬢だけは騎士団の入団規定に身長が足りず、入団を希望されていたにもかかわらず試験すら受けさせてもらえなかったそうですね。一体なんのために体を鍛えつづけているのやら」

「あんな野蛮な娘、嫁のもらい手なぞないでしょうに、なぜ夜会にいらしたのでしょうね」

「料理を食い散らかすためでしょうか?」

「そうに違いない」


 どっと笑いが起こる。

 ベアグレルはしょっちゅう大自然の中で修行しているため、耳もよく視野も広かった。

 そのため、華やかな楽団の演奏の合間に聞こえてくるひそひそ話もすべて聞き取れたし、白い目で見られていることにも気付いていた。

 しかしベアグレルにとって今いちばん大事なのは、目の前の料理である。奇異の目で見られていても構わずに食事を続ける。


 一本目の肉をあらかた食べおえて、骨の端についた軟骨をぼりぼりと噛みくだいていく。その硬い歯ごたえを堪能していると、不意に香水の甘い香りが鼻先をかすめていった。


「ごきげんよう、ベアグレル様」


 口をもぐもぐと動かしながら、気取った声の聞こえてきた方に目だけを向ける。

 そこには派手な扇子で口元を隠した令嬢が立っていた。ベアグレルの食事風景を見て眉根を寄せている。

 きらびやかなドレスを身にまとい、髪もきっちりとセットされている令嬢は香水の香りがきつかった。山に咲く花をすべて集めてひとつの瓶の中に閉じ込めたような、甘すぎる香り。料理の匂いの方がよっぽどいい香りだとベアグレルは思った。

 無言のベアグレルを気にすることなく、令嬢が話を切り出す。


「ベアグレル様、貴女また【山ごもり】なさっていたんですってねえ? レウムクス侯爵家のご令嬢は相変わらず野蛮ですこと。いくらレウムクス家の方々が公国の剣として立派に騎士のお務めを果たされているからといって、女である貴女まで鍛える必要はないんじゃありませんこと?」

「……。もぐもぐ……」

「ちょっと! わたくしが話しかけてさしあげているのですから、ずっとお食事なさっていないでお返事なさい!」


 二本目の骨付き肉にかぶりつきながら視線を返して、『話は聞いていますよ』と言う代わりにうなずいてみせる。


(この方、夜会でお会いするたびにお声がけしてくださって、とっても親切なお方ですわね。ええっと、お名前は……)


 とベアグレルは胸の内でつぶやきながら、口の中のものを飲み込んだ。


「ごきげんよう、……もぐもぐ……様……」

「挨拶の途中でお食事を再開なさらないでくださいまし! 口の中にものを入れたまま人の名前を呼ぶなんて、本当に失礼な人ね!」


 令嬢がぷんすかと怒りだした次の瞬間。

 遠くでどよめきが起きた。

 ベアグレルはすっかり肉のなくなった二本目の骨をくわえつつ、令嬢と揃って騒ぎの元に視線を向けた。

 するとそこにはひときわ背の高い男性が立っていた。


 涼しげな目元、彫刻のように整った顔立ち。

 色白な肌。きっちりと撫でつけられた、艶やかな黒髪。

 真っ黒なタキシードにマントをまとっている。マントの内側だけが赤く、鮮やかな色が目を引く。


(あら。お兄さまたちより背が高い殿方なんて、初めて見ましたわ)


 高身長の男性は、会場中の注目を一身に集めていてもまるで意に介していないようだった。涼やかな笑みを浮かべて、夜会の主催者である公爵に挨拶している。

 ベアグレルがその男性を興味津々と見つめていると、人々が男性を褒め称えはじめた。


「これはこれは。まさか我が国の英雄一族の方とお目に掛かれるとは!」

「あの若々しいお姿であっても、御年百十二歳を迎えられているのですよね」

「ええ、かの一族の活躍は曾祖父から聞いたことがあります。我が国の誇りですな」

「ぜひともお近づきになりたいものだ」


 男性陣が賑やかに話す一方で、令嬢が扇子を手のひらに打ちつける動きで閉じつつ声を弾ませる。


「まあ、まあ! まさかあの方にお会いできる日が来るなんて……! これは僥倖ですわね! こうしてはいられませんわ、早速お声がけを……」

「おまちくだひゃいませ」


 ベアグレルは三本目の肉をくわえたまま、がしっと令嬢の細腕を捕らえた。料理の汁の付いたべとべとの手で遠慮なく腕を握りしめる。


「ひいっ!? ドレスが汚れ……いたたた痛い痛い!」

「あら失敬」


 男性を凝視していたせいか、握力のコントロールができなくなっていたのだった。

 ベアグレルは令嬢の腕をつかむ力を弱めると、素敵な男性を見据えたまま隣に問いかけた。


「あの方はどなたですか?」

「クラウラド・エンヴィアープ伯爵ですわよ! 吸血鬼一族の! 公爵閣下のお誘いすら断り続けていて、めったに山奥からお出ましにならないから貴女もご覧になったことがなかったでしょう!」

「山奥? あの方は山奥にお住まいなのですか?」

「吸血鬼一族の方はたいがい山深くのお屋敷にお住まいではありませんか。ご存じなかったのですか? とにかく! 教えてさしあげたのだからさっさと手をお放しくださる!?」

