表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/57

3、謎の絵

 私のお母さまは、領主であるお父さまを支える領主夫人だ。しかしそれだけではない。お母さまは画家でもある。

 とても有名な画家という訳ではないけれど、年に一回王都で個展を開くほどには名が売れている。

 お母さまの絵は透明感がありとてもきれいだ。家にはお母さまの絵以外にも様々な絵を飾っているが、私はその中でも一番お母さまの絵が好きだ。

 お母さまは人物画はほとんど描かず、風景画が一番多い。麦畑や小川、農村など領地内の風景を多く描いている。

 絵を描くときお母さまは離れのアトリエに籠る。

 私は絵の具の匂いで体調を崩してしまうことが多いので、あまり近づかないように言われている。絵の具の匂いを嗅いでいると安心するので好きなのだが、如何(いかん)せん体はそうではないようで、とても残念だ。貧弱な体が嫌になる。



 クラハが大きくて平べったい箱を運んでいた。サイズ的に絵だろうか。


「クラハ、それはダイニングにお願いね」

「はい。わかりました、奥様」


 お母さまは先日まで個展の為に王都に行っていて、今日帰ってきたばかりだ。今は使用人たちが馬車から荷物を運び入れている。


「おかえりなさい、お母さま」

「ただいま、ブランシュ。顔色は良さそうね、今日は体調がいいのかしら?」

「はい。熱もないですし、頭も、お腹もいたくないです」


 少し体が怠いが、些細なことだ。おそらくただの夏バテだろう。

 今年は例年よりも気温が高い。毎日四十度前後とか温度計が壊れているのではないかと思うほどだ。初夏に雨の日が多かったせいではないかと言われている。

 まあ、そんなこととは関係なく夏バテには毎年なるのだけど。


「なら良かったわ。荷物を運び終えたらお土産をあげるから、ダイニングルームで待ってなさい」

「はい、お母さま」


 お母さまは王都に行ったときはいつもお土産を買ってきてくれる。今回は何を買ってきてくれたのだろうか。

 甘いお菓子だろうか、流行りのお洋服だろうか。それとも可愛らしいお人形だろうか。もしかしたら化粧品かもしれない。

 私はお母さまの用意してくれた王都のお土産に思いを馳せながら、ダイニングルームへと向かった。

 ダイニングには既にお父さまと、ダニエルお兄様、マクシムお兄さまが揃っていた。


「ブランシュ、体調はどうだい?」

「お父さま、今日はとても体調がいいです」

「そうか、なら良かった」


 お父さまはいつも、私の体調を聞いてくる。少し過保護ではないかとも思うのだけれど、それだけ毎日のように私が体調を崩しているからなので仕方がない。


「ブランシュ、体調が悪くなったらすぐに言うんだよ」


 ダニエルお兄様もお父さま同様に少し過保護だ。


「兄上それじゃ駄目だ。ブランシュは鈍いから自分の身体に異変が起きてもすぐには気づけない。私が目を光らせて見張っておく」


 逆にマクシムお兄様は辛辣だ。流石に私だって、自分の体調の変化には気が付ける。いつまでも子どもではない。

 たまに体調悪化に気付かず気が付いたら倒れていたなんてこともあるけれど。ごくごく、たまにだ。

 最近は自分でも体調に気を付けるようにしているから、前よりは倒れる回数は減った……と思う。一カ月に二、三度倒れていたのが、一ヵ月に一度にまで減ったのだから。うん、成長している。


