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荒野に浮かぶ

作者: 本当は38歳

 灰色の雲の下、羊飼いはふと周囲を見渡したが、やはり地平線に近い山の稜線に囲まれていることを知り、大きく伸びをした。荒野にはまだ寒風に耐えた緑が点々と残る。その緑地帯に放たれた羊たちは、貪るように前屈みになり、四肢を硬直させながら前進する。羊飼いは、羊たちに緑地帯を食べ尽くさせないよう、棒を振り上げて合図を送り、他の場所へ移動し始めた。犬は、羊たちに吠えて群れの輪郭をつくり、ふわふわとした白い羊たちの羊毛の塊を動かした。羊飼いは棒を持って、その後を歩いた。次の緑地帯の定めをおおよそ決めて、合図を送ると犬は羊たちを解放し、ふわふわの塊は荒野に分散して輪郭を失った。

 羊飼いは荒野に男ひとり多くの時間を持て余した。幼少の頃は気に入った棒を拾ったり削ったり、なにか楽しみを見い出したが、何れも、とうに飽きてしまった。何日も何日も、羊たちを眺めてきた。羊たちの一匹、一匹を見るというより、ぼんやりと羊たちの立つ荒野を眺めてきた。しばらく眺めていると、視野の端を広げて、山々の向こうの地平線の先を想像してみる。兄も父も同じようなことをして過ごしていた。

 兄と父に教えてもらった太陽の軌跡。今の季節はあの平たい山に落ちる頃に、日が暮れる。まだ羊小屋に戻るには早かった。肌寒い風が吹くが、曇空越しの日差しの暖かさは春の予感を感じた。冬を越えれば緑が増えてくる。なんとかこの冬も持ちこたえた。今日は、もう少し羊の食事を長く待とう。あともう少し、もう少し。日差しに温められた岩盤に腰掛けて待っていると、ちょうど温もりが心地よく感じ、うとうとと、してきた。

 頭がにぶく重たい感じがしてきて、羊飼いは沈んでいくように眠ってしまった。

 すると目の前に鯨が現れた。頭上高くに黒い塊が覆い被さる気配があった。あんまり頭が痛いので、気圧の変化なのか、どうやら雨雲が来たのだろう、と羊飼いは思ったが、見上げると鯨がいた。 

 天候の変化に普段は吠える犬も、怯える羊たちも台地のうえに静かに横たわって眠り込んでいた。黒い塊は、羊たちが水を飲む小さな溜まりに向かってゆっくり降りていった。ひらひらと、布をひろげるように静かにゆっくり着地し、荒野に裾野を拡げていった。そして動かなくなった。それは座礁のようだっだ。

 羊飼いは、その光景を、鉛のようなものが頭の中に居座るのを感じながら目で追っていた。身体が動かず、考えられない。ぼんやりして焦点が合わず、せめて思考のピントを合わせようとしても、却って対象から離れていくようなかたちとなった。それは、どこか懐かしい感じがした。思い出せないが記憶のどこかに似たような経験があった。

 羊飼いは回想する。なにかに向かって抵抗しようともがいているが、暖簾に腕押し、もがき疲れるうちにそもそも抵抗する必要なんてないんじゃないか、気持ちは冷めてきて、以前に一度熱くなって収拾のつかなくなってしまっただけの気持ちが、一瞬で遠くに感じ、疲れとともにだんだんと剥ぎ取られていく。敵わないんだ。そういう者を相手にすると、抵抗するのを諦め安らかな気持ちになって、力が抜けていく。そして、ただ静かに眺めている。そんなことがどこかであった気がした。そして、そのまま眠った。

 鯨は重そうな巨大な身体を横たえて、ヒレをひらひらとなびかせて浅い溜まりに波紋を描いた。羊も犬も寝むり込んでいた。この荒野の上の全てが、草も虫も、すべてが横たわって何を見るということもなくこの時を、長い間見つめていた。

 朝か。荒野にいて、目が覚めた。羊たちが荒野で草を食べている。羊飼いは棒を掴み、そのままいつもの同じ一日を過ごしていく。過ごすうち、さっき見た夢は一晩経ったのか、経ってないのか分からなくなっていった。どちらにせよ、また一日を過ごすだけだ。羊飼いは地平線に目を向けた。

