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2つの心

作者: 和秋

明治37年(1904年)。

明治維新以来、日本は積極的に海外進出を推し進めて行きこの年の2月には日露戦争が勃発した。

ロシア帝国という大国を相手に小国日本がどのように相手取るか世界中が戦争の行く末を見守っていた頃―。


岐阜県郡上郡八幡町に当時最新鋭の設備を整えた医院が完成した。

二階建て造りの真っ白な洋風建築は近代化の波が全国に押し寄せていた時代であっても郡上藩の城下町が残るこの町では目を引く存在である。

開業したのは欧州からの留学を終えて帰国した後、東京で働いていた初老の男、遠藤三次郎えんどうさんじろう。この町出身であった彼は地元への恩返しのつもりで帰郷しこの病院を建てた。


開業してからしばらくして後の昼下がり―。

1人の患者が診察に訪れた。

「次の方」

看護婦の声で診察室に入ってきたのはまだ若い女性だ。

元々色白であったであろう肌は血色悪く幽鬼のようであるが、小袖姿の着物や日本髪に結んである髪は上品で育ちのよさを思わせる。

そうした触れれば崩れるかと思わせる儚げな面立ちは遠藤に強く印象付いた。

付き添いの母親いわく、幼い頃から病弱で長くはないだろうとは言われて生きてきたらしい。

診察の結果は重い心臓病である。

確かにいつコロリと逝くか分からぬ気弱さがある。

診察の間、女性は何も発する事はなかった。

遠藤は自分なりに知恵を絞ったものの薬を処方するのが精一杯である。

女性もそれを分かっていて明日に希望を見いだせず過ごしているのだろう。

東京にいる間に何人も看取っては来たが、この年齢の女性はまだ経験がなかった事もあってか思わず腕前の力不足に自若さを感じてしまった。


数日後、定期検診に訪れた彼女、東常子とうのつねこは1人であった。

「前よりは良くなりましたかな」

「この前の薬は大層苦う物でてきない(※つらい)」

「良薬口苦しはいつの世も共通ですよ」

カルテを書きながら憎まれ愚痴の相手をする。

以前よりは顔色も落ち着いていた。

「先生」

「はい」

「やっぱりもう長くないんかね」

「そんな事は」

「わっち、昔から親に迷惑ばかりで確かにここらでは名のある庄屋ではあるけど。ここまで生きた事の方が運が良すぎたんですよ」

常子はいつも伏せ目がちである。

顔を見ても視線が合わない。

「病は気からですよ。くよくよするのは一番の毒です」


最初は大人しげな常子ではあったが診察が増えるにつれ次第に打ち解けていった。

二人の交わした会話は多岐に渡る。

何気ない雑談やそれぞれの身の上話まで。

周りから見ると紡がれる二人の言葉の数々は恋人同士のそれとなんら変わりなかった。


遠藤は独身である。

商家の三男として外に出され長男が家を継ぎ、次男は兵役に行ってそれなりに出世したが日清戦争で戦死している。

身1つでやっていくしかなかった彼は全てを投げ打って勉学に勤しみ、親がなんとか恵んでくれたお金で医学を学びに留学した。

帰国してからも浮いた話は遂に起きなかった。

両親が幾度となく見合いを勧めて来た事があったが、一度自分から破談にして以降全て断っている。

医学の世界に集中したい一心でそうした事に気を向ける気にはならなかったのだ。

そんなこんなで両親との関係はぎくしゃくし、在所には居づらくなって上京した。

そして関係を修復しないまま死に目を見る事もなく両親は他界した。

今になって故郷へ帰ってきたのは故郷への恩返しもあるが親の菩提を弔い、愛するこの地に自身も骨を埋めようかと思ったからである。

そんな身の上だったからであろうか。

「わっちはこんな体やでお嫁には行けんでな。家の者たちは何も言いはしないけど家の中では肩身狭くて」

