8、収穫祭
スィユール村の麦畑の収穫は私が目を覚ました時にはすべて終わっていた。
また私は役に立たなかったどころか、迷惑をかけてしまったと落ち込んでいたのだが、ここ最近なぜか私に意地悪だったマクシムお兄さまがとても優しい。
すごく誉めてくるし、屋敷に戻ったらお花をプレゼントしてくれたし、私の好きなアップルパイを焼いてくれるようにクラハに頼んでくれた。
意地悪されるより優しい方が嬉しいけど、理由がわからないと裏に何かありそうで恐ろしい。
何があったのか聞いてみたけれどよくわからなかった。
いや正確には全く意味が分からなかった。身に覚えのまったくないことを私がやったことになっているし、そのことで感謝されている。全く記憶にないけど。
マクシムお兄さまの話では、イナゴの大軍を率いたイナゴの王 (アバドン? とか言っていた)を倒し、イナゴの大軍とその卵の駆除を私がたった一人で魔法を使っておこなったという。
いやありえないでしょ。そんなおおがかりな魔法なんて使ったことがないどころか、攻撃魔法なんて一切使えない。生活魔法が精いっぱいだ。
やっぱり皆勘違いしているんだよ。そうに決まっている。
そういえば、村長一家が行方不明らしいけれどいったいどうしたのだろうか?
▼
派手な音をたてて、花火が二つあがる。
領地内の小麦やその他の作物の収穫が全て無事おわり、寒さを増し冬を迎える前に行われることがある。それは収穫祭だ。
各地の村々から収穫された作物をそれぞれに持ちより、収穫の喜びと豊穣を神々と精霊たちに感謝し奉納する。そしてまた来年もこの地に恵みをもたらしてくれるように祈るのだ。
収穫祭は領都である本村でおこなわれ、領内各地からたくさんの人々が集まる。普段は閑散とした田舎だが、この日ばかりは大勢の人であふれかえっている。
収穫祭は五日に渡って開催され、その間祭りがおこなわれる広場では、朝早くから夜遅くまでどんちゃん騒ぎが続く。六日目の朝には、そこら辺の道端に屍のような酔っ払いが転がっている。
私は未成年なのでもちろん遅い時間までいたことはないが、祭りの最中にできあがってその辺で寝転がっている酔っ払いなら何度も見たことがある。
正直かっこ悪いので、私は大人になっても酒は飲まなくてもいいかななんて考えている。
祭の初日である今日は、開催式があるので領主一族であるオトテール家は全員参加だ。
物心ついた時から毎年開催式に参加した記憶はあるのだけど、それ以外の祭りの記憶はあまりない。何故なら毎年祭りの雰囲気に当てられ羽目を外してははしゃぎ、途中で体調を崩して倒れ、残りの収穫祭の間中はずっと寝て過ごすことになってたからだ。
今年こそは最後まで参加したい。と毎年思ってはいるが、今までその願望は達成できていない。
しかし今日はとても体調がいいので、今年こそは大丈夫だと思っている。うん、きっと大丈夫!
「盛り上がっているなー」
お兄さまたちと共に祭りの会場である広場へと訪れた。
ちなみにお父さまとお母さまは色々とお仕事があるそうなので、先に開会式のおこなわれるステージへと行っている。
会場内は熱気と人で溢れていた。まだ式典まで時間があるにもかかわらずすごい人だ。迷子になったら絶対に見つからないことだろう。
こんなところでお兄さまたちとはぐれて、倒れでもしたら大変なことになってしまうだろう。離れないようにしなければ。
「ブランシュ、この人だかりではぐれたら大変だ。手を繋ごう」
そう言って右からダニエルお兄様。
「お前はすぐにどっか行って倒れるんだから、絶対に手を放すなよ」
つっけんどんな態度のマクシムお兄さまは左から。
左右それぞれに手を差しだされる。私は二人の手を取ると、ギュッと握りしめた。二人の手の温度に、少しは不安も減ったように感じる。
三人で歩いていると、どこからともなくいい匂いが漂ってきた。会場中には様々な屋台がひしめき合っている。
串焼きに、野菜たくさんのスープ、味付きポテト、ステーキサンド、シナモンたっぷりのシナモンロール、私の大好きなアップルパイなどなど。様々な屋台が並んでいるのでつい目移りしてしまう。
「おい、よそ見してたらはぐれるぞ。前見ろ!」
「食べたいものがあるならあとで買ってあげるから、今は開会式が最優先だよ。ブランシュ」
「はい」