 ぼーっとしていると、向こうからハイエナがやって来るのが見えた。ハイエナもまた退屈だった。暇だから荒野で声を掛け合う仲ではある。気を休めていると小羊を狙う油断ならない奴だ。数年に一度子羊の数が合わなくなるのはこいつの仕業だと思っている。こっちに近づくにつれ、いつもの暇そうな顔が見えた。腹は空かしてないようだ。ハイエナは声をかけてきた。

「よお。羊飼い、なにか変わったことないか? 」

「なんにもないよ。でもそうだな、鯨の夢をみた」

「なんだ、また見たのか。おまえ前も言ってたなあ。いいなあ。俺なら食べるな。ステーキがいいな。うまいんだろうなあ」

 ハイエナは眠そうな様子から段々と調子が出て、鼻息が荒くなった。目を凝らして一匹一匹選り分けるように、ちらちらと羊たちに目を向けている。

「君はほんとに食いしん坊だな」

「で、おまえはどうした? その鯨になにをした? 」

「いや、眺めていたんだ」

「ん、何もしなかったのかい? 」

「そうさ。そのなんにもできないのが、なんだか居心地良かったんだ」

「ふーん」ハイエナは急に興味をなくしたように返事をした。

 羊飼いはなんでこんなことハイエナに話しているのだろうと思ったが気にもせず、いつものように話題が変わるのを待った。ハイエナはひとつ溜息をついた。

「どうでもいいけどよ。思い出したよ。昔の話だけどよ。おまえみたいなやつが地平の向こうの街にいたんだよ。そいつはお前みたいな歳の頃で会うたびに鯨が、鯨が、って言ってたな」

「へえ。そんなやつがいたんだ」

「おう、お前みたいに鯨の夢を見たとかまた眺めてたいっていって、そのまま、老人になって死んでったよ。俺には苦しそうに見えたなあ。なんで何もしないんだろうってね。お前もそうなるなよ」

 ハイエナは苦い顔をして荒野に唾を吐き捨てた。

 羊飼いは、鯨の夢を見る同じような奴がいたことに驚いた。だが、それは父や兄からも誰にも話されなかったが、ある人間には、あたりまえの自然なことなのかもしれないと思った。と同時に、そいつはまずいな。と羊飼いは思った。

 鯨の夢はこれまでも何度か良く見ていた。その度に一日中、気にかかって、ぼーっとすることがあった。鯨になにか惹かれるから夢にでてくるのだろうが、なぜ羊飼いは、鯨に惹かれるのか分からなかった。鯨の夢を見た日は、ただ圧倒されて何もしないでよかった。羊飼いは暮らしのなかで、このままではいけない、何か行動をしないと、という不安があった。鯨の夢はその不安に対して、いかなる判断を下していない思考停止の時間のなかで生きていくことができた。鯨の夢とは運命のような大きなものに対して何もすることができない自分の非力さを、美化する偶像なのではないだろうか、と思った。

 ハイエナが言うように、遠くの誰かのように何もできないで、なにかに惹かれていたいという想いを何に大成することなく、想いと共にこのまま死ぬのだろうか。そう思うとゾッとした。このままではいけない。どうにかしないと。

「ありがとう。忠告を受け取るよ。君は案外いいやつなんだよな。うん。僕なりにケリをつけるよ」

羊飼いは立ち上がり、岩盤から降りて羊たちに近づいていった。そして、荒野に落ちた羊たちの抜毛の玉を少しずつ拾い集めて手に取り、擦り合わせて紙縒りにしていった。

その様子を見ていたハイエナは、「おーい、何をしようってんだい? 」と、目を輝かせて冷やかしに来た。

「鯨を捕まえるのさ」

「え? おい、羊飼い、どうやってさ? これでか? 」

「ああ、これを繋げていけばどんな長さにでもできる。それを、網目に結ぶ。膨大な作業量かもしれないが、コツコツと進めていく。どうせやることはないからな」

「ふああ、おまえ、面白えやつだな。夢の鯨を捕まえるってか。いいねえ」ハイエナは、ニヤニヤしている。

 羊飼いは、指をこねて羊毛の引っ張りの強さや、感触を確かめる。ピンと、張った羊毛はキラッと輝いて、露の糸の蜘蛛のように繊細に見えた。糸の紙縒りかたは祖母に教えてもらったことがある。こうして指を交互に擦り合わせて紙縒りをつくる作業をしていると、安心する気がした。

