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疲れたの一言で帰宅した直後自宅の床に寝そべった。
もうなにもしたくない。
誰の目にもつきたくない。
つけたテレビからは、政府与党がどれだけ無能かという主張と、有名芸能人の不倫と子供の死体が発見されたという報道が聞こえた。
聞き覚えのある森林は、実家の隣の市にある村から現住所があるこの街の郊外まで広がる山脈を覆う樹海で、毎年山菜シーズンになると行方不明者がでて捜索隊が結成される寸前に警察のヘリコプターが発見するような場所だった。
風呂も食事もめんどくさくなり、がんばって起きて、スーツも靴下もソファーに投げ込んでビールを飲んでベッドに潜り込んだ。
風呂は明日でいい。
朝起きて、ビール飲んで、一時間ちょっとの掃除シャワー洗濯。余裕がない。湯船に浸かる暇もない。めまいが毎日ぐーるぐる。
朝食食べる暇もなく、通勤途中でカロリー補給用にエナジードリンクを自販機で買おうとしたら百円玉が転がり落ちた。
財布の中の小銭にも電子マネーにも余裕がなく、その百円玉がめまいを抑える命綱だったので、仕方なくアスファルトで舗装された自販機コーナーの外れの方へと歩いた。
この百円玉を拾い上げる時に、自分自身の異常性に気がついておくべきだった。
人がほとんど通る事がなさそうなシャッターに錆びが浮かぶ倉庫へと続く路上にも繋がる自販機コーナー裏スペースに百円玉が転がり、揺れて、倒れた。
新築した倉庫の方が十年前に新築した個人商店の店舗使い勝手が良いから、旧倉庫へ続く砂利道は雑草が繁っていてなんとなく犯罪を実行しても見つからなさそうだとこの時思ったのは、後に繰り返し思うが予感かもしれない。
鼻先が嫌な悪臭を探し当てて一瞬吐き気が込み上げた。自宅を出る30分前に吐いたばかりなので、胃液を飲み下せば何の問題もない。
最近こんな感じだ。出勤で自宅を出ようとすると嘔吐か下痢に襲われる。病院での診察では、「転職したら治るんだけどね」と無責任なボンボン医師に言われたついでに「嫁にこない?」と笑えない冗談を言われ、婦長に雷を落とされ涙目になった。ボンボン医師がだ。
看護師と医療事務と薬剤師は、「抱かれるのは先生なのを理解するようにしつけておきますので、見捨てないであげてください」と面白さのポイントがわからない冗談を言われたなと百円玉をつまみ上げて思い出した。
拾い上げる時に見えたサンプルが撤去された自販機の下に落ちていた灰色は、多分人間の小さな指だった。
子供の小さな指は柔らかいから、大方この停止している自販機に引っかけてちぎれ落ちたのだろうと結論付けて、目当てのエナジードリンクを買って口の中の胃液味を洗い流した。
バスに乗ると今日もまたバスの運転手に嫌味を言われた。
あと5分早く自宅を出ろとか、飯を食えとか病院へ行けとか。辟易していると車内放送で運転手は歌う。
客は俺1人しかいない車内だから問題はない。今日の歌もボンボン医師の好きな歌。思い出せば学生時代のアイツは歌詞と音程を間違えながらよくこの外国の民謡を歌っていた。
ボンボン医師が嫁にもらう相手なら、このバス運転手の方がいいのに。多分趣味もあうよな。
バスを降りて勤務先へと走る。横を通りすぎる車へダイブすれば楽になれるんだけど。
2分遅刻でタイムカードを押し、呆れられた目で見られ、朝礼のあとノロノロと作業をする。
年下の上司に間違いを叱責され、間違いのリカバリーをする。いつ解雇されるのだろう?
