序章
*2020/1/8初稿
*2020/1/21改稿
赤い髪の少女が一人、お買い物袋を片手に夕焼け空の下を歩いていた。母親に頼まれて買ってきた野菜や果物の詰まった袋を見ては、満足そうにはにかんだ。少女にとってはほんの数回目のおつかいで、今日は今までで一番上出来なお買い物だったと思えたからだ。
帰路の途中に公園がある。ブランコと砂場、そして広いとは言えないグラウンドがあるだけの、小さな公園だ。少女の家からはあまり近くないので、この公園に遊びに来たことはなかった。普段来ないその公園の横を通るだけで少女にとっては楽しく感じられた。自分ならここでどのような遊びをするか、想像するだけで面白かったからだ。
公園の横に差し掛かった。同年代の子どもたちが、明るい声を上げてはしゃぎ楽しそうに遊んでいる。
そのように見えたのは一瞬で、少女はすぐにその子どもたちが仲良く遊んでいるのではないことに気付いた。
咄嗟に公園を囲う疎らに植えられた木の陰に隠れ、少女は子どもたちの様子を伺った。息を潜めて会話を聞いていると、一人の女の子をいじめていることがわかった。
「お前のせいで俺たちまでサイアクだ」
「早くこの村を出てってよ」
「青い髪は災いをもたらすって知ってるだろ」
その子は髪の色のせいでいじめられているようだった。笑いながら酷い言葉を再現なく浴びせる同年代の子どもたちに対し、少女は吐き気すら覚えた。なぜ髪の色一つでそれほどまでのことを言えるのだろう。体の中に沸々と怒りが湧いてきて、体温がどんどん上がっていくように感じた。
ほんの一瞬悩んだものの、少女はすぐに買い物袋を持ったまま公園に乗り込んだ。
「ちょっと!」
グラウンドの真ん中に固まっていた子どもたちに怒鳴った。
「その子をいじめるのやめなよ!」
いじめっ子たちが一斉に少女の方を向いた。少女よりも背の高い男の子たちに睨まれるが、少女はひるまない。
「この辺のヤツじゃないな」
「一人でヒーローのつもりかよ」
子どもたちはゲラゲラと気味悪く笑った。
「その子が何したかはしらない。けど寄ってたかって一人の子をいじめるのはおかしいでしょ」
「お前、本当に知らないのかよ」
「私が何を知らないって言うの」
「コイツ、青髪なんだぞ」
いじめっ子たちはお互いに顔を見合って再び笑った。少女はいじめられている女の子を改めて確認した。自分と同い年くらいに見える彼女は黒髪に見えたことが不思議だった。
「本当に知らないヤツなんているんだな」
「こんなヤツ相手にしてらんねえ」
いじめっ子たちは少女に背を向けて、再び女の子の方へ向き直った。今にも蹴ったり殴ったりしそうな様子なので、少女は慌てて言葉をつづけた。
「やめろって言ってるでしょ」
少女は買い物袋をその場に置き、右手の人差し指を真上に浮かぶ夕日に向かって突き立てた。
「これで勝負。あんたたちが負けたらいじめるのをやめる」
そう言って少女は突き立てた人差し指の先に小さな火を灯した。いじめっ子たちは振り返り少女を見る。そのうち一番背の高い男の子が少女の方へ近づいた。
「そんな小さな火で勝てると思ったのかよ」
彼は少女よりも随分と背が高かった。このグループの中ではリーダーのようだ。彼はいじめっ子の中でも一番背が高く、それでいて体格も良い。それを十分に利用して少女を威圧した。けれども少女はそれを物ともせず、威勢よく答える。
「どっちがより大きく、長くしていられるか」
「ああ」
彼は短く返事をし、少女と同じように人差し指の先に小さな火を灯した。それが始まりの合図だった。
程なくして彼は挑発するように、火を少しだけ大きくして見せた。それに呼応するように、少女も自分の火を少しだけ大きくて高くした。
頑張れ! こんな生意気なチビ、さっさと蹴散らせ! と周りのいじめっ子たちは取り巻きのようにリーダーを応援し、お祭りのように盛り上がった。二人の火はみるみるうちに大きく燃え盛っていく。少女を応援する人はその場に誰もいないが、少女にとってそれは一番どうでも良いことだった。
ただ気にしていたのは、彼らに罵られていた女の子のことだった。彼女は自分のことを迷惑に思っていないだろうか。少女はリーダーの後ろに見え隠れする彼女を見た。その顔は地面に向かっていて表情を伺うことはできない。けれどその髪を確かめることは可能だった。彼女の髪は一見黒くて青には見えない。けれどもよく見ると、黒の下に微かに、斑な青が見えている部分が数箇所あった。なるほど、地毛は青だがそれを黒く染めたのだろうと合点がいった。髪を染める魔法があると少女は聞いた事があった。材料や魔力が不十分であると均等に染まらないことは容易に想像がつく。
そんなことを考えながら、少女は再び相手に視線を戻した。余裕なふりをしながら、実は炎を保つことに必死なリーダーの顔に向かって、少女はにやりと不敵な笑みを送った。