「綺麗だなあ」羊飼いの手元を見て、ハイエナは感嘆した。

「ああ、綺麗だ」羊飼いも答えた。


 それから毎日、羊たちの食事の間に紙縒りを作った。紙縒りの作業に慣れてきた頃、羊飼いの顔つきは良くなってきた。何度も冷やかしに来たハイエナは、「まだ飽きずにやってんだな」と、その顔をニヤケながら覗き込んだ。

 糸は束ねて大きな網のようになってきた。網は拡がり大きな荒野に風を受けてたなびいた。空に舞い大きく空気を捕獲するような動きをするので、羊飼いとハイエナは鯨を捕獲する姿を想像した。網の端は、荒野に点在して生えた頼りなげな木に括り付けられた。羊飼いは動きを試し、弱いところは補強し、付け足しながら改良し続けた。やがて、想像で捉えられるほどの動きをする大きさになった。

ハイエナは、「そろそろかい? 」と聞いた。

「ああ、出てきたら捕まえる」

「どんな時に来るんだ? 」

「そうだな。疲れた後や泣いたときに現れたな。いや、リラックスしてコーヒー飲んでいる時かもしれない」

「そうか。しかし、ちょうどうまい具合にこの網の上に現れるかな」

「それは、わからない。でも、これ以上見ているだけってのは嫌だからな」

「へえ、おまえ、変わったな。釣れたら俺にも少しくれよ。」と、ハイエナは寂しそうに言った。

 来る日も来る日も羊飼いは少しずつ練習し、そのうちにずいぶん網の扱いかたのコツを得た。だけど、なかなか鯨は現れない。ハイエナは、「もう来ねえよ」「ヤメロヨそんなこと」と、茶化して嬉しそうに笑いながら冷やかしに来たが、羊飼いは気にしていなかった。

「いいか、焦っちゃダメなんだ。出ろ出ろと思っちゃ出ない。気長に待つんだ。そうだな。まずこうやって鯨のことを思ってるうちは出ないな。他のことやってるときに、ふっと出るんだよ」

「そういうもんかなあ。早く食いたいなあ。まだかなあ。この乾季だろ。しばらくうちの子供たちに食べ物を与えられてないだよなあ。早く捕まえてくれよぉ」

「おいおい、お前のために釣るんじゃないよ。少しだけならいいかもしれないけどな、でもあんまり食うなよ。それに、食うためにじゃないんだ」

「じゃあなんのために? 」ハイエナは少し真剣な顔をして聞いてきた。良く見るとハイエナは、痩せ細っていた。が、羊飼いは答えなかった。というより、羊飼いもなぜ鯨を捕獲したいのか、わからなかった。思えば、毎日そのことばかり考えていた。囚われているのは自分だった。よく考えれば下らないことだったのだと思うことがよくある。これもそうなのか。違う、くだらないことではない。大事なことなんだ、と対抗する羊飼いがいた。

「それはだな」羊飼いは、何か言おうと思ったが、胸になにかが詰まって言葉がでない。顔を上げると、いつのまにかハイエナの家族が集まっている。一、二、三、四、五、六、七匹だ。ハイエナの家族はみな、ひどく憔悴した目で羊飼いを覗き込んでいる。彼らも空腹で限界がきているのだろう。重い澱んだ空気が羊飼いを覆い、さらに息を吸うのが苦しくなった。

