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27 夕焼けの浜で

 ドボボボボ――という水と泡の音を聞きながら、クシェルは手足を力一杯動かして水面を目指し、どうにか顔を出した。


 水深の浅い磯場公園だったら、転落と同時に大怪我を負っていたところだが、不幸中の幸いか、このあたりは水深が深い。


『助かった――……』と、一瞬思いかけたけれど……まったく助かってはいない。水深が深いということは、すなわち、溺れるということだ。


 大波が押し寄せては、岩壁に勢いよくぶつかって激しく砕ける。同時に、でこぼことした岩壁の隙間に、膨大な量の水がゴウッと吸い込まれ、一拍おいてドドッと噴き出してきた。


 押したり、引いたり、砕けたり――水流はめちゃくちゃだ。


 水に落ちたら浮いて待て、とはよく言ったものだが、大荒れの海面でそんなことはまずできない。水流にスカートを引っ張られて、クシェルはまた水の下に沈んだ。


 どうにかもがいて顔を出し、また水を被って、むせながら息を吸って、沈んで――。


 たった一声すらも発することが叶わないまま、水の中でもみくちゃにされている自分は、さながら洗われている布人形のようだな。――なんてことを、意識の端の端で思ってしまった。……死の際の現実逃避だ。




 そんな現実逃避を始めてしまった魔女の上――岩壁の上では、駆けつけた巡回警吏シャルアスが、馬から飛び降りると同時に、マントを力任せに取り払った。


 目にも留まらぬ速さで腰のサーベルを抜き捨てながら、木柵が倒れた落下現場に駆け寄り、身を乗り出して海面をうかがい見る。


 海の様子とクシェルの状態を素早く確認すると、シャルアスは迷うことなく崖の向こうへと身を投じた。


 ドボン、と、二度目の水柱が上がる。

 着水と同時に中指の風魔石の指輪を起動させて、風魔法による浮力を得た。


 波に翻弄されてもがくクシェルに泳ぎ寄り、胴に腕を回して支える。クシェルはシャルアスの胸と肩に縋りつき、よじ登るようにして水上に顔を出した。


 ゲホゲホと荒い咳を繰り返すクシェルを抱えたまま、シャルアスは岩壁を離れて泳ぎ出す。


 クシェルを落ち着かせるように、シャルアスは努めて穏やかに声をかける。


「脇の入り江から岸に上がる。少しの辛抱だ」

 