屋台は気になるが、これから行われる開会式のため私たちはステージへと向かわなければならない。後ろ髪惹かれながらも、お兄さまたちに急かされてステージへ向かう。
「おお! ダニエルにマクシム! ブランシュもおるではないか!」
名前を呼ばれて声に振り返ると、そこには見上げるほどに大きな巨体に、顎にひげを蓄えた男性が仁王立ちしていた。一見すると熊のような彼は、リシャール叔父さまだ。
リシャール叔父さまはお父さまの弟なのだが、細身なお父さまとは全く似ていない。その巨体を生かし、王都で騎士をしている。
普段は王都で暮らしているのだが、収穫祭に参加するためにオトテール領まできたのだ。祭りの間は毎年我が家に泊まることになっている。
叔父さまはいつも夕食の時に、王都での話をしてくれる。今年はどんな話が聞けるか今から楽しみだ。
「まぁまぁ、三人とも大きくなって。誰かわからなかったわぁ」
「カロリーヌ叔母さま!」
リシャール叔父さまの後ろからひょこりと顔を覗かせたのは、叔父様の妻であるカロリーヌ叔母さまだ。縦にも横にも大きいリシャール叔父様とは違い、小柄で嫋やかな女性だ。
とても若く見えるが、これでも私たちとかわらない歳の子どもがいる。とても信じられない。
「ブランシュちゃん、今日はとても顔色がいいわね。元気そうで良かったわ」
二人は毎年収穫祭の時期になるとオトテール家に来るので、私が貧弱なのをよく知っている。
「そう言えば、義姉さんに聞いたぞ。ブランシュお前、最近すごいらしいじゃないか」
「そうそ、操られていたお義姉様を魔法を使って助けたのでしょ?」
「え、いや、それは……」
多分人違いです。と返そうとしたが、最後までは口に出来なかった。お兄さまたちが会話に割って入ったからだ。
「それだけじゃないんです! 山火事を消したり、土魔法駆使して、川幅を拡げて洪水を防いだのですよ。あれからも大雨は何度かあったのですが、川の氾濫はなくなりました! ブランシュのお陰です!」
「それだけありません。イナゴの王と言われている魔物を単身で圧倒し、倒したんです! ブランシュは魔法の天才に違いありません!」
怒涛な誉め言葉に私は急に気恥しくなる。いつも優しくしてくれるダニエルお兄様だけでなく、滅多に褒めないマクシムお兄さままで褒めちぎるのだ。聞いている私はいたたまれない。
しかもその全てが、私の記憶にないことばかりなのだから困る。私の名前を語った、別人の話を聞いているような気さえしてくる。
こんなでたらめな話を聞かされても叔父さまと叔母さまも困るだけに違いない。
「そうかそうか、ならオトテール領は将来安泰だな!」
「ふふ、二人はブランシュちゃんのことが大好きなのねぇ」
二人とも微笑ましいものを見るような目で聞いていた。ああ、盛りに盛った身内自慢ぐらいにしか思っていない。これはこれでいたたまれない。
まあ、下手に信じ込まれるよりはいいかもしれないが……。
ステージの近くへと来ると、前方から誰かが走って来る。あれはお父さまだ。
「リシャール、カロリーヌさん遠くからよく来たな! あぁ、なんだ、ダニエルたちと一緒に来たのか」
叔父様たちに気が付いたお父さまがステージから迎えに来たようだ。
「お義兄様、お久しぶりです。ダニエルたちとは先ほどそこで会いましたの」
「おお、兄貴! 今年は例年よりもさらに豊作だというじゃないか!」
大人たちの話の邪魔にならないように、先に私たちはステージの裏へと向かう。裏手には関係者用のテントがあり、そこで裏方に指示を出しているお母さまがいた。
「母上、何か手伝うことはありますか?」
「ありがとう。そうね、ダニエルはそこの資料を持って行って。西側のテントに担当者がいるはずだから」
「はい」
「マクシムは設営を手伝って」
「はい」
ついて早々にお兄さまたちはお母さまに仕事を振られると、テントからから出て行った。
「お母さま私は?」
「ブランシュは……、ん~。特にないからそこで座ってて」
そこと、指さされたのはテントの隅に置かれた椅子。
「……はい」
私は言われたままに、椅子に座る。うう、やっぱり私は役立たずなんだ。わかっていたことだけど、少し落ち込んでしまう。
「あら、ブランシュちゃんは一人なの?」
カロリーヌ叔母さまテントに入ってきた。隅にいた私の姿を見つけると嬉しそうに話しかけながら隣の椅子へと腰かけた。
お父さまとのお話は終わったのかな?