「みんな揃っているわね」


 ダイニングルームに入ってきたお母さまは、室内を見渡して家族全員が揃っているのを確認するとクラハに荷物を配るように頼んだ。

 クラハと、数人の使用人たちが運んできたのは、大小さまざまな箱だ。その箱をお母さまを除いた家族みんなに一つずつ渡す。

 お父さまには細長い箱。ダニエルお兄様には小さな箱。マクシムお兄様には中くらいの箱。

 私の前に置かれたのは大きくて平べったい箱。これはついさっきクラハがダイニングに運んでいたものだろうか。


「母上、開けてもいいでしょうか?」

「ええ、もちろんよ」


 許可を貰ったダニエルお兄様が早速、箱を開ける。中から出てきたのは手のひらサイズの小瓶。中には色とりどりのキャンディー。

 甘いものが好きなダニエルお兄様のお土産はいつもお菓子と決まっていた。

 そしてそのお菓子を後で私に少し分けてくれる。ダニエルお兄さまが貰ったものだからと断るのだけど、少しだけだからと渡してくる。やっぱりダニエルお兄さまは私に甘い。

 それでつい貰ってしまう私も私なのだけど。


「ありがとうございます、母上。大事に食べますね」


 ダニエルお兄さまは早速一粒つまむと口に運ぶ。口に入れた途端、嬉しそうに頬を緩ませた。

 しっかり者のダニエルお兄さまだけれど、甘いものを食べた時だけふにゃけたような笑顔を見せる。よっぽど好きなのだな。

 次に箱を開けたのはお父さまだ。細長い箱から出てきたのはワインの瓶だ。

 お父さまはお酒が好きだ。とはいっても、たいして強くはないので毎日飲むほどではないけれど。週に二、三回は飲む。

 飲むときも量をセーブして飲んでいるので、私はお父さまが酔っ払ったところを見たことはない。だけどお母さま曰くとても可愛らしいのだと言っていた。

 その話をするとお父さまが必ず邪魔をしてくるので、どういう風に可愛いのかは未だにわからない。


「ありがとう、エリーナ。これは君の誕生日に開けるとするよ。一緒に飲もう」

「ふふふ、楽しみにしておくわ」


 嬉しそうにお母さまが笑う。

 子どもが大きくなっても両親の仲がいいのはいいことなのだけど、イチャイチャを目の前で見せられては少々恥ずかしいものがある。

 次はマクシムお兄さまが箱を開けた。中には数冊の本が入っている。


「参考書よ。これでお勉強頑張ってね」

「はい、母上。ありがとうございます」


 マクシムお兄さまは今年十二歳だ。来年の春から学校に行くことになる。そのための受験が今年あるのだ。

 勉強が苦手な私だったら、お土産に参考書なんて貰ってもちっとも嬉しくはないのだけど、マクシムお兄様は嫌な顔一つしない。それどころか、嬉しそうですらあった。心底理解できない。

 最後は私だ。

 私と同じくらいの高さがあり、一人で開けれないのでクラハに手伝ってもらってようやく箱を開けることが出来た。

 中には予想通り、絵が入っていた。お母さまの描いた絵なのかと思ったがどうやら違う。丁寧で繊細な筆遣いの母さまの絵とは違い、箱の中の絵は荒々しいタッチだ。

 描かれていたのは金髪の少女。首にほくろが三つあるのが特徴的だ。

 このモデルを私は知っている。とはいっても知り合いなどではないし、会ったこともない。

 少女の名前はブランディーヌ。一般的には聖女ブランディーヌと呼ばれている。

 聖女ブランディーヌとは、遥か昔千年ほど前に邪竜を倒した聖女のことだ。

 この国の国民なら誰でも知っている。子どもでも知っている。特にここでは。

 私たちの暮らす屋敷のあるオトテール領の領都エルネスヴィールは、聖女ブランディーヌの生まれた地とされている。千年も前のことなので、生家などは残っていないし、詳しい場所もよくわからないのだけど。

 それでもここでは昔から様々な聖女ブランディーヌの伝説が言い伝えられていた。

 とはいえ今では『聖女誕生の地』を全面に売りに出して、ただの観光地となっている。

 山以外他に何もない田舎なので資源になるものはなんでも使わないと宝の持ち腐れとマクシムお兄さまが言っていた。

 絵の中の聖女ブランディーヌは頬笑みを浮かべ、祈っている。

 綺麗な絵、だとは思う。しかしなぜかよくないものを感じる。どこがどう良くないのかそれはうまく説明できない。

 ただただ、絵を見ているとぞわぞわと鳥肌が立ってくるのだ。


「どうブランシュ、素敵な絵でしょ? 私一目後れしちゃったの。魔よけの効果もあるらしいから、部屋に飾るといいわ」

「あ、あのお母さま……。私の部屋にはお母さまの絵がいっぱい飾っているので、これは飾るとこ無いのですよ……。なので母様が気に入っているのならお母さまが飾ればいいですよ! ね?」