 咳で返事もままならないクシェルを励ましつつ、入り江のほうへと泳いでいった。





 ほどなくしてたどり着いた入り江は、入り江というより『岩壁の隙間』と言った方が正しいような、小さな砂溜まりだった。


 北、東、南の三方向に大岩の壁があり、西側だけが海に面していて、開けている。


 ゴツゴツとした岩と、サラサラの砂が入り混じった、どっちつかずの地面を這って、クシェルはヒィヒィゲホゲホと上陸を果たした。


 間もなく沈もうとしている夕日に見守られながら、クシェルとシャルアスは波打ち際に膝をついて座り込む。


 へたり込んで咳を繰り返すクシェルの背を、シャルアスが労わるように、優しく叩いた。


「大丈夫か?」

「……た……助かりました……げほっ……はぁ、生きてる……」


 噛み締めるように呟きながら、咳を出し切る。しばらくの間、咳と呼吸と呟きを繰り返していたら、そのうちにのども回復してきた。


「ありがとうございます、心から…………あの、シャルアスさんも大丈夫ですか?」


 ようやく落ち着いてきた頃に、ふと気が付いてしまった。自分の背を叩いているシャルアスの手が、震えていることに――。


 クシェルが声をかけると、シャルアスは手を膝の上へと移し、誤魔化すように強く握りしめた。


 けれど、まったく隠せていない。拳の状態でも震えは止まっていないし、手の先だけでなく、その大きな体だって震えている。


 シャルアスは膝の上の拳を見下ろして、深く息を吐いた。


「そうだな……俺の方が大丈夫ではないな。情けない限りだ……」


 白状したことで諦めがついたのか、彼は握りしめていた拳を解いた。


 大きく震える指先を忌々しげに睨みながら、自嘲めいた声音で話す。震えの理由を、クシェルに教えてくれた。


「……子供の頃に溺れたことがあるんだ。姉たちに突き落とされて、水の中に落ちた。俺は泳げずに……そのまま溺れた」


 話し始めたシャルアスは、声までもわずかに震えていた。


「水の上に手を伸ばしても、彼女たちは俺の手を払い除けて遊んでいたよ。三人で、楽しそうに。でも、そのうちに、死に近づいていく人間の姿に恐れをなしたのか、逃げていった。俺は水の下で、その姿を見送ったんだ。人影のなくなった水面を見ていた。誰の目にも留まらず、誰にも気づかれず、このまま一人、沈んで死ぬのかと思った。怖かった……」


 クシェルは話に耳を傾けながら、シャルアスの悪夢が水牢での溺死の繰り返しだったことを思い返し、納得した。まさに、悪夢の呪いが強く作用しそうな思い出だ。


 吐き捨てるように喋り切ると、シャルアスはボソリと言葉を足した。


「どうにか助かった身ではあるが……未だに水が恐ろしくて、体が震える。もう力無き子供ではないというのに、恥ずかしいことだが……」

「……何も、恥ずべきことではないでしょう」


 項垂れるように視線を落としているシャルアスに、クシェルは思うがまま、言葉をかけた。


「人間はパッと変身して、子供から大人に変わるわけではなく、大人という身は子供の延長線上にあるものです。区切りの境なんてものはありません。なので、子供時代にあったことは当然、そのまま大人の身に引き継がれます。ですから、あなたのその震えは、何一つ、おかしなものではありませんよ。今なお恐れ、震えることは、何も恥ずかしいことではありません。……溺れたの、怖かったですね。よくぞ生きていてくださいました」


 ペラペラと言いたいこと言い、肩をポンポンと叩いてやる。大人のシャルアスへの労いでもあり、子供のシャルアスへの慰めでもある。


 顔を上げたシャルアスに、イヒッと魔女の笑みを浮かべて提案した。


「震え、止めてあげましょうか。魔女パワーで」

「……できるのか?」

「えぇ、いきますよ。――はいっ!」


 クシェルはシャルアスの両手を取ると、自分の両手で包み込んでガッシリと握った。――力技の震え止めである。


 一瞬ポカンとした顔をして、彼は気の抜けた声を発した。


「……魔法の類を期待していた」 

「世の中、物理の方が手っ取り早いこともあります」


 ギュギュッと力を込めて無理やり震えを押さえ込んでやると、手の先の震えはいくらか良くなってきた。


 クシェルは正座から膝立ちへと体勢を変えて、両腕をガバッと広げて言う。


「体も震えていますね。ガッツリ拘束して、押さえ止めてあげましょうか」

「物理の震え止めは遠慮しておく……手の先だけでいい」

「抱擁の力を侮ってはいけませんよ。私、小さい頃に貯水池で溺れている子を助けたことがありましてね、その子には効果てきめんでしたよ! ブルブル震えながらワンワンと大泣きをしていましたが、すっかり止めてやりました。子供にも効きましたし、きっと大人にだって――……って、どうしました?」


 シャルアスは紫色の目を、こぼれそうなほどに見開いていた。――いや、紫色ではなく、今は『赤紫色』と称した方が正しいか。


 夕日は水平線の上に乗り、空と海を、街のすべてを、真っ赤に燃やしている。


 クシェルのミルクティー色の髪も燃えるような赤色に染め上げられて、若草色の瞳はオレンジ色に輝いていた。


 夕日に燃やされながら、しばしの間、二人は無言のまま向き合う――。


 突然、起動停止してしまった機械人形をキョトンと見つめているうちに、はたと気が付いた。


(――あら。シャルアスさん、震えが止まったみたい)