「あ、はい」


 ベアグレルが手の力を抜いた途端、乱暴に腕を振りほどかれる。

 令嬢は、料理の汁のついた辺りをしかめっつらで数回払うと、ぷいとベアグレルに背を向けて歩き去っていった。



 令嬢が、他の女性たちを掻き分けて男性の前に立ち、笑顔で挨拶する。

 食事を再開したベアグレルは、令嬢の様子を眺めながらしみじみ思った。


(大勢の人を差しおいてまっさきに話しかけるその度胸。素晴らしいですわ)


 まばゆい笑みを浮かべる令嬢からはすぐに視線を外して、男性を凝視したまま、もぐもぐと肉を噛みくだく。


(クラウラド・エンヴィアープ伯爵。山奥に住まわれていらっしゃる……)


 ごくんと肉を飲み込んだ瞬間、あることに気付いた。


「つまり、あの方のもとへ嫁げば、わたくしは毎日山で修行ができるということですわね!」


 そう叫んだ瞬間、周りに立つ人々が一斉にベアグレルに振り向いた。またひそひそと話す声があちらこちらから聞こえだす。

 周囲の反応は気にせず、ベアグレルは再び肉に喰らいつきながら頭の中で独り言を続けた。


(旦那さまになっていただく方は『お父さまやお兄さまたちと同じくらい背の高い方がいい』って思ってましたけれども、まさか、お父さまやお兄さまたちの背を()()方がいらっしゃったなんて。驚きですわ)


 自分が公国騎士団の入団条件に届かないほどに背が低いせいで、高身長の人に強いあこがれを抱いていた。

 広いホールに散らばる誰よりも頭ひとつ分抜き出ているその男性は、会場内で唯一その条件を満たしているように見えた。


 ベアグレルは、大好きな母から『早くベアグレルのウェディングドレス姿が見たいわ』としょっちゅう言われていて、その願いを叶えてあげたくて夜会に参加していた。しかし今まで【父や兄くらい背の高い人】と出会えたためしがなかった。そのため、夜会後に『お相手は見つかりませんでした』と報告するのが常だった。


(わたくしも、ぜひともお話ししてみたいですわね)


 しかし男性はすっかり令嬢たちに周りを取りかこまれていて、近づけそうにない。


(こういうときは、焦ってはいけませんわ)


 山ごもり中に小川で魚を手づかみして捕らえるときの集中力で、男性の一挙手一投足をじっとうかがう。

 ひとまず食事を続けつつ、さきほどの令嬢と言葉を交わしている様子を眺める。すると不意に、男性が顔を上げてベアグレルの方を見た。

 赤い瞳から繰り出される眼光は鋭く、まるで霧の中で予期せず巨大な蛇に出くわしたときのような緊張感を覚える。

 しかし男性はベアグレルと視線がぶつかった瞬間、はっと目を見開き、すぐに視線をそらした。

 目を伏せたその面持ちは、どこか寂しげだった。


(あら? なぜあのようなお顔をなさるのかしら)


 今まさに目の当たりにした男性の表情の変化に、ベアグレルは疑問を抱かずにはいられなかった。これまで男の人に怪訝な顔をされたことはあっても、寂しげな表情を浮かべられたことは一度もなかったからだ。


 口直しのベリーをぽいぽいと口に放り込みながら、あれこれ考えてみる。

 小粒の果実を噛んだ瞬間、あることをひらめいた。

 ベリーのすっぱさに口をすぼめつつ、心の中で叫び声を上げる。


(分かった! お腹が空いているのにみなさまに囲まれているからお食事ができないのですね! これはぜひ、わたくしがお料理をお持ちしてさしあげないと!)


 新しい皿を手に取り、おすすめの料理を素早く盛りつけていく。

 男性は相変わらず令嬢たちに次々と声を掛けられていて、一見近づくことすら叶わないような状況だった。

 しかし家訓で山ごもりを課せられていて心身ともに鍛えているベアグレルの目には、人々のわずかな隙間は一目瞭然だった。するすると人垣をすり抜けて、あっという間にお目当ての男性の前に辿りつく。


「ごきげんよう、クラウラド・エンヴィアープ伯爵様」

「ど、どうも」


 余裕の笑みを浮かべていた吸血鬼の男性――クラウラド・エンヴィアープ伯爵が、ベアグレルを見た途端に頬を引きつらせる。


「お腹が空いていらっしゃるのでしょう? お顔を見ればわかりますわ。こちらにわたくしのおすすめのお料理をお持ちいたしました。ささ、どうぞ遠慮なさらずお召しあがりくださいませ」

「ちょっとベアグレル様!?」


 さきほどの令嬢が金切り声を上げる。


「馬鹿じゃないの!? そんなわけないでしょう!? そうですわよね、クラウラド様?」


 と令嬢がクラウラド・エンヴィアープ伯爵に振りむけば、同意を求められた伯爵が顔をこわばらせたまま何度か小さくうなずく。

 食事をしたがっているに違いないと確信を持っていたベアグレルは、予想外の反応に驚かずにはいられなかった。伯爵を見上げて小首をかしげる。


「お腹はすいてはいらっしゃらないのですか?」

「え? えーと。まあ、そう、ですね」

「ほら、貴女なんてお呼びじゃございませんわ」


 伯爵の歯切れの悪い返事に令嬢が声をかぶせて、しっしっと追いはらう手付きをする。


「さっさとお食事に戻りなさいな、ベアグレル様」

「はい! ではお言葉に甘えて。むしゃむしゃ……」

「ここで食べろという意味ではございませんことよ!?」


 ベアグレルが皿の上のものをぽいぽいと口に放りこみ出すと、令嬢も他の女性たちもみな一斉に口をぽかんと開けた。

 周囲の反応を気にすることなく、自分の厳選した料理を堪能する。

 ベアグレルが食事を楽しむ前で、クラウラド・エンヴィアープ伯爵が女性たちを笑顔で眺めわたした。


「みなさまとお話しさせていただきたいのは山々ですが、少し休憩させていただきますね」


 と言ったそばからするりと人の輪をすり抜けて、衆目を集める中を歩きだす。

 その後ろ姿をベアグレルは目で追った。伯爵はどうやら庭を目指している様子だった。


(お庭に出て、夜風に当たりたいのかしら)


