第一章 第三話
*2020/1/21初稿
学園の夏季休暇が始まった。ベリルは実家に帰省しないことに決めていた。今の落ちこぼれの自分を見たら母は悲しむに違いなかった。一日中部屋にこもっていたり、たまに学内の図書館で本を読んだりして過ごしていたが、夏季休暇中の祝日だけは人と会う約束をしていた。
*****
夏季休暇前の最後の登校日。クラス内での夏季休暇についての説明が終わった。ベリルが寮に帰ろうとしていると、一人の女性が声をかけてきた。
「ベリルちゃん」
「はい」
声をかけてきたのは、C組の担任教員、アンだった。
「最近元気にしてる?」
意味の分からない質問にベリルはそっけなく返事した。
「ええ、まあそこそこ元気です」
「実家には帰省するの?」
「帰省しません。寮に残るつもりです」
「そうなんだ。ご家族にはお手紙とかちゃんと出すんだよ」
気を付けてね、と言ってアンはその場から立ち去った。何が言いたかっただろうかと思いながらベリルも帰った。
しかし寮の部屋に着くと、ポストにベリル宛ての手紙が入っていた。送り主を見ると先ほど意味の分からない質問をしてきた担任のアンだった。
部屋に入りベッドの上で手紙の封を切った。中には小ぶりなメッセージカードが一枚入っていて、アンのものらしい達筆で文章が書かれていた。
『次の休日のお昼、予定が空いていたら一緒にランチに行きませんか? アンより』
急な担任教員からの呼び出しにベリルは焦る。何か問題でも起こしたか思い返してみるが何も思い浮かばなかった。まさか自分が教員とランチだなんてと思ったが、帰省しないベリルにとっては特に予定もなかったので、断る理由もなかった。
*****
それから何通か短い手紙のやりとりを行い、当日。待ち合わせ場所である学園のそばの街の噴水にベリルはやって来た。待ち合わせの時間より少し早く到着したものの、アンは既に噴水の前で待っていた。
「先生、お待たせしました」
「先生も今来たところだから大丈夫だよ。そんなことよりパンケーキは好き?」
「はい、好きです」
「じゃあランチはパンケーキね」
そう言って連れて来られたお店は、最近オープンしたばかりらしいおしゃれなパンケーキ屋だった。店内はとても明るく、家具も床も天井も全てがホイップクリームのように白かった。
「こんな素敵なお店、初めて来ました」
「先生もここ初めてなの。楽しみにしてたんだよね」
予約していたアンです、と案内に来た店員に告げる。予約していたのかよ、とベリルは心の中でツッコミを入れた。パンケーキが好きじゃないと答えていたらどうなっていたのだろうかと思った。けれど、アンが予約してくれていたおかげで待たずに席に着くことができたのでいいか、という結論に至った。
好きなものを注文するように言われたので、ベリルはイチゴがたっぷり乗ったパンケーキとミックスフルーツジュースを注文した。アンはハチミツたっぷりのパンケーキ、それに加えてハチミツジュースを注文した。
「先生、ハチミツ尽くしですね」
「ハチミツ大好きなの。ベリルちゃんはハチミツ好きじゃないの?」
「嫌いではないですけど、ハチミツのパンケーキにハチミツジュースは飽きそうだと思いまして」
「ハチミツは最高の食べ物だからいくら食べても飽きないんだよ」
「ハチミツが好きなことだけはわかりました」
アンはハチミツたっぷりのパンケーキを六等分に切り分けて、一切れ目を一口で頬張った。その幸せそうな顔と言ったら、こちらまで心が満たされるような気がするほどだった。それを見てベリルもいただきますと言ってからパンケーキを切り分け、新鮮なイチゴと共に食べ始めた。母が焼いてくれたパンケーキなら食べたことがあったが、パンケーキ専門店のものを食べるのは初めてだった。感じたことのないフワフワな触感の生地だ。一瞬にして口の中で溶けて消えていくのを噛みしめた。
「パンケーキのために私を呼び出したわけではないですよね」
「半分はパンケーキ。もう半分は、ガールズトークのためかな」
「嘘言わないでください。私の成績が酷すぎることですよね。このままじゃ進級できないとか」
「ベリルちゃんくらいの成績なら進級できるよ。このままならね」
「そんなことより彼氏とかいないの?」
「いませんよ」
「本当に? 好きな子くらいいるでしょ?」
「それもいないです」
「入学式の時めちゃくちゃにモテてたじゃない」
「見られてたんですか?」
「もちろん見てたよ」