居場所がない。

そうごちる常子に遠からず同情心が沸いてきた。


そんな常子とのやり取りを繰り返していたある日の休業日。

遠藤の病院前には城山と呼ばれる山がある。

かつてこの地を治めていた郡上藩の中心地、八幡城があった場所だ。

明治となり廃藩置県でその地位を失った後、廃城令を受けて山に聳え立っていた優美な城郭はその姿を消した。


江戸幕府による大政奉還がなされたのは遠藤が13歳の時。

医師を目指すべく進学先の伝を探し歩いていた時だった。

時代は幕末動乱の中にあった。


奥美濃を出て名医と呼び声高い若医者がいると聞く西美濃の地、大垣の方にでも行こうかと考えていた矢先である。

すぐに戊辰戦争が始まり大垣藩も郡上藩も幕府側として参戦して戦禍はすぐ足下にやってきた。

このような状況下では進学所ではなかった。

1年に及んだ内戦の末に蝦夷の五稜郭が陥落し、江戸から改められて新たに首都となった東京に明治政府が樹立され大日本帝国が成立。

欧米列強と肩を並べるべく近代国家への道を進んでいった。

そんな多忙な青春を過ごしたこの地にあって、かつて見上げていたやぐらの数々が跡形もないのはなんとも寂しい限りだった。


開業してからの日課として石垣を残すのみとなった城山を散策するのが遠藤の楽しみの1つである。

秋も深まり真っ赤に染まったもみじが山を炎上させていた。

かつては厳めしい顔の役人が警備していた大手門も今はない。

昔は立ち入れなかった場所に踏み入る気分は歳を忘れて子供のような気分になる。

いつもの道を歩いていると意外な人物と出会った。

常子だ。

「このような所で合うとは珍しい。お体は大丈夫ですか」

「先生」

常子もまさか遠藤に会うとは思っていなかったようだった。

小袖姿だったのは最初にあった時だけで以後は簡素な服装である。

着付けるのも苦しいのだろう。


「今日は朝から体が軽く思えて」

「それは何より」

常子は寂れて久しい城山の登城道を見つめている。

「この先行った事ありますか」

「何度かありますよ」

「昔、ここにはお城があったんよね。お城はなくてもこんな赤い世界は他にないです」

手の平に乗せた葉を見つめながら常子がうっとりと呟く。

その横顔は周りの景色に当てられて病人とは思えない艶めいた物があった。

「私が子供の頃ですからね、常子さんは見た事ないでしょう八幡城」

「ですねぇ」

「登られるんですか」

「今はこんなでもでっち(※子供)の頃はこの山でようかけまわっておりました。病気が酷くなる前です。上へ登るとええ眺めが見れます」

「お供しましょう」

常子を連れ立って山道を進むが、すぐに常子は荒い息を吐くようになった。

病気の身では辛すぎる道のりである事は明白である。

「無理はダメですよ」

「・・・悔しいなぁ」

「戻りますか」

「しやなし」(※仕方ない)

「家まで送りますよ」


山を降り、休み休み歩きながら町並みを抜けた。

本町通りまで来た時、常子が口を開いた。

「行きたい所があります」

そう行って常子が遠藤を導いたのは子駄良川こだらがわに掛かる清水橋の手前、名水として名高い宗祇水そうぎすいの場所であった。


「ここの水は他とは違う。体が楽になるんですよ」

常子はか細い手で湧き出る水をすくって喉を潤した。

ふとそこに一枚のもみじ葉が水辺に落ちた。

それを見てこの地域では知られた有名な句を思い出す。


もみじ葉の 流るる竜田白雲の 花のみよしの 思ひ忘るな


戦国時代、この地の領主で篠脇城主だった東常緑とうのつねよりがこの場所で連歌師・宗祇そうぎに詠った一首として知られる。常緑が宗祇への古今伝授こきんでんじゅを終え、帰京する際に送ったと伝えられている。