 ベアグレルはすっかり空になった皿を給仕に預けると、黒いマントをひるがえす背中を見据えてめいっぱい腹の底から息を吸いこんだ。


「お待ちくださいませクラウラド・エンヴィアープ伯爵様!」


 ホールに大声が響きわたる。ベアグレルは、すぐさま駆けだして数歩の助走をつけると床を蹴ってシャンデリアに届くほどに高く飛び上がった。足早に庭を目指す伯爵の背後から飛び掛かり、その真後ろに着地すると同時に伯爵の腕をつかんで引きとめる。途端に伯爵がびくりと肩を跳ねさせた。


「ひいっ!」

「失礼。我が家の家訓で【狩りに出たら必ずや獲物を仕留めなければならない】のですわ」

「狩りですか!? いやあはははそれはすごいですね。ですが私、ちょっと用事を思い出しまして。それでは失敬」


 握りしめた腕の手ごたえが、ふっとなくなる。かと思えば伯爵の全身が見る間にばらばらになり、大量のコウモリと化した。

 空中に人型を描きだすコウモリたちが、しきりに羽をはばたかせて、開け放たれたガラス扉から脱出していく。

 それを追ってベアグレルも庭に躍りでた。しかし黒いコウモリはあっという間に夜空に溶け込んでしまった。


「行ってしまわれましたね……。『わたくしの旦那さまになってくださいませんか』とお尋ねしようとしていたのに」


 などとつぶやきながらもベアグレルはこの機会を逃すつもりはまったくなかった。

 肘にもう一方の腕を引っかけて背中を伸ばし、続けて後ろに大きく一歩足を下げるとふくらはぎを伸ばした。

 簡単な準備運動を終えて、すうっと息を吸いこみ精神を集中する。


 次の瞬間、ベアグレルは石畳を駆けだすと室内でジャンプした時以上に高く飛びあがった。

 夜の闇に目を凝らし、最後尾のコウモリに手を伸ばす。


「逃がしませんわ!」


 コウモリの羽を人差し指と中指で挟みこんだ瞬間、ギギッと鳴き声を上げたコウモリがばたばたと暴れはじめた。

 しかしベアグレルの指を振りほどくほどの力はなかった。軽々とその一羽を捕らえたまま地面に着地する。

 直後、ばらばらに飛んでいたコウモリがベアグレルの手元に集まってきた。またたく間に人型を描き出し――元のクラウラド・エンヴィアープ伯爵の姿に戻った。

 宙に横たわった風な姿勢で固まっている伯爵をベアグレルは両手でしっかりと受け止めた。たくましい兄すら難なく抱きあげられるベアグレルには、細身の伯爵をお姫さま抱っこするなど余裕だった。


 抱きかかえられた状態で目を丸くする伯爵が、おびえた小動物のようにおそるおそるベアグレルを見る。


「び、びびびっくりしたあ……! 無理やり人間の姿に戻されたのは初めてだ」

「驚かせてしまって申し訳ございません、クラウラド・エンヴィアープ伯爵様」


 ベアグレルは、担いでいた大木を下ろすときのような慎重さで伯爵を石畳の上に立たせた。伯爵と改めて向かい合い、ドレスのすそを持ち上げて、家庭教師に教えこまれた通りの挨拶の仕草をしてみせる。


「初めまして、クラウラド・エンヴィアープ伯爵様。わたくしレウムクス侯爵家のベアグレルと申します。わたくし、山奥にお住まいであるというあなたのもとへと嫁いで、毎日修行をさせていただきたいのです。ぜひわたくしの旦那さまに……」

「ちょっと待って待って展開が早い!」

「え? あ、はい」


 目の前に手のひらを突きだされて、ぴたりと黙りこむ。

 伯爵は手を下ろしてベアグレルと視線を合わせると、必死な形相で話しはじめた。


「貴女のことは存じ上げておりますよ、ベアグレル嬢! 貴女、昨日まで山で修行なさってましたよね」

「ええ、その通りでございますが……。まさかご覧になっていた方がいらっしゃったなんて、まったく気づきませんでしたわ」


 焚き火で焼いた魚にかぶりついたり、『次こそは兄さまたちに勝ってみせる!』などと叫びながら大木を蹴りたおしたり。そうして過ごしている間、動物がやってきたことは多々あっても、人の視線を感じたことは一度もなかった。


(誰かに見られていたことに気づけないなんて、わたくしも修行が足りませんわね。また山ごもりをしなくては)


 とベアグレルが考え込んでいると、ふと伯爵が寂しげに微笑んだ。


「ベアグレル嬢。せっかくお声がけいただいたところ、恐縮ですが……。私は貴女にふさわしくないのです」

「そうですか……。人の気配に気づけないような修行不足の小娘なんて、吸血鬼であらせられるあなた様のおめがねには……。でもわたくし、ぜひとも山奥に移り住んで修行を……、あら?」