「お話は終わったのですか?」
「お義兄様とリシャールはまだ話しているわ。なーんか男同士で盛り上がっちゃって、付いていけないから置いてきちゃった」
悪戯っぽく笑う叔母さまは少し子どもっぽくてお茶目だ。
「ブランシュちゃん、暇ならおばさんとお話ししましょう?」
「おはなし、ですか?」
暇だったのは事実なので、暇つぶしはありがたい。しかし何を話せばいいのだろうか?
「そう、お話。ブランシュちゃんは今何歳だったかしら?」
「今年で、十一歳になりました」
「ああ、そうだったわ。うちのベルと同い年だったわぁ。やだ私ったら、なんで忘れてたのかしら……」
言いながらカロリーヌ叔母さまは眉尻を下げて困ったように苦笑した。
ベルとは、リシャール叔父様とカロリーヌ叔母さまの娘のベルナデットのことだ。私の従姉妹にあたる。
毎年収穫祭には、叔父様たちと一緒に来ていたのだけど今年は来ていない。どうかしたのだろうか?
「今年はベルナデットは来ないのですか?」
「あの子はね、今フェルナンの元で猛特訓しているの」
「特訓、ですか?」
今名前があがったフェルナンも私たちの従兄弟で、ベルナデットの兄である。ベルナデッドとは七つ離れており、去年十八歳になり成人を迎えた。
「ええ、あの子は父や兄に憧れて将来は騎士団に入りたいそうなのよ」
叔父様たち一族バルテルミー家は、代々王族に仕えてきた騎士の一族だ。リシャール叔父さまも、フェルナンお兄さまも騎士団に所属している。
バルテルミー家の血筋であるカロリーヌ叔母さまも元々は騎士団に属していたらしい。フェルナンお兄さまを妊娠してやめたとのこと。
剣術は貴族の男児なら誰でも習うものだ。しかし女性で剣術を習うのは珍しい。バルテルミー家ならではといったとこだろう。
「すごいですね」
「凄くなんてないわよぉ。あの子ったら刺繍やお茶会よりも剣を握っている方が好きだっていうのよ。お転婆なのは私に似ちゃったのね」
カロリーヌ叔母さまはそういうけれど、充分すごいことだ。私なんて素振りをしただけで倒れかねないので、剣術を習ったことなどない。
お父さまやお兄さまたちは「女の子なのだから剣なんて必要ない」なんて言うけれど、お兄さまたちに交じって剣術の稽古をしていたベルナデットはすごくかっこよかった。
毎年収穫祭で屋敷に来るたびに、ベルナデットはお兄さまたちと外で遊んだり、一緒に剣術の稽古をしたりしていた。それを私はいつも窓から眺めているだけだった。走り回るのも剣術の稽古も私だけが蚊帳の外。
もっと小さい時には健康なベルナデットを羨んだりもしたが、今では純粋に憧れの対象だ。
今日は一年ぶりに会えると思って楽しみにしていたのだけど、結局会えなくて残念だ。少し寂しくもある。
「そうそ、騎士団に入るためにはシュヴァリエ学院に入学するって言い出してね。剣術にばかり明け暮れているのよ。夫は女学院とかに入学してほしかったらしいのだけれど……まぁ、バルテルミーの血を引いているのだから仕方ないわよねぇ」
騎士養育学校シュヴァリエ学院。名前の通り将来騎士になる子どもたちが通う学校だ。
リシャール叔父さまも、カロリーヌ叔母さまも、フェルナンお兄さまもシュヴァリエ学院の卒業生である。
王都にあり、国中の騎士志望の子どもたちが集う。私には一生無縁の場所だ。
「そう言えば、ブランシュちゃんはどこの学校に入学する予定なのかしら? 再来年なのだからもう大体は決めているのでしょう?」
この国の貴族の子女は十三歳になったら学校に通うように決められている。五年制で十八で卒業したら一人前の大人と認められる。私は今十一歳なので、二年後にはどこかに入学しなければならない。
「ダニエルお兄さまと同じ地元の学園の予定です」