「おい、おい! 羊飼い。聞いてるのか」

天を向くと空が暗転してきていた。慌てて羊飼いは身体を起こし、網を握りしめた。

「来るぞ、ハイエナ! 」

現れた。雲間に黒い塊が量感をもって移動するのが見えた。

「うわ、見えた! 俺にも見えたぞ! でけえ! 」ハイエナが叫んだ。

塊は羊たちの飲む水の溜まりに向かってゆっくり、唸りをあげて進んでいた。突然の出現に圧倒されて、羊飼いは、網を握ったまま、その進行を眺めた。重たそうで安定感があり、とても緩やかで時間がそのまま留まりかけているように思えた。あまりに穏やかなので、それはやがて、羊飼いの手の内に飛び込んで来るような気がした。

「おい!どうするんだ! 」

 ハイエナの叫びで、羊飼いは慌てて網を強く握った。羊飼いの手に持つ網は進行中の塊と、溜まりの間に仕掛けていた。塊は羊飼いの真上に到達していた。今ならまだ間に合う。羊飼いは網を思い切り大きく振りかぶって回すと、羊毛の網は空に舞った。風に乗って膨らみ、量感を捉えるかたちとなった。その膨らみに塊の鼻先が被さった。鯨が網に包まれていく。だが、タイミングが遅く、網の掛かりが少なかった。また、網の目が大きすぎて、隙間から鯨のヒレや頭の突起部が突き出し、網目から溢れていく。引っ張られた網は少しずつ解れて、隙間から巨体がこぼれて通過しそうになる。

「おい、羊飼い。しっかりしろ! 破れている。逃げるぞ! 」

 羊飼いは、ほどけていく網に無理に力がかからないように鯨の背中から手繰り寄せるように網を引っ張った。しかし、鯨の引きは恐ろしく強く、羊飼いの手からするすると網は反対方向に引っ張られ、手のひらは摩擦で熱くなった。羊飼いは、とてつもない鯨の量感を知った。羊飼いは脚を地面に着いて、身体が浮かないように、踏ん張った。引っ張られて伸びていく網から鯨の大きな息づかいが伝わってくる。汗と雨が目に入り込んでくる。羊飼いは、踏ん張りながらも鯨の呼吸に合わせ、千切れないように集中した。しかし、網の引っ張りに耐えられず、網の一方を繋いでいる木の根が引っこ抜かれ、木は網ごと鯨と共に空を舞った。羊飼いもついに耐えきれず、脚が浮き、宙を走った。羊毛の網は荒野に擦れて、木々や石を巻き込み、やがて鯨の速度を遅めた。鯨の腹は地面に擦りはじめ、網は破れていき、鯨の躯体の大半は網から露わになった。羊飼いは網を離さなかった。やがて荒野に鯨の腹の引き摺り痕を長く残して、ぴたっと止まった。

 羊飼いは起き上がり、鯨に近づいた。ハイエナも背後に付いてきた。犬も静かに吠えずに様子を伺う。

 網にかかった黒い塊には目があった。大きく身体全体で息をしている。

「やったぞ! 羊飼い! すげえ! 」

 羊飼いは、傷だらけの身体で肩をきって立ち、塊を見下ろした。

 網の破れは想定以上だったが、羊飼いが何度も思い描いたものが目の前に起こっていた。出来た。と、じわじわ得られる達成感に浸り、いつまでもこの光景を眺めていたかった。鯨の様子を眺めていると、やはり座礁しているように思えた。だが、ただ何もしないで眺めているのと、捉えたものが座礁しているのは全然ちがう。私が座礁させたのだ。

「おい、どうすんだこれ! いいだろ! 」

 ハイエナが叫ぶが、羊飼いは返事をしない。ハイエナは隠れていたが、やがて出てきてコンロに火をつけ、ナイフで鯨の身を切り始めた。犬もとりあえず舐めて匂いを嗅いでいる。

 羊飼いは、忘れていた疲れが現れ、肩で息をした。ついに捉えた。達成感が満ちてくる。だが、いつのまにかハイエナは家族総出で、ワインを用意したりセッティングに忙しく、食器の音がうるさい。