 たった今言われた言葉を頭の中で繰り返す。

 違和感を覚えたベアグレルは、何度も目をまばたかせた。


「今、なんとおっしゃいました?」

「私の方が、貴女のお相手としてふさわしくない、と申しております」

「なぜです? 逆ではありませんか?」


(こんなにも素敵な人が、わたくしにふさわしくないなんてありえないのに。どうしてご自身を卑下なさるのかしら)


 ベアグレルが首を傾げていると、伯爵が苦笑いを浮かべた。


「私が吸血鬼であることは、ご理解いただけていますよね?」

「ええ! コウモリ化して宙に舞えるなんて、とっても素晴らしい能力ですわね!」

「はは、それはどうも……。でしたら話は早い。吸血鬼というものは、太陽の光のもとでは生きられないのです」

「……? はい、もちろん吸血鬼の方々の特性は存じ上げておりますわ」


 吸血鬼一族は、ここヴァーリハ公国の歴史を語るうえで欠かせない存在である。そのため公国の子女は必ず吸血鬼について学ぶ。ベアグレルもまた、家庭教師にひと通り習ったことがあった。

 ベアグレルが張りきって返事した途端、伯爵が切なげに目を細めた。


「さきほど私は『貴女の修行姿を見守らせていただいていた』と申しましたが、木陰から密かに貴女を見るたびに思っていたのです。『貴女は日の光が本当によく似合う』、と。まばゆい日差しを浴びて、いきいきと野を駆けまわるお姿、とても輝いていた。百年以上生きてきて、あれほどまでに心躍る光景を見たのは初めてです」

「それは恐れ入ります……。それにしても伯爵様は、すいぶんと長いこと、わたくしの修行の様子を見張られていらっしゃったのですね」

「ええ! 川で水浴びをなさる姿も一度だけ拝見したことがあります。弾ける水滴がきらきら光って本当に綺麗だったなあ……」

「えっ」


 うっとりとした顔で語る内容に、ベアグレルは愕然とせずにはいられなかった。


「あの~伯爵様? わたくしが水浴びしていたところまでご覧になっていたんですの?」

「ええ、ええ! 見てましたとも! 実に美しい光景でした……! 今でも目に焼きついておりますからね」

「……!」


 聞き捨てならない発言に、ベアグレルはわなわなと身を震わせはじめた。


「あの~、クラウラド・エンヴィアープ伯爵様? そのとき、わたくし裸じゃありませんでした?」

「あーっ! そ、それはその……!」


 色白な顔が一瞬にして真っ赤に染まる。あたふたと両手で口を押さえた伯爵は、ベアグレルと目が合った途端、がばっと土下座した。

 石畳に額をこすりつけて、焦り声を庭に響かせる。


「ご無礼をお許しくださいベアグレル嬢! ですが言い訳をさせてください、あまりの美しさに始めは妖精だと本気で思っていて! 妖精に会えるなんてラッキーだな、と見とれていたのです!」


 ばっと音が鳴るほどに素早く頭を起こす。

 額にすり傷を作った伯爵は必死な形相でベアグレルを見上げると、涙目で弁解を続けた。


「いつもはまとめていらっしゃる髪を下ろされていましたし、お召し物を身に着けられるまでずっと、貴女だったと気付けなかったのです! みずみずしく健康的な素肌、しなやかで引きしまった肢体、どこからどう見ても妖精そのものでしたので……!」

「んがっ。そ、そんなっ、詳しく形容なさらないで……」


 例えば夜会で料理をむさぼる姿を注目されたところで、恥じらいを感じたことなど今までに一度もない。しかし家族以外の男性に裸を見られたという事実は、ベアグレルを大いに動揺させた。

 兄たちに裸を見られてもなんともないのに、相手がこれほど魅力的な人であれば恥ずかしくなるらしい。そんな自身のうろたえっぷりにすら困惑させられる。


「とにかく! 嫁入り前の乙女の裸を見るなんて、とんでもないことでございますわよ!?」

「はい、本当に、おっしゃる通りでございます……」


 先ほどまで赤面していた顔が、見る間に青ざめていく。

 伯爵は、打ちひしがれた表情をしてしおしおとうなだれた。

 ベアグレルはヒールの音を鳴らしながらその前に歩み寄って腕組みすると、伯爵の後頭部を見下ろした。


「責任、取っていただけますこと?」

「うう~本当に申し訳ございませんでしたあ。どのように責任を取ればよろしいでしょうかあ」


 今にも泣きだしそうな声で問いかけてきた伯爵の腕を引いて、強引に立ち上がらせる。

 脱力しきった様子の伯爵は、首をがくんとのけぞらせた。白い喉が夜の闇に浮かび上がる。

 ベアグレルはもう一度腕を引いて無理やり顔を起こさせると、赤い瞳を覗きこみ、にっこりと微笑んでみせた。


「クラウラド様。わたくしの旦那さまになってくださいませ!」

「え! いやその、ですから私は貴女にふさわしくないと……」

「そんなことございませんわ! 自信をお持ちになって!」


 伯爵の肩をつかんで前後に揺さぶる。その動きに合わせてぐらぐらと頭を揺らす伯爵は、撫でつけてあった黒髪がすっかり乱れていた。


「白状します、ベアグレル嬢。私は貴女が初めて山にお越しになったときからずっと、山へ修行に来られるたびに、こっそり見守らせていただいてきたのです」

「わたくしが山へ行くたびに、ですか!?」


 レウムクス家の伝統で、十六歳から成人するまでの四年間、年に一度、山で修行をしなければならない。ベアグレルは兄との手合わせで負け続きで、悔しさのあまり月に一度は山ごもりをし続けてきたのだった。しかも、そもそも成人を迎えれば終了のはずの修行を二十一歳になった今でも続けている。