 じっと座り込んでいるうちに、気持ちが落ち着いてきたのだろうか。――そう解釈して、クシェルは広げていた両腕を下ろした。


 そうしてシャルアスの様子をうかがっているうちに、ふと、彼のサーベルの鞘へと目が留まった。


 刀は抜き去られていたが、その鞘の中から、ニュルッと三本の足が覗いている。吸盤の付いたこの足は――タコの足だ。


「あ、シャルアスさん、タコが入ってますよ! タコ!」 


 クシェルはそのへんに落ちていた小ぶりな石を引っ掴んで、サーベルの鞘の口に突っ込んだ。


「ちょっと蓋をさせていただきますね! このまま持ち帰りましょう。夜ご飯用に」

「あ……あぁ……」


 上の空、という雰囲気の、ぽやっとした返事をされたが、まぁ、気にしないでおく。震えは止まったようだが、きっとまだ本調子ではないのだろう。


 立ち上がり、クシェルはスカートの裾をまとめて水を絞る。

 

 そして、未だ正座をしたまま呆けているシャルアスの手を取って、引っ張り上げるようにして立ち上がらせた。


「震えもいくらか落ち着いたみたいですし、行きましょうか。すっかり体が冷えてしまったので、今晩は熱々ホクホクのご飯を作りますね。――と、その前にエドモンドをしょっ引いてもらわないと……!」


 ペラペラと話をしながら辺りを見回してみる。小さな砂溜まりの浜の向こうに、岩壁を切り出して設けられている階段が見えた。そこから上の公園に行けそうだ。 


 クシェルはシャルアスの手を引いて、夕焼けの浜を歩き出した。




 シャルアスはまばたきも忘れて、視界に広がる光景を、ただただ受け止める。


 風に揺れている、燃えるような美しい赤毛。手を引いて颯爽と前を歩く、自分よりもずっと小さな娘。


 あの日と同じ光景が、今、目の前にある。幼い日に出逢った赤毛の恩人は、間違いなく、クシェルだ――……。


 溺れた自分を助けてくれたのは、三つ、四つは年下の、小さな少女だったのだ。


(歳も合うし、先ほど彼女が言っていた貯水池という場所も合う。震えて大泣きをしたのも確かだし、抱きしめられたのも……。髪の色も目の色も、思い出の中の姿と、たった今、一致した――……)


 確信を深めるほどに、胸の中にはじわりじわりと、たまらない気持ちが満ちてきて、心臓の音はどうしようもないほどに騒がしくなってくる。


 シャルアスは夢の中にいるような、ふわふわとした心地を感じながら、あの日へと思いを馳せた。


 小さな体を橋の上から投げ出して、ともすれば彼女まで池に落ちてしまいそうな体勢で、一生懸命に溺れたこの身を引き上げてくれた。


 年上の大きな少年の体を、全身を使って力一杯抱きしめてくれた。服が濡れてしまうのも構わずに、縋りついて泣く自分を受け入れて、『大丈夫だよ』と、何度も、何度も、声をかけてくれた。


 家の方向を指差すことしかできなかった、情けない自分に付き添って、手を繋いで帰ってくれた。


 赤毛を風に揺らして、オレンジの瞳をやわらかく細めて、別れ際に笑いかけてくれた。


 その姿を、ずっと、心の中の宝箱に大切にしまい込んできた――……。


 


 手を引き、前を歩くクシェルに、シャルアスは伝えたかった言葉を告げることにした。


 子供と大人の間に境などなく地続きであるならば、子供時代の想いを、大人になった今伝えても問題はないだろう。


 先ほど彼女からもらった言葉に背中を押されて、想いを紡いだ。


「……――あなたに出逢えてよかった。ありがとう、クシェル」


 掠れた小声になってしまったが、クシェルの耳には届いたようだ。


 彼女はすぐに振り向いて、ポカンとした顔をして言葉を返してきた。


「はぁ? 突然、何です? かしこまっちゃって。機械人形さん、すっかり海水で故障しちゃいましたね」

「……そのようだ」

「ふふっ、早く乾かして直さないと」


 屈託のないクシェルの笑顔を見ると……もう、機械人形と称されている、この身の故障は致命的なものとなってしまった。


(……あぁ……駄目だ…………顔が熱い…………)


 今、この場が、夕日に焼かれていてよかった。火照りが上って真っ赤になっているであろう顔を、ちょうど誤魔化せる。


 壊れた機械人形は、壊した張本人である魔女に引っ張られながら、赤い浜辺を歩いていった。


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