1、雨の日
「ブランシュ、気分はどう?」
私に、お母さまが心配そうに声をかけきた。今朝起きてすぐに嘔吐した私は、熱もあったためにベッドに逆戻りすることとなった。
「もう、大丈夫です。お母さま」
私は口癖になった言葉を言う。お医者様の見立てではただの風邪だ。大したことはない。
「ダメよ、そう言ってすぐ無理しようとするのだから。まだ熱も下がりきっていないでしょ。今日は大事をとって寝ときなさい」
私は起き上がろうとしたが、お母さまの手によって再びベッドへと戻された。なら代わりにとへッドボードに置いていた本を取ろうとしたら窘められる。
本当に大丈夫なんだけど……。喉は少しイガイガするくらいだし、朝からあった吐き気も既に引いている。熱は微熱程度だ。
お母さまは過保護すぎる。私ももう小さな子どもじゃないのに。
「退屈だなぁ」
お母さまが部屋から出て行き一人になった部屋は静かだ。
ベッドに寝たまま窓に目を向けると、風になびくカーテンの隙間から青空が垣間見えた。時折聞こえてくる声は、ダニエルお兄さまとマクシムお兄さまだ。今日も勉強の合間に二人で剣のお稽古をしている。
本当なら今日は私も入れて三人で遊ぶ予定だったのに、私が体調を崩して遊べなくなったから剣のお稽古に切り替えたのだろう。
お兄様たちと遊べなかったことも悲しいが、それよりもまた約束を破ってしまったのが一番悲しい。
約束を破ったのは今回が初めてじゃない。もう両手では数えられないくらいに破っている。勿論故意ではないし、全部体調不良のせいなのだけれど。お兄さまたちはいつも許してくれる。
ダニエルお兄様はいつも「体調不良はブランシュのせいじゃないよ」って笑って許してくれる。
マクシムお兄様はちょっと意地悪であれこれ文句も言ってくるけど、なんだかんだ言ってもまた遊んでくれる。
二人ともとっても優しい。だがその優しさが時には心苦しい。
私は生まれた時から体が弱い。お母さまの話では今よりもっと小さかった時は何度も死にかけたらしい。お医者様には十歳になるまで生きられるかわからないと言われたほどだ。物心つく前のことなので覚えてはいないけど。
十歳の誕生日を迎えた際には成人の祝いかというほど盛大に祝われたものだ。大げさだと思ったが、それくらいに私が生きているとこは奇跡らしい。
今年十一歳になるが、少しは丈夫になったかというと全くそんなことはなかった。昨日は花壇の手入れの手伝いをしていたら途中で倒れたし、今もこうして寝込んでいる。
今回だけではない。季節の変わり目には必ず体調を崩し寝込むし。天気が崩れると頭痛に悩まされ、慣れないものを食べたら胃を壊し、ちょっとでも無理をすると熱を出す。
暑さに負け、寒さにも負ける。要は虚弱体質なのだ。
虚弱な自分が嫌でしょうがない。健康になりたい。
お兄さまたちのように自由に走り回れないのも辛いけど、一番辛いのは家族に迷惑をかけていることだ。
でもお父さまもお母さまもお兄さまたちも誰も私を責めない。いつも心配してくれる。なのに私は何も返せない。
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うっすらと目を開ける。窓の外は薄暗い。壁掛け時計に目を向けると、眠る前から既に四時間経っていた。どうやら私は長いこと眠っていたらしい。
体のだるさはかなり軽減されたが、まだ少し熱っぽい気がする。しかし起き上がれない程ではない。
ゆっくりと上半身を起こすと、カーテンを開けた。どんよりとした分厚い雲が空を覆いしとしとと雨が降っている。午前中は晴れていたというのに。
「お嬢様、起きられましたか?」
メイドのクラハだ。私が起きたのに気が付いたようで、返事を返すと部屋へと入って来た。
「そろそろ御夕飯の時間ですが、お食事はどちらで召し上がられますか? 体調がすぐれないのであればこちらに運びますが」
「大丈夫、皆と一緒に食べるわ」
この程度ならたいしたことはない。大丈夫だ。いつも忙しく食事は仕事をしながら部屋でとっているお父さまも、今日は仕事がひと段落したようで皆と食べれると今朝言っていたので私も今日は一緒に食事したいと思っていたのだ。
クラハに着替えを手伝ってもらい、ダイニングルームへと向かう。
「ブランシュ、もう起き上がって大丈夫なのかい?」
ダイニングルームへ入るとすぐに、お父さまが声をかけてきた
「ええ、もう熱も下がりましたし問題ありません」
少し熱っぽいのは伏せておく。お父さまもお母さまもお兄様たちも心配性なのでばれてしまえば必要以上に心配してくるのだ。
「嘘つけ嘘を。不細工な顔してるぞ」
なんてことを思っていたら不機嫌そうな顔をしたマクシムお兄さまが口を挟んできた。マクシムお兄様は何気に勘が鋭い。隠していてもすぐに私が具合が悪いのがバレてしまうのだ。
それにしてもマクシムお兄様は相変わらず言い方がきつい。もっと優しい言い方してくれてもいいんじゃないのかな。