 思いのほか長期間に渡って見られていたらしい。ベアグレルが呆気に取られていると、力なく首を傾けたままの伯爵が弱々しくつぶやいた。


「あなたの頑張る姿をひそかに見守らせていただくだけで、充分だったのに……」


 ベアグレルは再び伯爵の肩を引いて頭を起こさせると、寂しげな表情を浮かべる顔をじっと見つめた。


「クラウラド様。わたくしがおそばにいては迷惑ですか?」

「迷惑なものですか。私はただ、こっそり見守ってきた貴女とお話しできただけで天にも昇る気持ちだというのに、その上結婚だなんて……。ああもう体を保つの無理ぃ……」


 つかんでいた肩の手ごたえが、ふっと消え失せる。伯爵の体がばらばらになっていき、人型を描くコウモリの群れと化す。


「逃がしませんわ、クラウラド様」

「はひぃ……」


 ベアグレルはコウモリのうちの一羽の羽を難なく捕らえると、すぐに伯爵を人間の姿に戻した。

 しりもちをついた姿勢になった伯爵の首根っこを、がしっとつかみあげる。


「家族に紹介いたしますね! ささ、参りましょう!」

「え! いやまだ心の準備が……!」


 座り込んだままの伯爵の襟を引っぱり、マントに乗った体をずるずると引きずって室内に戻る。

 周囲の注目を一身に浴びても気にせずに、ベアグレルは晴れやかな気持ちで腹の底から息を吸い込むと、遠くに見える父親に大声で呼びかけた。


「お父さま~! 獲物……ではなくて旦那さまをゲットしましたわ~!」

「おお! でかしたぞベアグレル! さすが私の娘だ!」


 父と、そのそばにいる家族がすぐさま振り返る。

 鍛え抜かれた肉体が自慢の父は、タキシードのはち切れそうな胸を張って笑い声を響かせた。

 その隣には、ベアグレルと同様に小柄な母が優しい笑みを浮かべている。

 騎士として名高い三人の兄も、みな一斉に笑顔になった。


 家族の前に到着し、伯爵をつかんでいた手を離す。すると伯爵はよろよろと立ち上がり、膝に手を突いて肩で息をしはじめた。いつの間にかマントがなくなっている。ベアグレルが引きずるうちに取れてしまったらしい。

