9、収穫祭(side:カロリーヌ)
あぁ、またやってしまったわ。ブランシュちゃんだけ飲み物を貰っていなかったから近くのテーブルに置いてあったグラスを渡したのだけど、それがまさかワインだったなんて全く気が付かなかった。
確かに私のグラスとダニエル君たちが持っているグラス形が違うなぁとは思っていたけど、中身まで違うなんて!
私はいつもいつもついうっかりでとんでもないことをしでかしてしまう。
この間だってうっかりで庭の大木をへし折ってしまいフェルナンに叱られたばかりだ。
しかかもなにやら騒がしいと思ったら、魔猪が出てくるなんて。ついていないにもほどがある。
夫は冒険者や体格のいい男性数人と共に魔猪を倒すために向かった。私はダニエル君たちを連れて避難することになった。
私も魔猪討伐へと参加したいのだけれど、こんな非常事態に子どもたちだけにするわけにはいかない。領主であるお義兄様とその妻であるお義姉様は観客たちの避難を誘導しているので、私しかいない。
それにしても、さっきからダニエル君に手を引かれながら走るブランシュちゃんの様子がおかしい。
たいして面白いこともないのに始終笑いっぱなしだし、飲酒のせいで真っ赤になった顔に加えて、目がとろんとしてて酷く眠そうだ。時折頭を振っているのは眠気を払うためだろうか。
私は酒にはめっぽう強いので酔ったことはないけれど、酔うとどうなるかは人によって違う。ブランシュちゃんは笑い上戸なのだろう。
あとすぐに眠くなるということは、お酒に弱いタイプなのだろう。成人してもアルコールは控えるように言ったほうがいいかもしれない。
今にも眠ってしまいそうなほどに、目がほとんど開いていない。何もない時であればこのまま寝かせておいてあげたいところだけど、今は緊急事態だ。そうは言っていられない。
「キャー―――!!」
「逃げたぞ――!!」
大きな悲鳴と同時に、ステージ周辺の幕を突き破って魔猪が姿を見せた。どうやら魔猪はリシャールたちの包囲網から逃げ出したみたいだ。一筋縄ではいかない。
皆が一斉に逃げる中、ブランシュちゃんが地面に座り込んでいた。人の波に押され転んだのだろうか。
ブランシュちゃんは立ち上がる気配もなく、座り込んだまま。まさかと思いよく見ると、彼女の瞳はほとんど閉じられていた。今にも寝てしまいそうだ。まさかこんな時に。
「ブランシュちゃん!」
声をかけるものの何の反応もない。もう彼女には聞こえていないのかもしれない。
「フゴ!」
現れた魔猪は一般的な魔猪よりも大きく、三メートルを超える巨体だ。ここまでの大きさの魔猪はめったに見ない。まさかこんな化け物がこの辺りにいたなんて。
「フゴ――!!」
魔猪が狙いをブランシュちゃんに定めたようで、鼻息荒く突進してきた。
「ブランシュ!」
マクシム君が名前を呼ぶが、ブランシュちゃんは気が付かない。半分以上閉じられていた瞳は、今では完全に閉じられていた。ぐらりと体が傾く。このままではブランシュちゃんが魔猪に襲われてしまう。助けなければ!
