6、麦畑2
マクシムお兄さまに言われたとおりに、滋養剤を飲んでそのままぐっすり寝た私は、起きたのは翌日の朝だった。カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しい。
たっぷり睡眠をとったためか、それともお母さまから貰った滋養剤が効いたのか熱っぽさは全くない。体がすっきりしている。これなら問題なく麦の収穫にも参加できるだろう。
ベッドから起き上がった瞬間、ぐぅという音がなった。音の発生源は私のお腹だ。
昨晩夕飯を食べずに寝てしまったためにお腹がペコペコだ。朝食の時間にはいささか早いかもしれないが、誰か起きてはいるだろうから、軽く食べれるものを貰いに行こう。
私は手早く着替えると、キッチンに向かうために部屋を出た。
キッチンの場所というものは大体決まっているので、目的地には迷うことなく辿り着いた。朝食を作っている最中なのだろう、おいしそうな香りが漂ってくる。
中をちらりと除くと、中には男性二人、女性一人の計三名がいた。うち一人は昨日見た覚えがある。村長だ。あとは二人とも二十代中頃。誰だろうか?
食べ物をもらうために声をかけようとしたところ、彼らの会話が耳に聞こえてきた。
「まったく、ブランシュ様はいったい何しに来たんだ? 少し動いただけでもすぐ熱を出して倒れるほど病弱と伺っている。来てもらっても邪魔でしかないだろ」
「昨日もついて早々に熱を出して寝込んだっていうらしいですし、相当な病弱ですよね。手伝いならマクシム様だけで充分じゃないですかねー」
どうやら私の話をしているようだ。ドキリと心臓が跳ねる。
「そういうなって、あれでも一応領主様のお子様なんだから下手に悪口いうと首が飛ぶぞ」
「大丈夫ですって、こんな朝っぱらからお貴族様は起きてきません」
「そーそー、それにホントのことしか言ってませんし?」
キッチンに明るい笑い声が響き渡る。
私はたまらず駆け出した。もう何か食べ物を貰おうなんて考えはすっかり抜け落ちている。
私は誰もいない早朝の廊下をひた走る。
別に悲しかったわけではない。悔しかったわけでもない。ただ自分がいかに我が侭だったかに気が付いただけだ。
女性が言っていたことは事実だ。私が来ても邪魔にしかならないことなどわかっていた。マクシムお兄さまだけでよかったのだ。それをわかっていても無理を言って着いてきた。
迷惑がられても仕方がないだろう。大人しく屋敷で留守番しておけばよかったと今更に思う。
ズキリと痛みが体を走った。痛むのは胸なのか胃なのかわからないけれど、とにかく痛かった。この痛みから逃れるためにまたひたすらに走る。
走って走って、とにかく走った。息が上がって心臓がバクバク言っている。こんなに走ったのは初めてかもしれないというぐらいに走った。まともに立っているのも困難でふらふらとその場に座り込んだ。
「っブランシュ!!」
大きな声と共に駆け寄ってきたのはマクシムお兄さまだった。見たこともないような必死な形相で私の肩をつかむ。
「どうしたんだ、ブランシュ。どこか痛いのか? 気持ち悪いのか? 待ってろ、今すぐ医者を呼んでくるからな!」
いつも私を迷惑そうにして、嫌みを言ってくるマクシムお兄さまが、ありえないくらいに心配してくれている。優しい声をかけながら、背中を擦ってくれる。
その様子を見ていたら痛かったのが徐々に和らいでいく。息も落ち着き、心臓もうるさくない。我ながら存外に単純だ。
「もう大丈夫です、マクシムお兄さま」
「本当か、ブランシュ? 無理しているんじゃないだろうな?」
おろおろと涙目になって、私を見つめるマクシムお兄さまはまるで別人のようだ。心配してくれるのはうれしいけれど、優しいお兄さまには少し違和感を覚えてしまう。
「走ったらお腹が痛くなっただけだから」
これ以上心配させないようにと、にっこりとほほ笑む。
「はぁー?! そんな理由でひとを心配させるな!」
そう叫ぶのはいつもの通りのマクシムお兄さまだ。うん、こっちの方がなんだか安心する。
「心配させてごめんなさい。マクシムお兄さま」
「ち、違う! 心配なんかしてない! お前に何かあったらあとで俺が父上や母上に怒られるからだ! お前の心配じゃない! 断じて違う!」
顔を真っ赤にして必死に言い訳するマクシムお兄さま。そんなマクシムお兄さまに笑みをこぼすと、キッと睨まれてしまった。
「昨日は夕飯も食べずに寝てたから様子見に来てみれば、部屋はもぬけの殻だし、何かあったのかと思って探してたってのに……」
ぶつぶつ言いながらマクシムお兄さまは先に部屋へ戻って行った。
それにしても、マクシムお兄様ですら真剣な顔で心配してきたのだ。きっと私は今ひどい顔をしているに違いない。