 マントはひとまずあとで探そうと思いつつ、ベアグレルが未来の夫となる人を一同に紹介しようとした矢先、顔の前を手で遮られた。


「お待ちくださいベアグレル嬢! 私が貴女と結婚するだなんて、おこがましいにもほどがあります」

「おこまがしい? なぜです?」

「私は吸血鬼なのですよ? 陽光のもとにいるべき貴女を、夜の闇に閉じ込めるわけにはいきません」

「あら、クラウラド様。それだけが理由であれば理由にもなりませんわ。私、月夜も大好きですのよ?」


 山ごもりをしはじめた当初は夜の暗さにおびえていたこともあった。しかし幾晩もひとりで過ごすうちに、月明かりに照らされる世界の美しさを知ったのだった。

 伯爵が、困った風な笑みを浮かべる。


「知っておりますよ、貴女が月夜も好きなことだって」

「え?」

「貴女は満月の晩、顔をほころばせて月を見上げていたではないですか。綺麗、と呟いて」

「……!」


 山ごもり中はずっとひとりだったベアグレルは、確かに満月を見てその美しさを言葉にしていた覚えがあった。

 周りに誰もいないからこその行動を見られていたと分かり、ベアグレルは思わず声を張りあげてしまった。


「水浴びのみならず、そんなところまでご覧になっていたんですの? 朝から晩まで飽きもせず!」

「飽きるわけないでしょう! いくらでも眺めていられますよ貴女のことは!」


 するとすかさず兄たちが『分かるなあ……』と口々につぶやいた。

 三人の兄たちも、伯爵と同意見らしい。ベアグレルがきょとんとしていると、のんびりとした声が割って入ってきた。


「あー君たち」


 恰幅のいい中年男性が、一家と伯爵を眺めて苦笑いを浮かべる。

 その人は夜会の主催者、ヴァーリハ公国を治める公爵だった。

 ベアグレルはとっさに姿勢を正してスカートを軽く持ち上げると、何度も練習した通りの仕草で公国一の偉い人に挨拶した。


「ごきげんよう、ヴァーリハ公爵閣下」

「クラウラド卿、そしてベアグレル嬢。イチャつくのはせめて庭に出てからやりなさい」

「はっ! 失礼しました」


 ベアグレルがはきはきと答える横で、伯爵が『イチャついてるわけではないですよう』と小声でつぶやく。

 衆目を集める中、ベアグレルはずっとうなだれている伯爵の腕を引いて強引に歩かせた。ふたりで庭へと出る前に、まずは悔しげな顔をした令嬢の元へと向かう。

 令嬢の前で立ち止まれば、広げられた扇子で口元を隠した令嬢が怪訝な表情を浮かべる。


「な、なにかご用ですの? ベアグレル嬢」

「先ほどは親切にしてくださってありがとうございました!」

「なんの話です?」

「伯爵のお名前を教えてくださったではありませんか」

「いちいち礼などおっしゃらなくて結構です! そんなくだらないことで伯爵様をお待たせしていないで、さっさとお行きなさいな!」

「はい!」


 ぷいと顔をそむけた令嬢にベアグレルはめいっぱいお辞儀をすると、再び伯爵の腕を引いて外に出た。




 先ほどは見る余裕のなかった夜空を見上げると、そこには満月が浮かんでいた。


「わあ、きれいなお月さまが出ていますね!」


 感激しながら振りかえれば、まぶしいものを見るようなまなざしと目が合う。


「どうされました? 満月の明るさは苦手でいらっしゃる?」

「いや、そういうわけではないのですが……」


 伯爵が、言葉を濁しながら視線を逸らす。

 ベアグレルはその態度を不思議に思ったものの、伯爵に『さ、参りましょう』と促されたため、すぐに考えるのをやめた。




 月光の降る庭園を、るんるんとスキップしながら散歩する。

 夜の山の景色なら見慣れているものの、きれいに整えられた庭の夜は初めてだった。

 月明かりを帯びた花や草木を、きょろきょろと観察する。


「満月の夜は、草木がきらめいて見えますわね」

「そうですね」

「わたくし、夜目がきくので新月の夜でも歩けますのよ」

「それはすごいですね」


 すぐに返ってくる相づちは、どことなく寂しげな響きを帯びていた。ぴたりと足を止めたベアグレルが振りかえると、伯爵は沈鬱な面持ちをしていた。

 どうしたのかとベアグレルが問うより先に、伯爵が話しだす。


「ベアグレル嬢。貴女は吸血鬼の生態をご存じですか?」

「あ、はい。ええっと、太陽の光に弱いこと、ニンニクが苦手なこと……」

「他には?」

「えーと、なんでしたっけ」


 まだなにかあった気はしたものの、すぐには出てこず首をかしげてみせる。

 すると伯爵は眉根を寄せて、小さくため息をついた。


「人の生き血を吸いたくなってしまう生き物なのですよ。誰かを犠牲にするのは抵抗があるため、私は生肉で代用していますが」

「ああ、そうでしたわね。お肉はわたくしも大好きです! 生の状態で喰らいついたことはございませんけれども」

「先ほど貴女は私に『旦那様になって欲しい』とおっしゃいましたが、私のような者が伴侶を持てば、吸血鬼の根源的欲求で、おそらくその方に血を分けていただきたくなってしまうわけでして……」


 そこで一旦言葉を区切った伯爵は、地面に視線を落とし、しかしすぐに顔を上げた。

 赤い瞳がまっすぐにベアグレルを捉える。


「……その方にご負担をおかけしてしまうことになるわけです。だからこそ私は、公爵閣下のご招待をお断りしつづけて出会いの場を辞して、今まで誰とも婚姻を結ばずにいたのですよ」

「そうだったのですね。今日は、なにかお心変わりがあったのですか?」

「本日は、両親から『今まで散々断り続けてきたのだからそろそろ行ってこい』とたしなめられて、ここに参った次第です。それにしても、つくづく吸血鬼というものは今の時代にそぐわない生き物だと思います。一族の中でも『生きるために生き血を求めることは、我らを吸血鬼たらしめる本能である』と主張する者がいる一方で、『誰かを傷つけなければ生きていけないなんて、いっそ滅びるべきだ』と言う者もおり、意見が分かれてしまっておりますし」

「滅びるべきだなんて、それは大変なことですわね……。クラウラド様は、今まで血をお飲みになったことはないのですか?」

「吸血鬼一族が、公国から保護されていることについてはご存じですか」

「ええ。百年前に公国が大嵐に見舞われた際、吸血鬼一族の方々が総動員で嵐を操って終息させたのですよね。その多大なる貢献により、我が国はヴァンパイアハンターの入国を禁じるほどに、吸血鬼一族を大事にしている……。家庭教師から、そう歴史を学びました」

「その通りです。それ以降、褒賞として国から血液を提供していただいているのですよ。十年に一度、ごく少量ですので一人当たり数滴になってしまいますが。それだけでも生きていくことはできますので、少なくとも私個人は国に頼りきりであるのが現状です」

「本当はもっとお召し上がりになりたい?」

「本音を言えば……そうですね。しかし人を傷つける行為ですので、幼い頃より欲求を抑える術は身に付いております」

「でしたら……」


 ベアグレルは顔の横に垂らした髪を張りきって払うと、伯爵に向かって自分の首をさらしてみせた。


「わたくし『血の気が多い』って昔から言われておりますの。いくらでもお飲みになっていただけますわ」


 旦那様となる人を喜ばせてあげることができるかもしれない――。

 それを思えば途端に心が弾みだす。ベアグレルはいてもたってもいられず月光の中を駆けだした。

 スカートをひるがえしながら伯爵に振りかえり、満面の笑みを浮かべてみせる。


「ほら! わたくしほどあなたにぴったりの伴侶はおりませんでしょう?」

「……!」


 ベアグレルを見つめる目が見開かれる。赤い瞳がわずかに揺らぐ。

 直後、足早に歩み寄ってきた伯爵の長い腕が差しのべられた。その意図が分からずただ見つめている間にぐいと引き寄せられて、気づけば腕の中に収まっていた。初めての父や兄以外の男性との抱擁に、たちまち心臓が騒ぎだす。