魔猪が侵入してきた際にへし折られたテントの骨組みが転がっている。私はそれを手に取ると、魔猪へと駆けだした。
「はあ――!!」
骨組を剣のように魔猪へと叩きつける。
「プギっ」
しかし魔猪には傷ひとつない。魔猪の毛皮はとても固く、一般的な剣では傷ひとつつけることが叶わない。当然こんなガラクタでは無意味だ。かといって、武器を取りに行っている暇などない。
魔猪は再び突進の構えに入った。魔猪の突進は普通の猪の十倍の力があると言われている。
そんなものを生身で受けたら無事で済むわけがないだろう。むしろ死体さえも残らないかもしれない。
私は骨組みを投げ捨てると、完全に意識を失い倒れ込んでいたブランシュちゃんを抱えて逃げた。
敵前逃亡なんて騎士のするものではないけれど、今の私は騎士ではないし何より人命第一だ。
「フゴーフゴー!」
魔猪は一度標的にしたものを喰らいつくすまで追いかけるという習性がある。ブランシュちゃんは標的にされたのだ。
絶対にブランシュちゃんを守りとおす。魔猪に食べさせたりなんてさせない! 私は心の中で固く誓った。
一線を引いてから長いとはいえ、私だって元騎士だ。子ども一人守れないでどうする。
私は小脇にブランシュちゃんを抱えたまま逃げる。ダニエル君たちが呼ぶ声が聞こえるが、魔猪を引き連れたまま人の多いところに行くわけにはいかないので、私はあえて誰もいない方へと向かって走る。
それにしてもブランシュちゃんは少し軽すぎないだろうか。ちゃんとご飯を食べているのか心配になってくるぐらいだ。もっと食べさせてあげないと。
そんな関係ないことを考えていたからだろうか、私は道端の石に躓き転びかけた。なんとかブランシュちゃんだけは死守した。
しかしその間に魔猪は私たちと距離を縮める。巨体にもかかわらず、俊敏だ。鼻息が掛かるほどの至近距離。このままでは危ないと、とっさにブランシュちゃんに覆いかぶさった。
瞳を閉じて訪れる衝撃を待つ。しかしいつまでも経っても想像した痛みはおとずれない。どうしたのかと思い、そろりと目を開き振り返る。
目の前には壁が出来ていた。土で作られた壁だ。確かにさっきまではこんなものはなかった。いつの間に作られたのだろうか。
魔猪は壁の向こう側にいるようで鼻息と、なんども突撃を繰り返している音が聞こえる。かなり頑丈な壁のようで簡単に壊すことは出来ないようだ。
「何が起きているのかしらぁ……?」
訳が分からない。この土壁はいったい何なのか? これは誰かの魔法なのだろうか? 一瞬で壁を作るなんてことは普通には出来ない。なら誰がこの壁を作ったのだろうか。疑問ばかりが沸き上がる。
私は当然このような高度な魔法は使えない。生活魔法が精いっぱいだ。
ならばダニエル君かマクシム君だろうか? しかし彼らは姿が見えるところにはいない。
ならば偶然名のある魔術師が通りかかり助けてくれた……なんてラッキーなことはないでしょうね。ならば誰が……。
その時腕の中で、ブランシュちゃんが身じろぐ気配がした。
「よかった、ブランシュちゃん起きたのね」
目を開けたブランシュちゃんがこちらを見ている。いや、違う。ブランシュちゃんの視線は私をすり抜けて背後の壁へと注がれていた。
ブランシュちゃんは驚くことも、怖がることもせずただただ見つめているだけだ。
「ブランシュちゃん?」
名前を呼んでも何の反応もない。まだ酔っているのだろうか?
そうこうしていると、メキっという不快な音が耳に入った。何の音だと視線を巡らせると、魔猪が突進を繰り返している辺りの壁に亀裂が走っていた。私たちを守っている土壁が壊されようとしていた。
この土壁が壊れてしまう前に逃げなければ。
「いたっ……」
立ち上がろうとした瞬間に、右足にズキリと痛みが走った。どうやら先程転んだ際に捻ってしまったらしい。
歩けないほどではない。しかし人を一人抱えて魔猪から逃げ続けるのはおそらく無理だ。
私が囮になって、その間にブランシュちゃんに逃げてもらう……。いや駄目だ。未だぼんやりしている彼女が無事魔猪から逃げきれるとは思えない。
どうしよう。どうすればいい。
魔猪は土壁にひびが入ったことに勢いづいたのか、亀裂が入ったあたりを念入りに狙って突撃を繰り返す。壊れるのも時間の問題だ。
魔猪が突撃を繰り替えす度に壁が壊れる音が聞こえ、ついにはッドン! という音と共に土壁に穴が開いた。小さくとも一度穴が開いてしまえば崩すのはたやすい。
最初は拳サイズだった穴は、手のひらサイズになり、顔の大きさになった。まだ穴は広がるだろう。
このままでは完全に壊されてしまう。どうしよう。逃げる? 戦う? どちらにせよ動かなければ。なのに私の身体は動かない。恐怖で足が竦んでいる。
こんなことはなかった。どんな強大な敵でも、無駄だと言われても挑んできた。
私はいつからこんなに弱くなったのだろうか。結婚してから? 騎士をやめてから? 子どもを産んでから?