麦畑に向かうまでには、体調を整える必要がある。ということは、また私はあれを飲まなければいけない。
昨日マクシムお兄さまから渡された滋養剤は二本あった。一日一本以上は飲むなと言われているので、おそらくもう一本は今日の分なのだろう。
要は体長が戻らなかったら飲めということだろう。
口中に広がる苦みを思い出しながら、私は滋養剤を飲むために部屋へと戻っていく。
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結局私は食べ物を貰い損ねたので、朝食の時間まで待つことにした。
マクシムお兄さまと一緒に向かった食堂では、既に村長が待っていた。
村長の隣にはキッチンにいた二十代の男女もいる。男性は村長の息子さん。女性は村長の息子さんのお嫁さんだと紹介された。
「質素ですが朝食をご用意ました。どうぞお召し上がりください」
テーブルに並べられているのは、コップ一杯のミルクと、器いっぱいに盛られた麦がゆ。ゆで卵が一人一個。この辺りでは一般的な朝食だ。しかし私には少々量が多い。
私は朝はあまり食べられないので、朝食は抜くことが多い。食べてもヨーグルトのみとかで軽めだ。
しかし折角用意していただいたものを残すのは失礼なので頑張って食べきった。お腹がはちきれそうだ。
食事が終わった後は、主に今日の段取りなどの話だ。麦畑までは馬車で向かうらしい。
村長たち三人は早朝のことが嘘のようににこやかに私やマクシムお兄さまに話しかけてくる。あの時私が聞いていたとも微塵も思っていないようだ。気が付かれても気まずいだけなので、知られていないことにほっとする。
そう思って安心していたのだけど、村長が突然話を変えてきた。
「ブランシュ様は病弱とお聞きしました。本日は日差しも強いので屋敷で待っておられた方がよろしいのではないでしょうか?」
「ええ、突然倒れられては心配ですし……」
村長さんの言葉に、村長の息子さんも同意する。
確かに私はいつ倒れるかわからない程に虚弱だ。このままわがままを貫き通すは今の私にはない。邪魔になるくらいなら屋敷に引きこもっていた方がいいかもしれない。
「そうですね……、わかりま」
「大丈夫です」
村長たちの提案を受けて屋敷に残る。そう返事をしようとした時、私の言葉に割って入る声があった。
「ブランシュは昨夜は早くに寝ましたから、今日はいつもに比べ顔色もいいようですので問題はないでしょう。それに本人も行きたいと言っていますから」
きっぱりとそう言い切ったのはマクシムお兄さまだ。
「ブランシュに何かあったら私が対応しますので、そちらには一切迷惑はおかけしません。それでもブランシュの参加は認められませんか?」
「あ、いや……、そういう事なら……」
なおも何か言いたそうにしていた村長たちにマクシムお兄さまは強気に言い切った。そこまで言われてしまえば村長たちは何も言えなくなり、頷くしかない。
渋々了承した村長たちに少し申し訳なく思いながらも、私も麦の収穫に参加できることが決まった。
事前の話し合いは終わり、それぞれが麦畑に向かう準備をするために席を立つ。私たちも一旦準備のために部屋に戻ることとなった。
先を進むマクシムお兄さまを早足で追って、隣に並ぶ。
「……マクシムお兄さま、本当にいいの?」
マクシムお兄さまは元々、私が麦の収穫に参加することには反対だった。しかし先ほどは逆に私が、参加することを後押しするような発言をしてくれた。
このまま希望を通してもらってもいいのだろうか。わがままを押し通してもいいのだろうか。
「ただ今日はお前の体調がよさそうだと思ったから本当のことを言ったまでだ。第一、お前は同じ年頃の奴らに比べたら圧倒的に経験不足なんだよ。いつも部屋に引きこもっているから。そりゃ、本は読んでるから知識だけはあるかもしれないけど、何事も経験してみないとわからないこともあるだろ。将来次ぐことがないにしても、一応領主の子どもだ。麦の収穫ぐらいは経験しておくべきだろ」
まさかそんなことを言われるとは思っていなかった。
確かに私は何事においても経験不足だろう。見聞きしただけでは得られないものも確かにある。
遠い島国では『百聞は一見にしかず』という言葉があるくらいだ。 マクシムお兄様もきっとこうやって学んでいったのだろう。
同意をしめすために深くうなづくと、マクシムお兄さまはふいと視線をそらした。
「そ、それにわざわざ来たのに何もしなかったなんてことになったら、父上の顔に泥を塗ることになってしまう。それを避けたかっただけだ。別にお前のためじゃないからな!」
口早に言うと、マクシムお兄さまは早足で自分の部屋へと戻って行った。マクシムお兄さまの耳が真っ赤に染まっていたけれど、熱でもあるのだろうか?