「わわ!? クラウラド様!?」

「……やられた。降参だ」


 苦笑まじりの声が降ってくる。ベアグレルは、抱きしめられた腕の中でおそるおそる伯爵の顔を仰ぎ見た。するとそこにはどこか切なげな、それでいて温かな笑みが待ち構えていた。


(なんて優しそうな笑顔なのかしら)


 誰かの顔に見とれてしまうのも初めての経験だった。山で見かけたきれいな花を眺めているときの気持ちでじっと見つめる。すると不意に伯爵が顔を近づけてきた。

 驚く隙も与えられず、まぶたに唇が触れる。今まで生きてきてそこに感じたことのない感触に、山で熊と対峙したときのように心臓が早鐘を打ちはじめる。


「ほわ!? なっななな、なにを……」

「夫婦となるのでしょう? これしきで照れていては先が思いやられますね」

「こ、これしきって……はわわ……」


 全身がかっと熱くなり、ゆだった頭がぐらぐらと揺れはじめる。

 伯爵の腕の中でぐるぐると目を回していたベアグレルは、しかしすぐに正気を取り戻すと、自分の頬を両手で思い切り叩いた。

 抱擁を振りほどいて大きく後方に飛びのき、自分を鼓舞すべく声を張りあげる。


「みっともない姿をお見せしてしまい申し訳ございません! まだまだ修行が足りない証拠ですわ! わたくし今からまた山ごもりして参りますので、結婚式は修行を終えてからにいたしましょう!」


 ベアグレルが修行をしている山は、公爵邸からは一晩中走りつづけても辿りつかない距離にある。近場の山は兄たちが修行場としていたため、ベアグレルは遠くの山でしか修行できないのだった。しかし走るのもまた修行の一環だと思い、ベアグレルは気合を入れるとその場で準備運動を始めた。

 ドレスをまとったままでも構わずに駆けだそうとした矢先。

 手首をつかまれた。

 またたく間に引きよせられて、今度は背後から抱きしめられる。


「だめです。逃がしません」


 伯爵にぎゅっと抱きよせられて耳元で囁かれた瞬間、ぞくっと全身に震えが走った。

 その感覚もまた、ベアグレルには初めての経験だった。


(どうしちゃったの私! クラウラド様に囁かれるだけで身がこわばってしまうなんて! こんな、こんなのって……)


「どりゃーっ!」


 伯爵の腕をつかんで思いきり引っぱり、細身の体を背負いあげて芝生の上に叩きつける。

 空を見上げる形となった伯爵は、目を丸くするばかりだった。


 あぜんとする表情を見下ろして、必死な訴えを繰りだす。


「クラウラド様! 吸血鬼の技を使うのはフェアじゃありませんわ!」

「技!? いえ、なにも使っていないのですが……」

「結婚は! 必ずしていただきますから! もっと心身を鍛えてからにさせてはもらえませんか!」

「ふふっ……、はははは」


 伯爵が、仰向けになったまま腹を抱えて笑い出す。

 その反応をベアグレルが不思議がっていると、ゆっくりと起きあがった伯爵がその場に膝を突き、胸に手を置いた。

 ベアグレルを見上げて、まぶしいものを見るかのように目を細める。


「ではぜひ、未来の夫であるわたくしめにその修行のお供を務めさせていただきたい。そもそもあなたがいらっしゃる山に、我がエンヴィアープ家の屋敷があるのですし」

「それは知らぬ間にお邪魔しました! ですがお供についてはご遠慮くださいませ! ひとりでなければ鍛えられませんもの! レウムクス家伝統の修行は、孤独の中で鍛えることに意義があるのです!」

「だめです。もう片時も貴女と離れたくない。離したくない」


 素早く立ち上がった伯爵に、またしても抱きよせられた。


 力強い抱擁、衣服越しに伝わるぬくもり。心臓が騒ぎだし、全身が固まる。伯爵の力はおそらく普段のベアグレルであれば難なく振りほどけるはずだった。しかし冷静さを失った今のベアグレルにできることは、息を弾ませながらただ抱擁を受け入れることだけだった。

 振り回されっぱなしの状態に混乱しつつ、正直に弱音をこぼす。


「なぜかしら……、あなたに抱きしめられると体が動かなくなってしまいますの。自身を制御できなくなるなんて、まだまだ弱い証拠ですわ」

「私もですよ。貴女に心を奪われた私は、貴女を抱きしめるこの手をどうしても止められないのです。ほら、お互いさまでしょう?」

「そ、そういうものなのでしょうか……?」

「そういうものなのでしょうね、きっと」


 温かな声が心に沁みこんできて、本当にそうなんだなという気持ち以外に何も浮かんでこなくなる。

 ベアグレルが伯爵の腕の中で固まっていると、不意に抱擁が解かれた。

 優しく手を取り上げられる。指が絡められて、腕を引かれる。

 手をつないで散歩を再開しようということらしい――。うながされるまま、ベアグレルは騒がしい胸を押さえつつ歩きはじめた。



 ゆっくりと歩く間にも伯爵がぎゅっと手を握り締めてきて、その力強さに胸が高鳴る。


(手を握りかえしても大丈夫かしら。力の加減ができずに伯爵の骨を折っちゃったらどうしましょう)

 