ガラガラと耳障りな音が聞こえる。大穴が開き、ついに壁は完全に崩れ去った。もう私たちと魔猪を阻むものは何もない。
真っ赤に輝く凶暴な瞳が私を見据える。逃げられないと本能的に感じた。
「あっ……」
口の中がからからに乾き、声さえうまく出せない。
「今だ、放て!」
突如聞こえた声と共に、魔猪めがけて矢が降ってきた。
「カロリーヌ、大丈夫か?」
「あなた!」
リシャールが援軍を引き連れ駆けつけてくれたのだ。
「とりあえず一旦引くぞ」
魔猪は射かけられる矢に気を取られている。引くなら今しかない。
「っ……」
「どうしたカロリーヌ? 怪我でもしたのか?」
「私は大丈夫。貴方はブランシュちゃんを」
「……わかった」
心配そうに問いかけてくるリシャールに、ブランシュちゃんを預ける。視線を感じるが気が付いていないふりをして受け流した。
未だにぼんやりとしたままのブランシュちゃんを抱き上げたリシャールに続いて、私はくじいた足を引きずりながらも安全圏へと向かう。これでひとまず危機から脱せたようだ。
リシャールが腕に覚えのある男たちと共に魔猪を討伐するためにいの一番に飛び出していったのはいいけど、その後全く見当たらず、どこまで行ったのかと思っていたのだが、彼の話ではどうやら武器を取りに戻っていたらしい。
確かに、警備用に置かれた最低限の武器では魔猪に対抗できないだろう。
ブランシュちゃんを抱き上げた手とは逆の手には見慣れたハルバードが握られている。
騎士としては武器を手放す訳にはいかないのだけど、流石に祭りの開会式にまで大きくて目立つハルバードを持ち込むわけにはいかず、オトテール家に預けていたのだ。
いちおう護身用としてダガーナイフを忍ばせていたのだけど、そんなものでは毛皮の固い魔猪には何のダメージも与えられるわけもない。
「戻ってきたら、カロリーヌが魔猪に狙われていて心臓が止まるかと思ったぞ」
「ブランシュちゃんを抱えていたとはいえ、魔物相手に窮地に立たされるなんて、ちょっと腑抜けすぎたみたいね……。帰ったら訓練付き合ってね」
「はは、お手柔らかにな」
自分では衰えているつもりはなかったのだけど現実は残酷なもので、筋力や技術なんてものは一日二日鍛錬を怠っただけで衰えていくものだ。
引退してからもいちおう訓練は毎日欠かさずやっていたのだけど、あの程度では全然足りなかったらしい。現役時代まではいかなくとも魔猪相手にもう少しまともに戦えるようにはしなくては。
今は村中の弓矢を集めていかけているが、すぐに矢が尽きてしまうだろう。あの強大な魔猪を弓矢なんかで仕留めることは叶わないに決まっている。皆が安全地帯に避難するまでの時間稼ぎでしかない。
「それにしてもあの土の壁は何だ? 俺が駆けつけた時はほとんど壊れててあまりよくみられなかったけど」
「んー、名も知らぬ親切でシャイな凄腕魔術師?」
「はあ? なんだそれ」
「正直な所、あれに関しては私も全然わかんないのよね……」
今は壊れてしまったとはいえ、数分はあの魔猪から繰り出される強力な突撃に耐えた代物だ。しかも瞬く間に出来上がったほどに早く頑丈に作り上げられていた。素人になせることではないのは明白だった。
だというのに、魔法を使った本人は未だに姿を現さない。