「ええー。折角ブランシュの為に買ってきたのに……。でも仕方ないわね。ブランシュが飾らないっていうのなら、ダニエルか、マクシム飾らない?」

「あ、いや……。私は絵のことはよくわからないから……」

「私の部屋には、地図とか年表とか貼っているので、飾る所が無いですね」


 お兄さまたちも絵に何かいやなものを感じたのだろうか。それともただたんに年頃の男性が、女の子の絵を飾るのが恥ずかしいだけだろうか。……なんとなく後者の気がする。


「なら、私たちの寝室に飾りましょうか」


 お父さまとお母さまの寝室は同じだ。本当に仲がいい。


「え?」


 予想してなかったのだろうお父さまが、気の抜けた声を上げた。


「あら何かいやなの?」

「あ、いやそうじゃないけど……。あ、そうだ。君のアトリエに飾るといいよ。気にいっているだろう? 仕事の息抜きにみたらいいじゃないか。うん、それがいい!」


 お父さま、凄く白々しい。


「そうね……。それもいいかもしれないわね」


 お父さまの提案にお母さまは頷く。どうやら、納得したようだ。

 お母さまは早速クラハを呼び、アトリエに絵を飾るように頼んだ。


「ああ、でもそうなると、ブランシュへのお土産がなくなっちゃうわね……。どうしたものかしら」

「私は別になくても……」

「それじゃダメよ! あ、そうだこれをあげるわ!」


 お母さまは別のメイドに王都に行っていた際に使っていた鞄を持ってこさせると、中から何かを取り出した。


「私用に買ったものだったけど、これはブランシュにあげるわ」


 そう言って差し出されたのは、小さなぬいぐるみ。おそらくそれは犬を模しているのだろうけれど、微妙に歪んでおりちょっと不細工だ。

 頭部には紐が付いていて結び付けられるようになっている。


「かわいいでしょ? これも一目ぼれして買っちゃったの」

「う、うん……。ありがとうお母さま。大切にします」


 お母さまのセンスはいまいちわからない。

 でも手にとって、改めてまじまじと見ていると可愛いような気もしてきた。



 ▼



 その日からお母さまはアトリエにこもった。

 アトリエにこもるとこ自体はよくあることだ。絵を描き始めたら数週間ほとんど出てこないなんてこともある。

 それでもいつもならお母さまは領主夫人の仕事はキッチリこなした。

 屋敷の運営や、お客様もおもてなし、お父さまが留守の際には代りに領地の管理など。やるべきことをこなした後、

 アトリエにこもった。

 しかし今回は本当にアトリエから出てこなくなってしまった。最初のうちは声をかけると出てきていたのだけど、次第にそれもなくなった。

 おトイレとシャワー室はアトリエ内にある。食事はメイドが持っていくと食べていた。お父さまは「忙しい時期でもないので気がすむまで好きなさせておけばいい」というので周りもそれほど気にせず、見守ることにした。

 だがそれもすぐに変わる。メイドが持っていった食事に手を付けなくなったのだ。彼女たちの話では夜も碌に寝ていないらしい。

 そこまでくれば、黙って見守る段階はとうに過ぎていた。

 見かねたお父さまやお兄さまたちが声をかけるが、相変わらずお母さまはアトリエから出てこない。私も声をかけたが聞こえていないのか、返ってくる言葉はなかった。

 部屋の中をちらりと覗く。

 キャンパスに向かっているお母さまがいる。何かに憑かれたように一心不乱で絵を描くお母さまの姿が酷く恐ろしく見えた。

 一体お母さまに何があったというのだろうか。このままではお母さまが死にかねない。

 無理矢理アトリエから引きずり出そうとしても、まるで子供のように暴れ泣き喚くので手に負えないという。私たちはお母さまが衰弱するのをこのまま待つしかないというのだろうか。



 ▼



 暑い。ものすごく暑い。でも同じくらいに眠い。

 あまりの暑さに目が覚めてしまったが、まだまだ眠いのでこのままもう一度寝てしまおうと瞳を閉じたが、煩わしいほどの暑さが眠気の邪魔をする。体中が汗でべたつくのも気持ち悪い。