唄の通りに清流へと流れ行く葉を追って常子は河原へ出た。

遠藤も後に続く。

常子が追っていた葉はやがて波間に飲まれて見えなくなってしまった。

「わっちも早くああなりたい」

葉が沈んだ場所を見たまま常子が呟いた。

「わっちはもう充分に咲いた。後は沈むだけなんよ」

強がっているようだが語尾が僅かにうわずった。

遠藤はどうして良いか思案した後、常子の肩に手を置く。

「私は何があっても常子さんを忘れませんよ」


常子はすっと振り返ると遠藤の胸に飛び込んできた。

「ずっとここにいさせて」

顔を埋める常子を遠藤は抱きしめる以外に何もしてはやれなかった。


数日後、いつもの検診に訪れた常子を見て遠藤は驚いた。

見るからに頬が落ちている。

「何かありましたか。呼んでくれればよかったのに。ちゃんとご飯は食べてますか?」

「食べたくないんです」

「それはいけない。少しでも栄養を-」

「もう良いんです!」

常子が声を荒げる。

遠藤は思わず身構えたが常子は怒鳴った勢いのまま咳き込んでよろめいた。

遠藤はそれを支えたが口を押さえた常子の手の平は真っ赤に染まっていた。

「寝る度に沈みそうで沈まない。朝を迎えて何もせん一日が始まる。もう疲れました」

途切れ途切れに呟く常子。

ベッドに横たわらせて聴診器を当てた心臓は非常に弱っていた。

聴診器を体から離した遠藤の手を常子が弱々しく握る。

「ここにおったらあかんですやろか」

「そう言わずともこの状況では入院は必須です」

「違うんや。もう帰りたくないんです」

「・・・・」

「ずっとここにいさせてください」

遠藤もここへ来て常子を失う事への恐怖が少しづつ沸いてきた。

自分から女性への好意を抱いた事がなかった遠藤はこの感情を表現するすべを知らない不器用な男だった。

「ずっと、ずっとね、ここにおりたいです。先生の所に」

あれこれと思考が渦巻く脳裏を押さえようとする遠藤に常子が問いかける。

「…出来なくはないが」

「そんな事、出来る分けないでしょう」

「私も貴女と同じ思いです」

そっと常子の手を握る遠藤に驚いた様子だったが目を閉じた常子はつと一線の涙を流した。

「ここにおれる方法があるなら言うてくださいな」


君の心臓は死んだ後に僕が捌いて取り出しその後は標本にして生かしてあげよう。


毎日死ぬまで眺めよう。


死んだら僕が隣に行こう


常子は何も言わなかったが遠藤の手を握る力を僅かに強めた事で返事としたつもりだったのだろうか。


家に帰れず病院から出ないまま常子が息を引き取ったのはそれから三日後であった。

常子の親に対し、遠藤は後学のためと称して心臓の摘出許可を得た。

もう脈打つ事のない心臓を前に遠藤は何も言葉が出なかった。

常子の心臓はホルマリンに満たされたガラス瓶に納めた。

常子は遠藤しか暗号を知らない金庫の中に安住の地を得たのである。


―――それから10年。

遠藤はかつて常子が最後を過ごした病床で自身も寝たきりとなっていた。

時代は移りゆき、今の日本を切り開いた明治帝も崩御され元号は大正に改まった。

そして今の世界は一発の銃声に因って勃発した第一次世界大戦の真っ只中である。


遠藤が開いた病院は既に自分が弟子と認めた若い医師に全てを託してある。

常子が亡くなった後、老いた自分を見つめ直し、いつ後を追う身になるかと考えるようになってしまっていた。


この所、その常子が夢の中に出てくるようになった。

それも病身ではなく健康そうで楽しげな姿である。

生前と違い、もみじのように赤い絨毯の上で佇む常子が非常に愛おしかった。

妖艶に微笑む常子はまるで遠藤を自分のいる所へ誘っているようである。

手を伸ばせば握り返してくれそうにも思えてしまうのだった。


幻想から目が覚めた後、遠藤はまだ口の動く内にと後を任せてある稲葉医師を枕元へ呼び寄せた。

「どうしました先生」

「お迎えが近いかもしれない」

「また弱気な事を。私がここへ来たばかりの頃、しょっちゅう怒鳴っていた先生らしくもない」

「あの頃はすまなかったなぁ」

今まで一度もそのような言葉を遠藤から聞いた事のなかった稲葉は思わず真顔になった。

「で、ご用件はなんですか」

遠藤は自分のデスク横にある金庫を指さした。

「暗証番号は1599だ。開けてくれないか」

稲葉は言われたとおりに年季の入ったダイヤルをまわして解錠した。

観音開きの内扉も開けると、中には中身の入った大きなガラス瓶が1つ。それと同形だが空っぽのガラス瓶がもう1つ。

だが医師である稲葉には液体に満たされたそれが何かすぐに分った。

「先生!これって……」

「私がかつて看取った患者の心臓だよ」

「……」

予想外の展開に稲葉が言葉を詰まらせる。

「君に頼みがあるんだ」

「はい」

「私が死んだら心臓を取り出してホルマリンでその空き瓶の中に入れて欲しいんだ」

「この中に……ですか」

「我が家の菩提寺は城下の大きな寺だが、私とその心臓はどこか他の場所で安置して欲しい。この病院内じゃなくても良いさ」

稲葉はしばらく視線が泳いでいたがやがて遠藤を見つめ直し

「……分りました」

と返答した。

「ありがとう」


それから程なくたった白雲たなびく夕暮れ時、遠藤は亡くなった。

稲葉はその直前、口約束だけでは何かとあるといけないと言って心臓の件も含めて遠藤に遺書を書かせた。

遠藤の死後、約束通り遠藤の心臓を摘出してガラス瓶に収めた稲葉はもう1つの心臓と並べて遺書を添え、自分しか知らない場所に保管した。


2つの心臓の行方は今では誰も知らない-。


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