あれだけの魔法を使えるのだ。逃げた、とは考えづらい。
それとも大魔導士の気まぐれとかだったのだろうか。高名な魔術師になればなるほど、変わり者が多いと聞くし。
「まあいい。本当に親切な魔術師ならまた助けてくれるんじゃないか? どっちにしろ今はそれどころじゃねーしな。休憩は終わりだ。いけるか、カロリーヌ?」
リシャールは抱えていたブランシュちゃんを近くにいた領民へと預ける。そして腰に佩いていた細剣を鞘ごと私に差し出した。
鞘には立ち上がるペガサスが描かれている。これはバダンテール家の紋章。私が愛用している細剣だ。
騎士を引退してからはめっきり使用頻度は下がったけれど、それでも手放す気はさらさらない。
念のために持ってきていたのだけど、リシャールのハルバード同様にオトテール家に預けていたのだ。まさか入用になるとは思ってはいなかった。
「当然!」
私は細剣を受け取り抜刀する。抜き身の剣は鈍く銀色に輝いている。
魔猪に目を向ける。射かける矢は既に尽きたようで、奴は再び暴れ出していた。数々の屋台は蹴散らされ、綺麗に飾りつけされていた舞台は跡形もなく破壊されている。
一度大きく息を吐き出し、気合を入れるとリシャールと視線を合わせた。彼の瞳には既に覚悟が見て取れる。
「行くわよ、貴方!」
「おうよ!」
それぞれに武器を構えて、さて行くかとなった時に後方で慌てた声が上がった。
振り返る間もなく、何があったのはわかった。さっきまでぼんやりと眠そうにしていたはずのブランシュちゃんが、私たちの前へと躍り出てきたのだ。
「ブランシュちゃん!?」
私の声など聞こえていないのか、ブランシュちゃんは真っすぐに魔猪の方へと歩いて行く。
「ちょっと待って、危ないわよ!」
慌てて追いかけるが、なぜか追いつかない。小柄なうえ病気がちで体力がないブランシュちゃんは普段から歩くのはあまり早くない。どちらかと言えば遅い方だ。
対して私は、成人女性の中では足は速い方。歩くのも走るのも早い。今でこそ娘に負けてしまったが、少し前までは家族で一番早かった。
それなのにいくら急いでもブランシュちゃんに追いつけない。どういうことなの? まるで強化魔法でもかけているようだ。
やはりまだ酔っているのだろうか。様子もおかしいままだし。
私が追い付く前に、ブランシュちゃんはあっという間に魔猪の眼前まで辿り着いてしまった。幸いなことに魔猪は、屋台に残っていた食べ物を夢中に貪っていてブランシュちゃんには気が付いていない。
それでも危険な事には変わらないだろう。魔猪がブランシュちゃんに気が付けば一貫の終わりだ。
「戻ってきて! ブランシュちゃん!」
追いつこうと必死で走るが、事態が急転する方が先だった。
暴れる魔猪が突然吹っ飛んだのだ。いったい何があったのかわからない。ただ吹っ飛んだとしか形容できない。
五メートルほど飛ばされた魔猪はその巨体で木々を薙ぎ倒して雑木林に突っ込んだ。
何が起こったのかはわからないが、これで倒したのではという淡い期待がうかぶ。しかし当然のことながら巨体を誇る魔猪があの程度で倒せるわけもなく、魔猪は数秒ほどで立ち上がった。
すぐに体制を立て直した魔猪は、怒り狂ったかのように雄叫びを上げる。紅い目は怒りに燃え、心なしか鼻息が荒くなっている。