「ほんと素直じゃないんだから……。『笑顔がぎこちないから体調がまだよくないんじゃないか』ってマクシムは言いたいんだよ。ブランシュが心配だから些細な変化にすら気が付けるほどには見ているくせに変な所で意地はっちゃってさ」
「な、な! なにを言っているんだ、兄さん! 私は貧弱ブランシュのことなんて心配してない!」
顔を真っ赤にしながらマクシムお兄様がダニエルお兄様に反論するが、ダニエルお兄様は嬉しそうににこにこ笑うばかりだ。
「ブランシュおいでなさい」
手招きするお母さまに近づくと、額に手を添えられた。
「……熱はないようね。あまり無理しないで、夕食を食べたらすぐに部屋に戻るのですよ」
「はあい」
これだからあまり知られたくなかったのだけど、バレてしまったのなら仕方がない。大人しく返事をしておく。
「旦那さま!」
自分の席へとついた時、慌てた様子の執事のアンドレが駆け込んできた。お父さまの所まで行き、何かしら耳打ちする。
「なんだと!?」
お父さまの驚愕の声が部屋に響いた。いつも冷静なお父さまが取り乱すのは珍しい。どうしたのだろうか。
「何かあったのですか?」
「どうやら、昼から降り出した大雨のせいで西の川が増水しているらしい。このままでは川が氾濫しかねない」
「まぁ!」
本村の西にはたいして広く無い川がある。普段は穏やかで、生活用水にも使われており近隣に住む者たちにはなくてはならない川だ。
しかしひとたび大雨が降ればすぐに溢れ出し、民家を襲う。ここ数年で近隣の住民たちは何度も洪水を経験している。一年前にも洪水で流された民家が何軒もあったと言っていた。
ようやく復旧も終わり落ち着いてきたというのに、また氾濫されてはかなわない。
いつも冷静なお父さまが慌てているのも仕方がないだろう。
「悪いが先に食べていてくれ、少し出かけてくる。ダニエルお前も来なさい」
「はい」
お父さまとダニエルお兄様は慌ただしく連れだって出て行った。
お父さまは、我がオトテール男爵家の納めるオトテール領の領主なので領地内のトラブルにはいち早く駆けつけなければならない。いつも大変そうだ。
しかし常に領民たちのことを考えて行動をしているお父さまは私の自慢でもあった。
残された三人で食事を終えたが、西の川が気になって会話も碌に弾まないままに食事を終えた。
食事を終えると、お母さまに言われた通りに大人しく部屋へと戻る。手早く就寝準備を済ませ、ベッドに入ったが、眠気はいっこうに訪れない。
昼間眠ったから。と、いう訳ではない。心配ことが原因だ。
一番に心配しているのは勿論、お父さまとダニエルお兄様のことだ。貧弱な私と違って、雨に濡れたからとすぐに風邪をひくわけではないだろうけど、長時間雨風に晒されればわからないし、増水した川に落ちたりなどの危険も多い。
二人なら大丈夫とも思うけど、不安はぬぐえない。
心配事はそれだけではない。橋が落ちないか、畑が無事かどうかも気になる。私なんかが心配してもなるようにしかならないのだろうけれど。
カーテンを少しだけ開けて外を眺める。雨は先ほどよりも勢いを増しており、止む気配はない。
「っ……」
くらりと頭が揺れる。一度下がったはずの熱がまたあがってきたのかもしれない。額に手をやると、平時よりもやや熱い。
熱のせいで思考の回らない頭でぼんやりと外を見ていると、眩い光が視界を照らし、間を置かずに轟音が鳴り響く。
あまりの大きな音と光にとっさに瞳を閉ざし、耳を両手で塞いだ。稲光と雷鳴の間隔のなさを考えると、雷は随分と近くに落ちたようだ。
暫くすると、少し離れた場所から煙が立ち上っているのが見えた。こんな雨の日に焚火なんてする人はいない。先程の雷が落ちたのだ。
あの辺りには確か白樺の林がある。おそらく雷が白樺の木に落ちたのが原因で炎上したのだろう。
この雨の中だ。すぐに火は消えると思っていたけど、煙はもうもうと大きくなっていく。挙句の果てに、随分と離れたここからでも火の手が見え始めた。このままでは畑や民家にまで燃え広がってしまうかもしれない。
山火事になってしまってからでは危険だ。お父さまたちは気が付いているのだろうか。林と川は少し離れているのでもしかしたら気が付いていないかもしれない。だとしたら早く知らせないと!
急いで立ち上がろうとしたものの頭がぐわりと揺れて視界が回る。私はベッドへとへたり込んだ。酷く息がしづらい。息をする度に熱い息が口から漏れ出る。
こんなところで座り込んでいる暇はない。早く誰かに知らせないと火が勢いを増して大変なことになってしまう。
無理矢理に立ち上がろうとするものの身体にうまく力が入らない。それどころが急な眠気が襲ってくる。
眠気を振り払うように頭を振ると、次は気持ち悪さが襲ってきた。這ってでも行こうとしたが重い体がそれを許さない。次第に吐き気も覚えてきた。
「お父さま……」
次第に意識すら奪っていく。もう瞳を開いていることすら難しい。徐々に視界が真っ白に変わっていく。
薄れゆく意識の中で伸ばした手は無意味にシーツへと落ちた。