▼
馬車に乗り麦畑に向かう。向かいに座るのはマクシムお兄さまだ。村長たちは別の馬車で先に麦畑へといった。正直彼らと一緒だと気まずいので丁度良かった。
馬車に揺られながら私は今、後悔をしている。一つは朝から滋養剤を飲んだこと。空っぽの胃に強力な滋養剤はよくなかった。
二つ目は朝食をいつもより多めに食べた。滋養剤でビックリした胃にとどめとばかりに大量の食物が入ってきた。
その結果、胃が痛いのだ。
そう言えば以前、クラハが滋養剤を飲むときは何かを食べた後にと言っていたのを思い出した。
お母さまもすきっ腹に重めの食事はよくないと、以前言っていた。 特にブランシュは胃が弱いのだから気を付けるようにとも。今更思い出してももう遅いのだけれど。
「ブランシュ、変な顔してどうした?」
痛みに堪えていたら表情に出ていたのだろう、マクシムお兄さまに訝しがられた。ここで胃が痛いのがバレたら、速攻で屋敷に送り返されかねない。それだけは何としても避けたい。
「なんでもないよ、大丈夫」
顔に出ないように、満面の笑みを作る。
「……ならいい」
うん、よかった気づかれていない。
暫くすれば、胃痛もおさまるはずだ。それまでばれないように平静を装わなければ。
だが残念なことに痛いときや苦しい時ほど、時間というのは過ぎるのが遅く感じる。本来なら麦畑までは十分ほどでつくはずなのだけど、体感では一時間以上かかったような気になった。
ようやくたどり着いた時には、何もかもから解放された気分にもなった。
かといって胃痛が治ったわけではないので、張り付けた笑顔はそのままだ。明日は頬が筋肉痛かもしれない。背中をじっとりとしたいやな汗が流れる。
馬車から降りると、先についていた村長の息子が駆け寄って来た。何かあったのだろうか?
「どうかしましたか?」
村長の息子とマクシムお兄さまは神妙な顔で何か話し出した。
しかし今の私はそれどころではない。胃が痛い。キリキリと胃を締め付けるかのように、絶え間なく痛みが続く。このまま永遠に続くのではないかと思えてしまう。
軽く意識が飛びそうになっているとき、ガサガサと頭上で音がしたとおもったら、だんだんあたりが暗くなってきた。雲が出てきたのだろうか。痛むお腹を押さえて私は空を見た。
「っひ」
空は真っ黒だった。しかし太陽を覆い隠すのは雲ではない。おびただしい数のイナゴだ。何百、何千。いや、万といるかもしれない。
確かに村長さんたちは今年イナゴが多いとは言っていた。言ってはいたが、この数は異常だ。流石にこれは逃げた方がいいのではないのだろうか。
しかし今の私は動ける状態じゃない。もう立っていることすら難しい。あまりの痛さに視界がぶれる。痛い以外何も考えられない。
足が震えその場に膝をつく。徐々に視界が真っ白に染まると同時に、私の意識は落ちていった。