「フゴ――――!!」
魔猪は怒りに任せるままにブランシュちゃんへと向かって駆け出した。目の前に立っていたブランシュちゃんを、自分を吹っ飛ばした犯人だと思ったのだろう。
今までの何倍もの強力な突進。これをまともに喰らっては木っ端みじんになってしまうだろう。
「ブランシュちゃん!」
私はブランシュちゃんを守るために走った。だがここからではどう考えても間に合わない。
真正面からすごい勢いで魔猪が迫ってきているが、彼女には慌てている様子などはない。涼しい顔で魔猪を見据えていた。
後数メートルで魔猪が迫るという距離で、ブランシュちゃんは目の前に手を翳す。その手から、無数の風の刃が打ち出されるのを私はこの目で見た。
「!」
お義姉様たちからブランシュちゃんが魔法が使えることは聞いていたけれど、想像よりもずっと強力な魔法だった。私はお義姉様やダニエル君たちが家族の贔屓目で大げさに言っているだけで、実際は生活魔法の少し上位くらいなものだととらえていたのだ。
しかしブランシュちゃんの攻撃も魔猪には傷ひとつ付けることなく終わってしまった。
この程度で突進するスピードは衰えることはない。魔猪は土煙をたてながらブランシュちゃんへと突っ込む。
「ブランシュちゃん!」
立ち上がる土煙のせいで現状は見えない。ブランシュちゃんはどうなったのだろうか? 無事なのだろうか? 絶望的な状況なのはわかっている。それでもブランシュちゃんの無事を祈らずにはいられなかった。
土煙が晴れた時。ブランシュちゃんがいたはずの場所には魔猪以外何もなかった。壊れた屋台も、倒れた木々も。ブランシュちゃんの遺体さえも。
「……そんな」
魔猪の凄烈な攻撃に何もかもが塵と化したのだ。遺体すら残らないだなんて。
そばにいたのに守れなかった。自分の無力さが歯がゆい。可愛い姪っ子一人守れないなんて元騎士失格だ。
湧き上がるのは悲しみよりも怒り。ブランシュちゃんを殺した魔猪と何もできなかった自分自身に対して。
私は細剣を握る手に力を込める。
「カロリーヌ、待て!」
今すぐ駆け出そうとする私の背にリシャールが呼び止める。だがそんな余裕は私にはない。
「待ってなんていられないわ! ブランシュちゃんの仇をとるのだから!」
何を悠長なことを言っているだ。そんなことを言っている場合ではない。姪っ子を殺されて『待て』なんてのんきなことを言っている夫に苛立ちを感じた。
しかしリシャールは焦ったような声で再び私の名を呼ぶ。
「上だ、上を見ろ!」
「え?」
リシャールに言われるままに私は空を見上げた。
魔猪の真上にそれはいた。魔猪にひき潰され死体も残らずに死んだと思っていたブランシュちゃんがふわふわと空中に浮いていた。
「うそ……」
思わず否定する言葉がこぼれる。状況から言ってどう考えても死んだとしか思えなかったのに。安堵よりも驚きと疑問の方が大きい。
彼女の身体を浮かせているのは、おそらく浮遊魔法だろう。浮遊魔法は難しい魔法だ。その浮遊魔法を、わずか十一歳で扱いきれるなんて、お義姉様の言う通りブランシュちゃんは魔法の天才なのかもしれない。
魔猪は空中に浮かぶブランシュを睨みつけフゴフゴと鳴いている。魔猪は飛べない。ただ飛び跳ねるしかない。その上跳躍力も大したことはない。このまま諦めて山に帰ってくれないだろうか。