 と、ベアグレルが迷っているうちに、伯爵がぽつりとつぶやいた。


「私はこれまでずっと、貴女を山でお見かけするたびに『決してあの人に惹かれてはならない』と自身に言い聞かせてきたのです。必死だった過去の自分に言ってやりたいですよ。『ベアグレル嬢は、自ら私の胸に飛び込んで来てくれた』って」

「そんなに昔から、わたくしに興味をお持ちくださっていたのですか?」

「ええ。誰も寄りつかない山奥に、貴女はおひとりでいらして……。眷属の動物たちから『山で暴れ回ってる人間がいる』と報告があり、警戒しながら様子を見にいってみたら、こんなにも愛らしいお嬢さんだったのですから本当に驚きました」

「その……【愛らしい】という形容はわたくしには似合いませんわ」

「本気で言っているのですか?」

「え? ええ」


 しきりにうなずいてみせる。すると、つないだ手が持ち上げられて――御辞儀をする風に頭を下げた伯爵が、ベアグレルの手の甲に唇を寄せた。

 その優しい感触にどぎまぎと視線をさまよわせていると、伯爵が、ぎゅっぎゅっと何度か手を握りなおした。重ねたふたりの手の陰で、口元を微笑ませる。


「これは……()()()()がありそうだ」

「お勉強、ですか?」

「ええ。貴女がどれだけ魅力的かって、貴女自身に教え込まないとなりませんね。私以外にその魅力を振りまかれてしまっては、おちおち棺桶の中で眠ってもいられませんので」

「そんな、ないものは振りまきようもありませんし、万が一、あなた以外の男が寄ってきたら……」

「寄ってきたら?」

「――こう!」


 めいっぱい足を踏み込んで、ひゅっと音を鳴らして拳を突きだした。

 腰を落とした臨戦態勢のまま、将来の夫に振りむいて微笑んでみせる。


「あなたの御心を乱すものはすべて、この拳で必ずや撃退してみせますわ! だから安心してお休みくださいましね?」

「……それは頼もしいですね」


 伯爵が、額に手を当てて笑いだした。



 笑い涙の浮かんだ目が、月光に照らされてきらきらと輝いている。

 その美しさに目を奪われていると、笑いを収めた赤い瞳が空を見上げはじめた。

 視線を追って同じ方向を見上げる。すると真ん丸な月は先ほど見たときより高い位置で、夜空の主役となっていた。


「クラウラド様。今宵の月は、一段ときれいですわね」

「そうですね」

「山でお月さまを見上げていたときに思い描いていた夢が、叶ってしまいましたわ」

「夢、ですか?」

「いつか素敵な人と出会えたら、その方とこうして美しい月を眺めてみたいと思っていたんですの。本当に、ありがとうございます」

「そうなのですね。貴女の夢を叶えてあげられて幸せだ」


 うれしそうな声に導かれるように、視線を伯爵の方へと向ける。

 途端に宝石のような瞳に射すくめられる。

 赤々と光る双眸に目を奪われていると、伯爵がそっとまぶたを伏せて顔を近づけてきた。

 修行に明け暮れていたベアグレルであっても、仲良くなった男女がこういうときになにをするのかは知っていた。


(も、もしかしてこれは! 口づけをしてくださるのかしら!?)


 初めての経験にどきどきしながら、ぎゅっと目を閉じて思いきり唇を突きだした。


「……ふふ」


 笑い声が聞こえてくる。


(笑っていらっしゃる!?)


 動揺して目を見開いた瞬間。


「わわっ……」


 伯爵は唇ではなく頬にキスしてきたのだった。

 それでも家族にされるそれとはまったく違う感触に、たちまち顔が燃え上がる。

 頭がくらくらして、何も考えられなくなる。


「はわわ……」


 心臓が口から飛び出してきそうなくらいどきどきしている。

 ベアグレルがぐるぐると目を回していると、ふと伯爵がなにかに気づいた顔をした。


「おや、もしかしてお腹を空かせていらっしゃる? お食事を中断させてしまっておりましたね。そろそろ中に戻りましょうか」

「あ……」


 背を向けて歩き出そうとした伯爵の腕に手が伸びる。なにかを思うより先に、ベアグレルの手は伯爵の腕をつかんでいた。

 振り返った伯爵が、不思議そうな表情に変わる。


「どうされました?」

「クラウラド様。わたくし今はお食事より……クラウラド様とここで一緒に過ごす方が、うれしいです」


 と言った途端にはっとして両手で口を押さえた。


「……夜会でお食事よりしたいことができるなんて、初めてですわ」

「そうなのですね。それは光栄です」


 満月より光り輝く笑顔を向けられる。その美しさにときめかずにはいられない。幸せそうな笑顔に、ただただ見とれてしまう。

 すると伯爵は改めて顔をほころばせたあと、再び満月を見上げた。ベアグレルもまた伯爵の視線をなぞるように夜空に目を向けて、月のまばゆさに目を細めた。


 夜会では、いつもお料理に夢中になってばかりだったのに――。

 今はこうして、素敵な吸血鬼様が隣にいてくださる。


(いくら血を飲んでいただいても大丈夫なくらい、たくさん鍛えて、たくさんお腹を満たして差しあげますわ)


 涼しい夜風が火照った頬に心地よい。

 それ以上に、つなぎ合わせた手から伝わる熱が心に安らぎを与えてくれる。


 山奥でいつもひとりで見上げていた月は、ふたりで見ると一段と美しく輝いて見えた。



〈了〉



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