数年前まで仲が良かった同僚は目をあわせてくれない。
年下の上司は何かと気に掛けてくれるが、謝罪すると怒って机を叩くので怖い。
ずっと笑顔を作ってハキハキ返事をするようにしているが、正直しんどい。
だから独りになりたかった。
「あいついつまで勤めるつもりなんだろうな」
一般的に大柄な部類の俺は、体が柔らかい方なので、昼休みは給湯室近くの段ボールの中に入って、いつものように過ごしていると同僚二人の声が聞こえた。
「限界越えてるね」
「早く辞めればいいのにな」
その静かな語らいは俺の事を明確に指していた。
ポツリポツリとした過去話のエピソードは明らかに俺自身。
体を小さく折り畳んで身動きを全くしないようにしていたせいか、俺に気づかずに会話は続く。私物のコーヒーカップを洗う音がしたのは、昼休み終了直前の、俺が段ボールから出て積み直さないとならないタイミングで。俺は遅刻した。
そんな遅刻ばかりしていると、年下上司に叱責された上に、「がんばれ」と激励された上に、年下上司の父親である社長に呼び出され、「困り事がないか?」とか「悩みがあれば相談する」とか「君には期待している頑張りたまえ」などの過分な扱いをされてしまって、仕事が遅い上に遅刻している俺は、その日もあまり仕事ができなかった。資格持ちなのに。
定時に全員の仕事が終わり、右手の薬指が欠けた幼児に見つめられながら年下上司に呼び止められ食事に誘われた。失礼に当たらないように笑顔でやんわり断ったが「嫁も彼女もいないのだから社長の息子を優先した方がいいぞ。いつクビになるかわからないんだし」などと言われては、「そうですね」と微笑むしかない。
めまいがする横になりたい。
社長が業者の営業からもらった食事券で、A5ランクのステーキともつ煮込みをおごってもらうとの話に帰り支度をしていた同僚はひきつった笑顔で「いいですね。うらやましい」と言ったので、俺の胃は席を立つ前にズンと重苦しくなった。
案の定、翌日昼休みの給湯室で「断れよマジで」という俺への本音を聞いてしまった。
エナジードリンクとビールしか受け付けない胃袋に油たっぷりステーキと鍋では、吐き気がする苦行である。
込み上げる吐き気を根性で押し込んで「とっても美味しいです」と脂汗がにじむ顔で微笑む。
それはレイプですね? という感じのセックス自慢をされ、嫌がる体をねじ伏せると興奮するとか、お互い気持ちがいいんだから泣かなくてもいいのになと言われているうちに、聞き流して浮世絵ネクタイを見つめながらニコニコ相槌を打つうちにどうでもよくなった。
右手薬指が欠けた幼児は六階のはめごろしな窓の向こうで「見つけた」とニコニコ笑っているし。
痙攣する胃袋をねじ伏せて、年下上司をタクシーに乗せて頭を下げて見送って、よろけながら最寄りの児童公園へと入る。
滑り台の下にあるトンネルの中からすすり泣く声が聞こえたが、どうせ塾をさぼって恐くなった子供が泣いているだけだろうとスルーして、公衆トイレに駆け込んで胃袋の中身をぶちまけた。
便器を汚したので処理しようとしたら、トイレットペーパーが足りないので一つだけ鍵がかかっている隣のドアのそのまた隣を開くと、頭痛がする姿の小学生らしき子供がいた。
「ねえ、そんなかっこうしていたらお腹壊すよ」
無理やり引っ張られたらしいポロシャツのボタンははじけ飛び、半ズボンは乱暴に脱がされたらしく、右足に引っ掛かっているズボンは破け、口にはアニメ柄のトランクスがねじ込まれている上に、両手はなんか見覚えがある浮世絵ネクタイで、少年の背後のタンクに繋がる水道管に結びつけられていた。
器用な子供だ。
どうやって独りでこんな変態的な事をしたのだろう?
めまいを覚えながらも子供の頭上である窓際に置かれていたトイレットペーパーを取ると子供は激しくうめいた。
「うるさい」
何を言っているのかわからないのだから、口の中のトランクスをさっさと吐き出してから言えばいいのに。
個室を出て汚したトイレをトイレットペーパーで清掃して徒歩で帰宅した。この時間はバスが終わっているので帰宅するのに時間がかかる。
トイレで別れた子供があの森林で遺体として発見されたのは、二週間後の事だったし。その事について俺は何も思えなかった。