ダニエルお兄さまは将来お父さまの跡を継いでオトテール領の領主になるので、王都の学校に通うよりもお父さまの仕事を手伝い領主の勉強をするために、自宅から通える地元の学園に通っている。
「あら、ブランシュちゃんもマクシム君と一緒に王都の学校に入学すればいいのに。そうすればおばさんいっぱい構っちゃうわ」
マクシムお兄さまは王都にあるサージュ学園に今年受験する予定だ。
学力では国内一のサージュ学園。マクシムお兄さまは昔から勉強が出来たので、きっと合格できることだろう。
まあ、素直にお兄さま本人にそう言ったら「お前とは出来が違う」とネチネチ言われかねないので絶対に言わないけれど。
対して私は、ベルナデットのように剣術は出来ないし、マクシムお兄さまのように頭もそれほど良くない。そんな私にはシュヴァリエ学院もサージュ学園も絶対に無理だ。
王都にはその二つ以外にも貴族の子女が通う学校もいくつかあるのだけど、そこに通う気も特にはない。
田舎生まれ田舎育ちの私からしたら、王都はキラキラして憧れの場所だ。私のような何のとりえもない冴えない人間が行くようなところではない。
第一体の弱い私が、地元を離れて王都で一人で生きていける気はしない。無難に地元の学校に行く方があっているだろう。
「いえ、虚弱な私に王都は無理ですよ」
王都という場所に興味や憧れはあるけれど、無理なものは無理だ。
「そう、残念だわぁ」
「カロリーヌ! そろそろ時間だぞ!」
「あら、貴方。もうそんな時間?」
開会式の準備が整ったのかリシャール叔父さまが呼びに来た。叔父さまの後ろにはお兄さまたちの姿も見える。
「ブランシュ、開会式の準備が整った。ステージに行くぞ」
マクシムお兄さまに急かされて、私はステージへと向かう。
「ブランシュ、カロリーヌ叔母様と何の話をしていたんだい?」
ダニエルお兄様に聞かれて私は言葉に詰まってしまった。別に後ろめたいことなど全くないのだけれど、何故だか私は素直に言う気にはなれなかった。
「あ……、えっと、色々?」
誤魔化すにしてももっと別の言い方があっただろうに、これではあからさまに何か隠して言いますと言っているようなものだ。
「そうか」
しかしダニエルお兄様は私を追求することなどなく、笑顔で頷いただけだった。
▼
「皆さまお酒はいきわたりましたでしょうか?」
「あ、私まだ貰ってないです……」
収穫祭の開会式の始まりは、皆で乾杯をして始まる。大人はワイン、子どもは葡萄ジュースだ。
一人一個ずつグラスを渡されるのだけど、なぜか私の手元には何もない。慌てて声を上げると、隣からグラスが差し出された。
「はい、ブランシュちゃんの分」
「あ、ありがとうございます」
カロリーヌ叔母さまから差し出されたグラスを受け取る。これで全員がグラスを手にした。
「それでは、領主様。乾杯の音頭をお願いいたします」
司会の男性がお父さまへと、手のひらサイズの小箱型の拡声魔導具を渡した。
「それでは今年の豊穣を祝って、神々と精霊たちに乾杯!」
「乾杯!」
皆が手にしたグラスを天に掲げ、中身を一気に飲み干す。私も同じように、グラスの中の葡萄ジュースを一気に飲み干した。
「っう」
ジュースが喉を通るとき、焼けるように熱く感じた。ただのジュースのはずだけれど、どうしたのだろうか。腐ってる、なんてことはないよね?
隣を見てもお兄さまたちは何もない様子でジュースを飲み干している。きっと気のせいだろう。
乾杯と共に始まった開会式は順調に進む。
お父さまの話や、各村長さんの話が続く。スィユール村の村長さんが先日お会いした人と違う人だったけど、変わったのだろうか? まだそんな歳ではなかったと思ったのだけど。
皆の話をぼんやりと聞いているとなんだか頭がふわふわしだした。顔がやけに熱い。熱でも出てきたのだろうか?