しかしそう簡単にはいかなかった。
魔猪の赤い目がゆらりと揺れた。始めはただの見間違いなのだと思った。しかしそうではないとすぐに知る。揺れる赤は炎となり燃え広がり、次第に炎は魔猪の身体全体に絡みつく。
「あいつ、魔法使えるのか」
リシャールが驚きの声を上げた。
通常の魔猪は魔法など使えない。ちょっと体が大きく、頑丈な猪でしかない。でも稀に魔法を使える個体がいる。
何百年も生きてきた希少種だ。滅多にお目にかかることはない。あの巨体からもしかしたらとは思っていたが、今まで魔法を一切使わなかったので使えないものだと思い込んでいた。しかしここにきて初めて魔法を行使するとは……。
もしかしてあの魔猪は今怒りによって魔法を使えるようになったのではないのだろうか? だとしたら今まで魔法を使わなかったこともわかる。
使わないのではなく、使えなかったのだ。そして手の届かないところに浮かぶブランシュちゃんを攻撃したいがために、ここにきてあの魔猪は進化したのだ。なんて厄介な。
「ブギっ」
魔猪は五十センチほどの火球を複数作り出すと、空に浮かぶブランシュちゃん目掛けて飛ばす。まだ扱いに慣れていないのか、ほとんどの火球は当たることなく見当違いの場所へと飛んでいった。
しかし一つだけ、ブランシュちゃんのいる方へと向かって飛んでいく火球があった。
「危ない!」
だがブランシュちゃんは動じることなく、つむじ風を作り出して火球を打ち消してしまう。
ホッとしたのも束の間、そこで諦める魔猪ではなかった。火球を何個も作り出し執拗にブランシュちゃんに目掛けて飛ばしていく。
何度もやっているうちに慣れてきたのか火球は安定して、ブランシュちゃんに向かって飛んでいくようになった。だがその程度の火球など何発来てもブランシュちゃんが風でかき消す。
魔猪が魔法を使えるようになってどうなるかと思ったけれど、ブランシュちゃんの敵ではなかったわ。
「ブッフーー!!」
しかし魔猪も馬鹿ではなかった。今までの火球では意味がないとわかったのか、次は成人男性の高さはありそうな大きな火球を作り上げた。
この魔猪、この短時間に魔法を使い慣れて行っているように感じる。
巨大な火球をブランシュちゃんに向かって飛ばした。この大きさでは今までのように風で簡単に消すことは出来ないだろう。
かといって浮遊魔法は浮くだけの魔法。空中を飛び回って逃げるようなことは出来ない。
「ブランシュちゃん!」
ブランシュちゃんは巨大火球と同じくらい。いやそれよりも些か大きな水球を作り出した。その水球を盾のように自身の前に置く。飛んできた巨大火球は水球の中へと吸い込まれるように入っていった。
「水魔法も使えるの!?」
ブランシュちゃんが風魔法ばかり使っていたのでてっきり、風属性の魔法しか使えないのかと思っていたけれど、それ以外の属性も使えるようだ。
それならば、魔猪から守ってくれた土壁もきっとブランシュちゃんの魔法だったのだろう。そう考えると、腑に落ちる。
ジュウという音と、煙を出しながら火球は水球の中で小さくなっていく。拳くらいのサイズになると、火球は消えてなくなってしまった。
すごい。これならもしかしたら魔猪を倒すことが出来るのではないか?