「あーもう!」


 何に対してなのかわからないが、苛立ちを口から洩らしながら私はゆっくりと重い瞼を開いた。時計を見上げると今は真夜中の二時を過ぎたばかり。

 まだ四時間は眠れる。が、この暑さのままでは無理だ。

 私は重々しい溜息を漏らすと、ゆっくりと体を起こす。その瞬間、軽い頭痛と眩暈が襲ってきた。


「っうぁ」


 頭痛は大したことはない、ひどいのは眩暈の方だ。次第に倦怠感も加わり、このままベッドに逆戻りしてしまいたい気持ちだ。

 おそらく頭痛と眩暈と倦怠感は中途半端な時間に目が覚めたからだろう。もう一眠りすれば、朝にはきっとすっきりしているはずだ。

 しかし一度起きてしまったからにはこのままじゃ眠れない。私は一度起きたら二度寝が困難なタイプである。

 せっかくだ、一度起きて水でも飲んでくるとしよう。唾液が絡まって気持ち悪いし、だんだん喉の渇きも感じてきたので丁度いい。


「暑い……」


 億劫に思いながらも私はのろのろとベッドから抜け出した。そして水を求めてキッチンへと向かうために、私は自室を後にした。

 真っ暗な廊下を歩く。しかしその足取りは重い。倦怠感からか、思うように体が動かない。重い体を引きずるように進む。

 今は夏真っ盛りだが、今夜は特に暑い。日中は言わずもがな蕩けそう(とろけそう)なほどには暑かったが、日が落ちても気温はさして変わらずうだるような暑さが続いている。


「キッチンが遠い……」


 子ども部屋は二階にあるが、キッチンは一階だ。大した広さの屋敷でもないので普段はさほど困らないのだが、こういう時は二階にもキッチンを用意していてほしいと思ってしまう。

 ふらふらしながらもやっとたどり着いた一階。廊下は真っ暗で、誰もいない。真夜中なのだから当然だ。

 お父さまもお兄さまたちも当然寝ている。使用人たちは唯一住み込みの執事のアンドレ以外は、自宅に帰っているので誰もいない。アンドレも一階の使用人専用の部屋で寝ていることだろう。

 お母さまは……今もまだ起きているのだろうか。

 窓からアトリエが見える。案の定まだ明かりがついていた。今夜も寝ないで絵を描いているのだろう。

 数日前に見たお母さまの姿は、健康的だった頬は瘦せこけており、顔色も悪かった。碌に食べず、碌に寝ない。それを続ければ、あのようになってしまうのも道理だ。

 私の声は届かないかもしれないけれど、様子を見るだけでもと思い私は離れへと向かった。



 アトリエのドアに手をかけ開く。鍵はかかっていない。ドアの隙間から煌々と輝く明かりが漏れだした。それと同時にむわりと油絵の具の匂いが漂う。


「お母さま、起きてるの?」


 できたら寝ていてほしいという期待を込めて中を覗く。残念なことに、期待は見事裏切られた。

 中ではお母さまが一心不乱にキャンバスに向かい合っていた。ぶつぶつと何かを呟きながら必死に筆を動かしている。その様子は酷く不気味だ。

 お母さまの見た目は前回見た時よりもずっと悪化していた。青白い顔で、目は充血し、頬骨が浮き出るほどに痩せている。

 普段から散々不健康と言われている私よりもずっと病的に見えた。このままでは死んでしまいかねない。


「お母さま、少しでも寝た方がいいですよ」


 返事はない。視線はキャンバスから動かない。無視、されているわけではない。おそらく聞こえていないのだ。何もかもが。視線の先にある、キャンバスだけに全神経が集中している。


「お母さま、お腹減ってませんか? 何か食べましょう?」


 私は諦めることなく、声をかける。三度、四度、五度。繰り返し、お母さまを呼ぶ。しかし、お母さまの視線は動かない。

 ジクリと胸の奥が痛む。

 お母様の耳には私の声は聞こえないし、瞳には私の姿はうつっていない。まるで私の存在そのものが否定されているよう。

 外の静けさも相まって誰もいない世界に一人取り残されたような孤独を感じる。

 こっちを向いて! 私を見て!