「後から言われると気味が悪いですね」
他愛もない話に花が咲き、笑顔が絶えないまま時間が過ぎていった。
*****
この後に予定が入っているのか尋ねられ、特にないとベリルは答えた。それを聞いたアンは、ベリルを教師寮の中の練習場へ連れて行った。
ベリルはその練習場を見て驚いた。生徒寮にある練習場の建物保護のために設置されている魔法よりも、段違いに強力な魔法でここの練習場は包囲されていた。壁の色も灰色で、生徒寮の練習場と違い息が詰まるような心地がした。
「私の持つ得意な属性は知ってる?」
「光属性だと思います」
「その通り。じゃあ今から苦手な陰属性の魔法を見せるね」
そう言ってアンはベリルのそばから五歩離れ、光を帯びた白い杖を具現化しそれを床についてミュエルを集め出した。
アンの杖にミュエルが急速に集められていく。この場にあるミュエルを根こそぎ奪っていくようで、ミュエルによって点灯している練習場内のライトが、アンから近いものから次々と消えていった。
たった一つの窓から差し込むわずかな夕日だけがこの室内を照らしていた。アンの影はどんどんどす黒くなり、アンの右半分だけが夕日に照らされ、左半分は陰で真っ黒になった。そんなアンの姿を見て、アンの持つ光属性のことも忘れアンを闇の帝王のようだと感じた。先ほどまで明るく話していたアンとは全く異なる姿に、恐怖でベリルは動けなかった。気付かれたら殺される。そう本気で思った。
そんなアンが振り返りベリルの方を向いた。アンの口が何かの言葉を呟く。その直後彼女の影はムクムクと膨れ上がり、厚みを帯びて姿を現し、最後にはどろどろとした人間の二倍くらいの高さがある怪物になった。怪物としか言い表しようのない物体だった。アンはにやりと笑い、その怪物を引き連れてベリルに歩み寄る。一歩、二歩、三歩。本当に殺されると思いベリルは炎でバリアを張ろうとするが、その場のミュエルがほとんど全てアンに吸収されているので魔法を実体化できない。もう死ぬのだと思い、ベリルはぎゅっと目を瞑った。
息も止めてその瞬間を待っていると、数秒経って瞼の向こうに光を感じた。おそるおそる目を開けると部屋のライトもアンの姿も元通りになっており、影の怪物もいなくなっていた。
「これが私の一番苦手な陰の魔法ね」
そう言ってにっこりした。ベリルはやっと普通のアンに戻ったと安心したが、恐怖で動けなくなった体がまだ動いてくれないままだった。
「ごめん、そんなに怖かった?」
アンはそう言って、笑顔を崩さないまま回復魔法をベリルにかけた。ベリルは手を握ったり開いたりして、ようやく自分の身体が動くようになったことを知った。
「死を覚悟しました」
「かわいい生徒を殺すわけないじゃない」
あっけらかんとした態度でアンは言った。
「なんであんな恐ろしいものを見せたんですか」
「苦手な属性でも、練習すればそこそこ使えるようになるってことを見せたかったの」
そう言ってアンは座ったままのベリルに手を差し出した。ベリルはその手を握ってようやく立ち上がることができた。
「まずミュエルをできるだけ集めてみて」
アンにそう言われるがまま、ベリルは胸の前に両手を持ってきて、空気を抱えるようにした。その空気の中にミュエルを集めていく。大きめの魔法を使う時には必ずその場のミュエルを自分の周辺に集める。いつもやっているようにベリルはミュエルを集めた。
ミュエルをその場に集めたまま保つことは結構な力を必要とする。集めるように言われただけで次の指示がかからないので、ベリルは耐えきれず集めたミュエルを開放してしまった。
「今のが限界?」
「あれ以上は無理です」
「取りこぼしが多すぎるしもっとできる」
いつもと違うアンの鋭い言葉に、ベリルは自分の弱い部分を突き刺された心地になった。
「自分の手の届く距離のミュエルすら集めきれていない。それにもっと広い範囲の、自分から遠い場所のミュエルだってもっと集められる」
アンの厳しい指導を受けている間に、すっかり日は沈み夜になった。おかげでベリルの技術が格段に上がった。ベリルは学園の授業に正直ついていけていなかったが、アンのおかげで少しだけ希望が見えた。心を入れ替えて夏季休暇の間に皆に追いつこう、そう心に決めて晴れやかな気持ちでベリルは自分の部屋に帰った。それからの夏季休暇は、午前中には図書館で勉強し、午後には生徒寮の練習場で苦手な魔法を重点的に練習した。真夏の空の下で走り込みも行い、新学期が楽しみになっていた。