「ブランシュ、どうしたんだ。顔が真っ赤だぞ」
私の顔を見たダニエルお兄さまが小声で尋ねながら、私の額に手を当てる。ダニエルお兄様の手がひんやりとして気持ちいい。やっぱり熱が出ているのだろうか。
「兄上、ブランシュがどうかしたのですか?」
私たちのやり取りに気が付いたマクシムお兄さまが、同じように声を潜めて聞いてきた。
しかしそこで、マクシムお兄さまは私の手の中にあるものに気が付いた。
「ブランシュ、それを飲んだのか!?」
私を見て途端に慌てるマクシムお兄様。いったいどうしたというのだろうか。訳もわからず、私は頷く。
「その形のグラスに入っていたのはワインだ!」
「え?」
私の持っているグラスと、マクシムお兄様の持っているグラスをよく見てみると形が違うことに気が付いた。
私の持つグラスは逆三角形に長い脚が付いているタイプで、ダニエルお兄様の持つグラスは円筒タイプのグラスだ。
ワインと葡萄ジュース、見た目はほとんど同じなので間違えないようにグラスを分けていたようだ。今更ながらに気が付いた。
ということはもしかして私はワインを飲んでしまったということなのだろうか。どおりで喉が熱いと感じたわけだ。
でもなんで間違えてしまったのだろうか? あの時私は確か、誰かにグラスを渡されて……。私にグラスを渡してくれたのは確か……。
「ごめん、間違っちゃった!」
そうだカロリーヌ叔母さまから受け取ったのだ。カロリーヌ叔母は目に見えて狼狽している。
お兄さまたちと、カロリーヌ叔母さまが慌てている姿をぼんやりと眺める。
「ふふ」
無意識に笑いがこぼれる。自分のことで皆が慌てているのはわかっているのだけど、なぜかその様子が楽しくてしょうがない。全てのことが面白いし、なんだかふわふわして気持ちいい。
これもお酒の効果なのだろうか。お酒ってすごく楽しいな。
「うわ――!」
「なんだ、どうした!?」
「何か起きたのか?」
ステージから少し離れた場所から叫び声が聞こえた。それが呼び水となり、次第に観客席が騒めきだす。
最初は酔っ払いが暴れたのかとでも思っていたのが、騒ぎは次第に大きくなり半狂乱の人たちがステージへと押し寄せてきた。
「魔猪が出たぞ――!!」
魔猪とは大きな猪の魔物だ。一説では百年生きて魔物化した猪なんて言われている。非常に凶暴で山村を襲い、村人を食べたなんて話も残っている。
普通の人間では太刀打ちできず、出現したら冒険者か騎士に退治してもらうのが一般的だ。
しかし王都からは随分と遠く、魔物もそれほど多くないこの地には常駐する騎士はいないし、魔物退治に訪れる冒険者は少ない。
「魔猪!? なんでこんなところに?」
「に、逃げろ! 食われるぞ!」
「畑は大丈夫なのか!?」
慌て、逃げ惑う人々。祭りは一転して阿鼻叫喚のへと陥った。
大変な事態なのだと頭では理解している。しかし私は何故か楽しくなって笑いが止まらない。
「笑っている場合か。逃げるぞ、ブランシュ!」
マクシムお兄様に叱咤されでも笑いは止まらない。お兄さまは仕方ないとばかりに、舌打ちをすると強引に私の手を引いた。
しかし走っている最中急激な眠気に襲われる。なんでこんな時に。こんなところで寝る訳にはいかない。今寝たりしたら魔猪に食べられてしまう。眠気を追い払おうと頭を振り、魔猪から逃げるために走る。
私が人知れず睡魔と戦っている中、一際大きな悲鳴が聞こえた。ステージ周辺を覆う幕を突き破って魔猪が現れたのだ。
「ブランシュ!」
逃げ惑う人の波に押されて、マクシムお兄さまの手が離れる。私は周りに流されるままにはじき出された。
「いたっ」
強い力で押された私は、踏ん張ることも出来ずに転んでしまう。
「ブフっ!」
いつの間にやらすぐ目の前に来ていた魔猪。逃げなければ。しかし私はぼんやりとした頭でただ魔猪を見ていた。逃げなければとは思いつつも体が動かない。
「ブランシュちゃん!」
一緒に逃げていたカロリーヌ叔母さまの声が聞こえてくる。
動かなければと思うけれど、眠気がそれを邪魔する。足が重い。体が重い。頭も重い。
そして眠い。ひたすらに眠い。何もかもを投げ出してこのまま寝てしまいたいぐらいには眠い。私の意志に反して瞼が下がっていく。
「ブランシュ!」
誰かが私の名前を呼んでいるが、返事を返すことも億劫だ。もう迫りくる睡魔に抗う力は残っていなかった。
視界が白く染まっていく。私は眠気を受け入れて瞼を閉ざした。