「お母さま!」


 叫ぶように声を荒げるが、お母さまの視線はキャンパスから動かない。全く私の声は聞こえていない。


「お母さま! このままでは死んでしまいます!」


 どうしても止めたくて、私はお母さまの腕にしがみ付く。筆を持った手は、碌に食べても寝てもいないにしては想像よりもずっと力が強くて筆を止めることすら出来ない。

 だがそれでも少しはお母さまの意識をキャンバスから逸らすことは出来たようで、ようやく視線が私に向けられた。

 しかしその口から出た言葉は、いつもの優しいお母さまからは信じられないものだった。


「邪魔をしないで!」


 そんな力どこにあったのかと思うような強い力で私はつき飛ばされた。


「きゃっ」


 私は乱雑に積まれていたキャンパスの山に突っ込んだ。その拍子にガラガラとキャンバスが落ちてくる。

 表向きになり、なにが描いてあるのか見えた。キャンパスにはすべて同じ人物が描かれていた。

 構図や服装などは違うが、金髪に首に三つのほくろ。それだけは全ての絵に共通した。


「私は描かなければいけないの! ブランディーヌ様を崇め奉るために! ブランディーヌ様のお姿を!」


 つんざくような声でお母さまが喚く。聖女の名を何度も繰り返す。まるで神にでも祈るかのように。

 お母さまのこんな姿は初めて見た。


 オトテール領では、聖女ブランディーヌを領地の活性の為に、広告塔のように扱ってはいるが神としては祀ってはいない。この地で信仰されているのはあくまで土着の神や精霊だ。

 領主夫人であるお母さまも同様だ。だというのになぜ聖女ブランディーヌを崇めているのかわからない。少し前まではそんなこと一言も口にしなかったというのに。

 ふと嫌な予感がして、視線を前方に向けた。お母さまの背後、そこには数日前にお母さまが私の為に買ってくれた聖女ブランディーヌの姿絵があった。

 だがその絵は、数日前に見た時とはずいぶんと様変わりしている。

 中央の祈る少女――聖女ブランディーヌは変わらない。しかしその背後が後光輝く神々しいものから、暗雲立ち込めるおどろおどろしいものへと変わっていた。

 お母さまが描き足したのだろうか? いや、それにしてはタッチが違う気がする。


「え?」


 絵を見つめていると絵がぐにゃりと歪んだように見えた。見間違えかと思い目をこすり、もう一度絵に視線を戻る。すると次は絵からもやもやと黒煙が上がっていた。


「な、なにあれ!」


 あまりに奇怪な現象に、私は思わず叫び声をあげる。その声がうるさかったのか、振り返ったお母さまがギロリと私を睨みつける。


「私の邪魔をするな! 邪魔をするなら許さない」


 そう言いながらお母さまは手近にあったペインティングナイフを手に取り、私に向けた。私を睨みつけるその顔に恐怖を感じる。

 お母様が私やお兄さまたちを叱ることは当然今まで何度もあった。だがそれは一方的に怒り散らすようなものではなく、慈悲を持って窘めるようなもっと柔らかい表情だった。

 しかし今のお母さまの顔は、まるで絵本に出てくる悪鬼のような形相だ。今にも私を食い殺してしまいそうな迫力がある。酷く恐ろしい。これは本当にお母さまなのかとすら思ってしまう。

 いつも優しいお母さまが怖い顔をして、私にペインティングナイフを向けている。これは悪夢が何かなのではないかと思わずにはいられない。

 むしろ夢であってほしいとすら思う。目を覚ましたら何もかもが元通りで、お母さまはいつも通りの優しい笑顔で微笑んでいる。

 そうであってほしいと思うが、これは現実。悪夢が醒めることはない。

 再びお母様の背後に視線をやると、黒煙は先ほどよりも大きくなっていた。もやもやと漂うそれは徐々に一か所に集まり、何かを形作っているように見える。

 この黒煙がお母さまをおかしくした犯人なのだろうか?

 だとしたらこの黒煙を消せばお母さまは元に戻るのだろうか?

 ペインティングナイフを片手にお母さまが近づいてくる。血走った目が私を捉える。逃げなければ殺される。そう本能で感じた。

 逃げるために腰を上げた瞬間、くらりと視界が歪む。一時期鳴りを潜めていた眩暈が再び襲ってきた。よりにもよってこんな時に……。

 倦怠感も増してきて逃げるどころか、立ち上がることすら出来ない。

 じわじわと視界が真っ白に染まっていく。何も見えない中、お母さまの足音だけが鮮明に聞こえた。

 逃げなければ、と思いながらも私の意識は沈んでいった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