「おい、羊飼い! 宴だ。この鯨で宴をやろう。隣町もその向こうの世界の住人もみんな呼んで宴をやろう」

「あ、ああ」羊飼いは生返事をしたが、ハイエナは興奮気味だ。ハイエナは、鯨を食べようとしていた。

 羊飼いは、鯨をなぜ捉えたのかを考えた。捉えた後のことを良く考えてなかった。このままハイエナと宴にしてしまっていいのだろうか。ハイエナの呼びかけで、集まってくるギャラリーは、みんな目をまるくして羊飼いを見ている。こいつが捉えたんだぜ! と、ハイエナがまわりに説明してまわっている。

「そうだな。君はハイエナだもんな。そうするさ。俺だって、いつまでも眺めてばかりじゃダメだって思ったから、こうして行動して捉えたんだ。そうだ。俺は食うために捉えたんだ」

「ハイエナ、宴だ! 」羊飼いは叫んだ。突然のご馳走にありつけたギャラリーは増え、あたりは盛り上がり始めた。塊から肉片が切られて運ばれてくる。ハイエナの子供たちは、肉を切る係、血液を受け止める係、肉を運ぶ係、肉に塩を振る係、肉を焼く係に分かれて効率よく分担がされ、飽きないように交代し合うというローテーションが出来上がっていた。

「これだけあったらひと月は宴だな! 羊飼い! ほら、お前も切るんだよ」と、ハイエナから羊飼いはナイフを渡された。羊飼いはナイフを手にして鯨の前に立ってみる。だが、羊飼いは、なんとも言えない嫌悪感を募らせていった。やはり、羊飼いは座礁した鯨を眺めていたかった。ナイフを手にして羊飼いは動けなかった。切られていく鯨の肉片を見て、まるで自分の身が切られていくように感じた。何故だかわからなかった。

 違う、なにかが違う。

 羊飼いは、棒を握りしめた。鯨を偶像として大切にしたかった。自分でもこの塊を手に捉えられることを示したかった。羊飼いは成功した。この確かな感触が分かればもういいんだ。これはキャッチアンドリリースだ。だからまた帰さなければならない。

羊飼いは、ハイエナとその家族を鯨から引き剥がし、大きな声で一喝した。

「やめろ! 宴は終わりだ! 」

 羊飼いの気合いに負けてハイエナどもは離れた。羊飼いは、棒を振り上げると、風の旋風を起こした。塊は僅かな環境の動きにピクっと反応し、動きに呼応して風を増幅させ、やがて大きな力を得て空に浮かんだ。塊は、肉にめり込んだ網目を一本一本と、剥がして高く昇っていった。パラパラと網は荒野に落ち塊は空へ垂直に泳いでいく。

 ハイエナは残念そうにナイフを握ったまま、白いナプキンを胸元から外して地面に投げつけた。

「ああ、ご馳走が。勿体ないなあ。これで良かったのか? 」

「いいんだ。どのみち、こんなに執着しなければ、得られないものだったんだ。別にここに居なければならないものではない。この手に掴んだ感触さえあればもう充分なんだ。逃して放てば、またどこかでその様子を見ることもあるだろう。その時に、この手応えを思い浮かべながら見ることができる。すると現実感が湧いてくる。つまり、世の中を手応えの感覚を持って見回せるようになれるんだ。俺には現実感がなかったから、今を生きる手応えを得るために網を仕掛けた。世界の一部に触れたかっただけなんだ」

 鯨はやがて暗雲になって広がり、雨が降り始め、遠く空へ離れていく。

 ハイエナたちは肩を落とし、「そういうもんかなあ、おい。食うために取ったんじゃないのかよお」と言いながら、また地平線の向こうへ帰っていった。

 羊飼いは、疲れて目を閉じた。大きな世界の動きに触れる感触を知った。それは重かった。しかし羊飼いにも動かせることを知った。少しだけ自信が満ちるのを感じた。また鯨の夢を見るだろう。これまでのように。もしかしたら、それはどこかの誰かが捉えたのかもしれない。そう思った。

 荒野には無数の影が落ちた。影はやがて音を立てて地平線の向こうに向かって泳いだ。

(了)


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― 新着の感想 ―
[一言] 現実のような夢のような、ファンタジーという感じでしょうか。 空を駆ける鯨!見てみたいです。
2023/04/27 13:27 退会済み
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