8 釣果と赤毛のライバル
天気も良くて風もなく、海は大変に穏やかだ。絶好の釣り日和である。が、手製の酔い止め薬はしっかりと飲んでおく。
クシェルはザムの船に乗って、湾を出るギリギリの位置を目指した。小さな木の船だが、水魔石によるジェット推進の機構を備えているため、ギュンギュンと進んでいく。
船はあっという間に湾の端まで走り、良さそうなポイントに到着した。海が急激に深くなり、色が濃く変わる境目だ。
――この湾の境は『リヴァイアサンの断崖』と呼ばれている。
神話の時代に、魚の神獣リヴァイアサンが巨大な尾を振って海底を叩き割り、この地形ができたのだとか。
「よし、このへんでいいか?」
「ばっちりです。海の深~いところに釣り糸を垂らしたいので。――それじゃあ早速」
クシェルは積んできた釣り道具に手を伸ばした。といっても、即席で用意したごく簡単な道具だ。
蜘蛛の魔物アラクネの太く強靭な糸の先に、かぎ針とオモリの石と、マーメイドの鱗を一つ結んである。マーメイドの鱗は海水の中で魅了の魔力を放つのだ。ごく弱い作用ではあるが、ちょっとした魚寄せに使える。
餌として針先にイカを付けて、海の中にポイと投入した。丈夫な皮手袋をはめた手で、スルスルと糸を下ろしていく。
舳先と船尾で、クシェルとザムはそれぞれ釣りを開始した。
そうしていくらか待った後。クシェルは釣り糸を、よいしょと引き上げる。
「う~ん。深すぎて、かかってるのかどうかよくわかりませんね。……――って、あれ? あっ、かかってる? かかってるかも……! 糸がブルブルしてきました!」
「何!? 早いな! よし、引け引け!」
糸を引くにつれて、ブルブルとした反応が強くなっていった。暴れるように震える糸を、力一杯、引き上げる。
ついにかかった獲物が水面に顔を出し、クシェルは皮手袋でヒレを掴んで、船上に引っ張り上げた。
「じゃん! いい感じの大物が釣れましたよ!」
「あっ、これ……! 新種の魔物(仮)にそっくりじゃねぇか!」
クシェルが掲げた魚を見て、ザムが声を上げた。
釣れた魚は人間の頭くらいのサイズで、禍々しい悪魔のような姿をしていた。目がドゥルリと飛び出て、体中がボコボコと異様に膨れ上がっている。
これはこういう魔物――ではなく、単純に普通の魚が可哀想な姿になってしまっただけの代物だ。
「これ、魔物でもなんでもなくて、ただの深海の魚ですよ」
「確かに、魔法を使って暴れる気配がねぇな。でも魚にしちゃ、見た目が酷ぇが……こんな爆発したみたいな魚いるか?」
「深~い海の底では、もっとスマートな体型だと思いますよ。深い場所の魚たちは、海面に上げられると体型が変わってしまうんです」
ザムは興味深そうに膨れ上がった魚を突きながら、話の続きを待っていた。が、深海魚の変身の理由は、後で説明しよう。まずは釣りに集中だ。
「説明は後にします。どんどん釣っていきましょう! 船を出してもらえる機会なんて、そうないので、海の幸をたんまりといただきたく……!」
「……お前、俺を体よく使いやがったな? 飯の材料が欲しかっただけだろ!」
「イッヒッヒ」
魔女の笑い声を上げながら、クシェルはまた深い海へと釣り糸を垂らした。
なんやかんやザムはノリが良くて、結局この日はガッツリと釣りに勤しむことになったのだった。
途中、岸に戻って休憩も取りつつ、また海に出て――ということを繰り返し、引き上げたのはお昼をずいぶんと過ぎた、三の時だ。
両手のバケツに大魚を入れて、クシェルはザムと共に駐在所へと戻ってきた。
シャルアスは執務机で何やら仕事をしていたが、二人を見ると立ち上がり、装着されたままの風魔法の浮き具を解除した。
寄ってきて、バケツの中の魚へと目を向ける。クシェルは悪魔のような見た目をしている魚を両手で持ち上げ、シャルアスの前にズイと掲げた。
「新種魔物の正体、わかりましたよ。魔物ではなく、ただの深海魚でした。このバケツの中のボコボコ魚、全部、深海魚です」
「深海には膨れた魚しかいないのか」
真顔で魚を見つめているシャルアスに、クシェルは魔女の知恵を披露した。
「海の深~いところには強い水圧がかかっているので、空気なんかもギュッと押されて、泡にならずに水に溶け込んでしまっています。でも、水上には圧がありませんから、縮こめられていた空気がブワッと広がって泡になります」
クシェルは手をギュッとしたり、広げたりして説明をする。
「この、ブワッと広がって泡になる現象が、魚の体の中で起きてしまったんでしょうね。深海魚が体の中に宿していた『水溶けの空気』が、一気に泡になって現れてしまって、体が内側から爆発を起こしてしまった、と考えられます」
膨れ上がった魚を見て、シャルアスは一言、『哀れだな』と呟いた。声音が平坦すぎて、本当に思っているかどうかは読み取れなかったが。
ザムは意気揚々とバケツを抱えて、ガッツポーズをしていた。
「この魚を持って、もう一度コレクターに詐欺をチクりに行ってやるぜ! 正体をすっかり暴いてやったから、今度こそ目が覚めるだろうよ」
「お前の相談の受理番号を出しておいた。その顧客とやらが、詐欺の被害届を出すようなら、この番号を添えるよう伝えておけ。滞りなく対応できるよう、事の次第をまとめておく」
「おぉ! ありがとよ!」