「フゴ――――!!」
怒りに任せて魔猪は再び巨大火球を作ろうとした。しかしそれは不発に終わった。体に巻き付く炎も次第に勢いを弱めていく。
あれだけ連発して魔力を使ったのだ。いくら強力な力を持つ魔物といえども魔力切れを起こさないわけがない。
これをチャンスとばかりにブランシュちゃんは、まだ出現させたままだった水球を魔猪に向かって飛ばす。
水球は魔猪の頭にすっぽりとかぶさった。
「やった!」
水球から逃れようと魔猪は懸命に頭を振るが、全く取れる気配はない。
ぼこりと魔猪の口から空気の泡がこぼれる。いくら強靭な体を持っていようとも、陸の生物である限り空気がなくなれば生きていけない。
身体に巻き付き炎は完全に消え、魔猪自身も徐々に弱ってきたのか動きが緩慢になり、そして魔猪は完全に動かなくなる。
「やったぞ!」
「魔猪を倒した!」
リシャールが喜びの声を上げる。その声を皮切りに離れた位置から戦いを見守っていた人々が、次々と喜びの声を上げた。
私は急いでブランシュちゃんの元へと走る。ブランシュちゃんはまた空中にいた。
「ブランシュちゃん! お疲れ様。もう降りておいで」
私が声をかけた瞬間。ブランシュちゃんの身体ががくりと傾く。浮遊魔法は解けて、そのまま真っ逆さまに落ちてきた。
「危ない!」
このままでは地面に激突してしまう。私は手にしたままだった細剣を投げ捨て、ブランシュちゃんの真下へと走り両腕を拡げる。ブランシュちゃんはぽすりと私の腕の中に納まり地面への落下は免れた。危なかった……。
「ブランシュちゃん、大丈夫?」
腕の中を覗き込むが、ブランシュちゃんは固く瞳を閉ざしていた。魔力切れだろうか? あれだけの魔法を駆使したのだ、意識を失うのも仕方ないだろう。
次の瞬間、っパンという破裂音が響いた。音がした先へと視線を向けると、魔猪のまわりが水浸しになっていた。
術者が意識を失い、先ほどまで魔猪の頭に張り付いていた水球が割れたのだ。水球から解放されても魔猪はピクリとも動かない。
本当にブランシュちゃんが倒したのだ。
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私がブランシュちゃんを抱えて休めるところへ移動していると、避難していた人たちが次第に戻ってきた。
戦いを見ていなかった人たちは、誰もが魔猪の死体を見て驚きの声を上げた。
「いったい誰が倒したんだ!?」
「私の姪っ子ブランシュが倒したのだ! それはもう素晴らしい活躍だった!」
彼らに向かってリシャールがまるで自分のことのように誇らしげに話す。しかしそれを聞いた領民は信じられないようで訝し気な視線をよこすだけだ。
その反応も仕方のないことだろう。ブランシュちゃんと言えば病弱な女の子というイメージでしかない。私も実際に見ていなかったらとても信じられなかったことだろう。
現に私もお義姉様に「ブランシュがすごい!」と聞いた時、全く信じていなかったのだから。
「本当だぞ! 俺もこの目で見たんだ。すっごい魔法で魔猪を圧倒するブランシュ様を!」
「ああ! 風の魔法使ったり、水の魔法使ったり! まさかブランシュ様があんなにすごい魔法が使えるなんて知らなかったよ!」
ブランシュちゃんと魔猪の戦いを見ていた人たちが口々に戦いの様子を語りだす。その語り口は次第に賞賛から賛美へと変わっていった。
「ああ、まるで聖女ブランディーヌのようだった」
「きっとブランシュ様は聖女ブランディーヌの生まれ変わりに違いない」
昔から言い伝えられている聖女ブランディーヌは莫大な魔力を持ち、全ての属性の魔法を駆使していたと言われている。
そう考えればブランシュちゃんは聖女ブランディーヌに似ているかもしれない。名前も似ているし。
ブランシュちゃんは地元の学園に通う予定だとさっき話をした時に言っていたことをふと思い出す。
これだけの魔力と魔法センスを持ち合わせているのだからこのまま田舎で燻らせているのはもったいないんじゃないのだろうか。きっと将来とんでもない魔術師になるに決まっている。
宮廷魔術師なんて夢じゃない。いやいや、それどころか聖女ブランディーヌに匹敵する魔術師になるかもしれない。
どうにかして彼女の才能を伸ばしてあげたい。どうすればと考えた時、ふと一人の人物が思い浮かんだ。
「いいこと思いついちゃった」
名案を思い浮かんだ私は、ブランシュちゃんを抱えたまま足取り軽く歩き出す。居ても立っても居られない、早くこの名案を手紙にしたためないと。