25 呪いの弱まりと、水牢を覗く魔女
夜が深まった頃――。シャルアスは自室のベッドに転がり、暗い天井を仰いでぼんやりと考え事をしていた。
(呪いが解けてきている、か……)
湖に向かう道中でマルコに言われた言葉が、ずっと頭の中をぐるぐるとめぐっていた。
彼に言われた通り、ここ最近、呪いが軽くなってきているような気がする。事実、眠れる時間が増えてきているのだ。
未だ悪夢は見るが、その内容は朧になりつつある。現実との境がわからずに、苦痛に呻くことがなくなったように思う。
部屋の暗がりを眺めながら、解呪についての魔女の言葉を思い返す。
『――胸の中を恋心で満たせば、呪いを退けることができる』
同族である悪夢の魔女が言っていたのだから、そうなのだろう。……それはわかるが、腑に落ちない。
「恋などと、馬鹿げたことを……。誰も好いてなどいない……」
吐き捨てるようにボソッと呟き声をこぼす。
別に女嫌いというほどではないが、だからと言って、好きでもない。仕事とあらば腕に抱くことはできるが、誰に対しても、恋心を抱いたことなどなかった。
女たちの長い髪も、やわらかなドレスも、宝石の輝きも、甘い香水も……家の三人の姉たちを思わせて、どうにも暗い気持ちが胸に満ちるのだ。
無意味な養子として、飽きられた人形のようにただ家の中に置かれていた自分は、姉たちに嫌われていた。
……いや、嫌われていたのではなく、逆に気に入られていたのかもしれない。嫌がらせ遊び用の人形として。彼女たち三人の遊びは、酷く陰湿で卑劣だった。
そんな遊びに付き合わされてきた子供時代だが、大人になってからはようやく解放された。――と、ホッとしていたところで、今回の魔女の呪い騒動だ。自分の女運の悪さには、心底あきれ返る。
……けれど思いがけず、今現在、自分の中で魔女は嫌悪の対象から外れている。
呪いを放つような不届き魔女のことはもちろん憎んでいるが、同族の悪夢の魔女に対して、特に憎悪の念はない。
それどころか、自分の周囲をうろついている悪夢の魔女は、飾らない笑顔がなかなか可愛――……。
そこまで思いをめぐらせたところで、シャルアスはゴロンと寝返りを打った。横向きに蹲り、眉間を指で押さえて渋い顔をする。
ブツブツと早口を呟いて、妙な方向へ行きそうになった思考を散らす。
「違う……あれはただの珍妙な魔女だ……珍妙な魔女……珍女……そう、珍女だ、珍女……。決してそういう対象ではない……」
取り留めのない連想に身を任せていたら、悪夢の魔女クシェルの笑顔まで、頭の中に浮かんできてしまった。消し去ろうと思えば思うほど、頭にまとわりついてくる……。
マントに絡まってきたり、死体を前にして平然としていたり、腹にパンチを入れてきたり、馬の移動にすら走ってついてくるし、憎まれ口だって構わずに言い放つ珍妙な魔女――……。
……――まさか自分は、この魔女に魅かれているのではないか? それによって、呪いが力を失い始めているのでは――……。
思い至ってしまったと同時に、シャルアスは毛布を顔までガバリと引き上げた。
「……違う、絶対に違う……あり得ない……魅かれてなどいない……」
疲労と夜更かしは、人間に妙な思考をもたらすものだ。今日は遠くまで馬を出したので、自分はずいぶんと疲れているのだろう。さっさと寝るのが吉である。
目をつむり、潔く悪夢の世界に落ちることにした。
――ガシャン、と、頭上で水牢の格子蓋が閉められた。
格子の上には四人の悪魔たちがいて、こちらを覗き込んでいる。髪とドレスをなびかせた女の悪魔たちだ。
牢に水が注がれて、足の方から水面がせり上がってくる。膝を越え、腰を越え、胸を越えて、肩の高さを越える。
恐怖に体は震え上がり、頭上の格子にしがみついて助けを乞うも、悪魔たちはただ見下ろしているだけだ。
水面はいよいよ顎を越えて、息は乱れ、水を飲んでのどと胸が悲鳴を上げ始める。自分はこのまま溺れて死んでしまうのか――。
そんな絶望感に支配されそうになった時、ヒョイと、一人の娘が覗き込んできた。
娘はミルクティー色の長い髪を揺らし、格子蓋の上にペタリとしゃがみ込んで、若草色の瞳をじっとこちらに向ける。
格子にしがみついて溺水を待つ自分に、彼女はペラッと言ってのけた。
「大丈夫ですよ。これはただの夢ですから。あなたは決して溺れません」
「夢……? ……そう、か……夢か……そうだった……」
――そうだ。この檻も、水も、苦しみも、すべては幻でしかないのだ。現実として、身に起きていることではない。自分はベッドに横になっているだけなのだから――。
夢だと理解し、緊張を解いて水を迎える。彼女に言葉を返したのを最後に、自身の体は頭の上まで、水の中へと沈んでいった。
溺れているが、もう苦しみは感じない。
水の中から、水面で揺れている彼女の姿を仰ぎ見る。夢だと諭してきた娘の微笑みは、屈託のない可愛らしいものだ。
さながら女神のような微笑み――……いや、そんなことを言ったら、きっと大笑いをされてしまうだろう。
彼女は女神などではなく、魔女なのだから。
部屋の柱時計が鳴り、シャルアスは目を開けた。窓からは日の光が差し込み、遠くから小鳥の声が聞こえる。
ベッドの上で身を起こし、見た悪夢を思い返す。
(五、六回、夢を繰り返したな。以前は、一夜のうちに数え切れぬほどの悪夢を繰り返し、呻き通していたが……やはり、明らかに呪いが軽くなっている)
毎度の眠りで、数回は必ず悪夢を見る。が、繰り返しの数はずいぶんと減っているし、途中で魔女が現れて諭してくるので、さして苦しみもない。
そういうわけで、ここ最近はそれなりに睡眠を取れている――……。
起き上がって下に向かうと、クシェルがもう出勤していて、調理場に入っていた。
後ろに立ち、朝ご飯の支度をする姿を眺めていると、彼女が目をむいて声をかけてきた。
「わっ、びっくりした……! 気配なく背後に立たないでくださいよ。おはようございます。――何をぼけっと突っ立ってるんですか?」
歯に衣着せぬ魔女らしい物言いが、なんだか耳に心地よく感じる。
「いや、別に……。……おはよう」
「もうご飯できますから、さっさとお顔を洗ってきてください」
言われるままに顔を洗いに行ったが、いくら冷たい水で肌を濡らしても、顔に上った妙な火照りがとれない……というのが、最近の朝の悩みだ。
その火照りは、朝ご飯を食べている最中も継続している。
朝の魔女レストランの献立をペラペラと話すクシェルと対していると、どうにもポカポカとした心地になる。
目を逸らしながら、胸の内で念じる。
(……この心地は、あれだ……春だからだ。春のポカポカとした陽気にあてられているだけだ……)
自分に言い聞かせるように念じて、深く頷くと、向かいに座っている魔女は『ちょっと! 話聞いてます? ぽんこつ機械人形め』などと悪口を言っていた。