ポンと気安く肩を叩くと、ザムは書類を受け取り、バケツを抱えて駐在所を後にした。
彼の背中を見送って、クシェルはクルリと身をひるがえし、バケツと共に奥の調理場へと移動する。
まな板やら包丁やらをテキパキと用意して、魚をさばき始めた。
「今日の夜ご飯は魚料理ですよ。お腹を空かせておいてくださいね」
「妙なものを出したら契約を切るからな」
(この人、完全に納豆を根に持ってるわ……)
冷たい睨みを寄越したシャルアスに、クシェルは渋い顔で返事をした。
――と、そんなやり取りをしていたら、駐在所の扉が開かれた。中に入ってきたのは青い騎士服に黒いマントの男――警吏だ。
同僚だろうか、と目を向けたら、その男はよく通る朗らかな声を寄越した。
「遅くなってすまん、シャル! 休憩入ってくれ!」
明るい茶色の短髪に、日差しのような黄色の瞳をしている。夜を思わせる黒髪、紫目で、静かな喋り口のシャルアスとは、正反対の男だ。
彼はクシェルに気が付くと、続けて声をかけてきた。
「って、あれ? 新しいメイドさん入ったのか」
「クシェルと申します。シャルアスさんの未来の恋人……の、予定です」
右手に包丁、左手に切り落とした魚の頭を手にした状態で、イヒッと魔女の笑みを浮かべて挨拶をしておいた。
シャルアスの同僚の警吏は、引きつった笑顔を返してきた。
「お、おぉ……。俺はマルコ・ラスタ。よろしく。……シャル、お前、女の趣味変わったのか……?」
「違う。この娘はただの魔女だ。解呪の方法を探るために近くに置くことにした」
「あぁ、なんだ。探してた悪夢の魔女か。若い娘だったんだな」
「探していたのはロレッサだが、その娘だそうだ。解呪には恋心が有効らしく、謝礼の金欲しさに俺につきまとっている」
「そりゃあ、また、難儀だなぁ」
マルコと名乗った警吏は、シャルアスとコソリと言葉を交わしていた。
魚をさばきながら、背後で交わされる二人の話に耳を傾ける。会話の様子から、二人の仲の良さが感じ取れた。
「魔女を駐在所に置くというのは、ちょっとアレだが……まぁ、手あたり次第、やってみたほうがいいわな。お前、相当参ってるだろうし」
「理解に感謝する。……面倒をかけてすまないな。少し休ませてもらう」
どうやら、マルコはシャルアスの交代要員であるらしい。会話を終えると、シャルアスは執務椅子を家具の影に隠れる位置に移動させた。
腰を掛けて腕を組み、いつもは見せない脱力した姿勢を取る。そのまま目をつむって、居眠りをする体勢に入った。
クシェルは魚の身を洗いながら、チラと目を向けて言う。
「その体勢で休めます? ちゃんと横になったらいいのに」
「深く寝入ると悪夢に蝕まれる。浅い眠りのほうが楽だ」
同僚マルコは先ほど、シャルアスの状態を『相当参ってる』と断じたが、間違いはないようだ。
彼は悪夢を恐れて、眠るのを避ける段階に入っているよう。こうなると、心身の健康が大きく損なわれるのも、時間の問題である。
「哀れな呪われ人ですねぇ。早く私に恋をしてしまえばよいものを。そうすれば、お互い幸せになれるのに」
クシェルは気遣いと文句と愚痴を込めて、ペラッと言ってやる。シャルアスは目をつぶったまま黙っていたが、マルコが返事を寄越した。
「そう軽く言ってやるな。一口に恋をしろと言っても、こいつは女嫌いだからなぁ……難しかろう。そのくせ任務とあらば、どんな女ともさらっと添ってみせるが」
「え、私にはまったく添ってくれませんが……。たとえ演技でもイチャコラしていれば、そのうち本当の恋に変わるかもしれないのに」
やる気を出せば、女と添うことができるというのに……今のところ、クシェルはこれっぽっちも協力を得られていない。何とも腹立たしい。
ムッと頬を膨らませたクシェルに、マルコは笑って言う。
「ははっ、魔女娘よ、お前さんの髪の色が赤かったら、気を引けていたかもしれないな。シャルの奴は赤毛の女を好いてるから」
「赤毛がタイプなんですか。なるほど……染めてみようかしら」
軽口を交わしていたら、シャルアスから抗議の低い声が上がった。
「好みというわけではない。恩人の女性が赤毛だったというだけだ」
「わかってるよ。冗談だ。――というか、いっそその恩人を探し出して協力を頼んだらどうだ? 呪いが進んでるし、もうなりふり構ってられないだろう」
「……そうだな。街の見回りで赤毛の女性を見かけたら、教えてくれ」
「瞳の色は?」
「オレンジだ」
シャルアスはそう答えると、さらに脱力してズルズルと椅子に身を沈めた。独り言のように、ボソリと呟きをこぼす。
「……彼女なら、呪いを解いてくれるかもしれないな」
ごく小さな呟き声だったが、クシェルの耳はばっちり拾い上げた。
(ま、まずい……私の百万Gが、赤毛女のものになってしまう……)
思わぬところでライバルが出てきてしまった。赤毛の恩人とやらが見つかる前に、機械人形の心を奪ってしまわないと。
とはいえ、お洒落で髪を染めている人も多くいるので、そう簡単には見つからないだろう。華やかな赤色の髪は、街の派手好きな女性たちに好まれているのだ。
クシェルは魔草の染髪剤を作り出した薬師に、胸の内でコソリと拍手を送っておいた。……寝不足ですっかりやつれている様子のシャルアスには、ちょっとだけ申し訳なさを感じつつ。