同じ頃、俯いていた青髪の少女は誰にも気づかれないように顔を上げた。周りの様子を伺い、誰も彼女に関心を向けている人はいないことを確かめる。そして威勢の良い少女を見た。青髪の彼女の瞳は輝きを帯びた。赤髪のショートカットの少女を、必死に目に焼き付ける。熱心な信徒のように、在りもしない神を崇拝するように。
彼女の視線には誰も気づかないまま、時間は流れていった。二人の火は、顔の大きさほどの炎となっていた。余裕の顔で挑発を続けていたリーダーの顔には次第に汗と疲れが浮かんできていた。
調子よく応援していた取り巻きの顔から笑顔は消えていた。一方少女の顔には汗の一粒すら浮かんでいない。この場でただ一人、余裕の笑みを浮かべる少女に、取り巻きの表情は凍り付いた。
それから間もなく、リーダーの人差し指に浮かぶ大きな炎はどんどん細くなり、そして糸のような煙だけを残して消えた。煙すら空に届くことなく、惨めに儚く消え去った。火が消えたのを確認してから、少女は自分の炎に向かって小さく息を吹きかけ、煙も残さず一瞬にして炎を消した。余裕の勝利に、少女は思わず口角を引き上げた。
取り巻きは、まるで少女が化け物であるかのように見ていた。開いた口を塞ぐことができず、動くこともできないようだ。
「こ、今回は許してやる。覚えてろよ」
行くぞ、と口火を切ったのはリーダーだ。疲れ果てて息を切らしており、それを隠すこともできないようだ。取り巻きも逃げるようにリーダーに続いて公園から出て行った。
公園には少女と青髪の女の子の二人だけになり、静寂が訪れた。それまで騒がしかった公園にも、夜の気配が漂い始めていた。
「時間かけちゃってごめんね。怪我はない?」
少女は青髪の女の子に声をかけた。それを聞いて女の子はゆっくりと立ち上がり、少女に顔を向けた。少女と違い彼女の瞳は淡い青色で、水のように向こうまで見えそうなほど透き通るような美しさだった。それに加えて幼さを残しながらもこれ以上ないほど整った顔立ちである。凛とした彼女の美しさに、少女は思わず吸い込まれそうになった。
「ありがとうございます」
どこかぎこちない笑顔だった。まるで笑うことが初めてのような。ありがとうを初めて使ったような、そんなありがとうだった。しかしそれについて触れれば何かが壊れてしまいそうに思えて、少女は気付かないふりをした。
「家まで送るね。この近く?」
少女は買い物袋を拾い上げ公園の出口へ向かった。夕日は橙色の光だけを残して見えなくなっている。街灯がぽつぽつと輝き始めていた。早く帰らないと母が不安に思うだろうなと思ったが、彼女を放って帰れば自分が後悔するとも思った。
「送っていただくなんてとんでもないです。大丈夫です」
少女はいざしらず、ありがとうございましたと頭を下げて彼女は急いで立ち去ろうとした。まるで逃げるように公園の外へ歩き始める。
「ちょっと待って」
少女は先ほどよりも少し強めの口調で呼び止める。その語気の強さに、青髪の彼女は驚いたように立ち止まった。
「またあいつらに会ったらどうするつもりなの。あんなことがあったのに、放っておけないよ」
少女は彼女の元まで歩み寄り、彼女の右手を優しく握った。その手は少女が思っていたよりも随分と冷たく、心を強く握り掴まれたような孤独を感じた。
「一緒に帰ろう」
触れられた瞬間、彼女は驚いて肩を一度だけ震わせた。繋がれた手を見ては迷っていたようだが、少女の言葉に負けたようだった。
「じゃあ、お願いします」
青髪の彼女は少女の方を見て、張り詰めていた顔をふっとほころばせた。彼女の端正な顔がその微笑みで更に温かく柔らかくなり、少女にとっては眩しすぎるくらいに感じられた。
それから二人は手を繋いだまま歩いた。二人が通う小学校は、お互いに隣の地区の学校であること。二人は同い年であること。そんな他愛ない話をしながら、何本もの街灯の下を通り過ぎては、二人の影が伸びては縮みをその数だけ繰り返した。そうしているうちに青髪の彼女の家の前に着いて、二人は自然と手を離していた。
「ご迷惑をおかけしました。本当にありがとうございます」
やはり彼女は律儀に頭を下げてそう言った。少女には、自分と同い年の彼女のその丁寧さが不思議でならなかった。言葉遣いだけでなく、彼女の内から溢れ出ているような気高さも感じられる。もしかすると、庶民である自分には手も届かないような良家の子女なのかもしれない、などと思い始めていた。そうだとしても、少女にとって彼女は今、自分と同い年で隣の地区の小学校に通っている可愛い女の子でしかなかった。
「迷惑なわけないし、そんなにかしこまらなくていいんだよ。同い年じゃん」
いえいえ、助けていただいたのですから。そう言って彼女は丁寧な言葉遣いを崩さなかった。
「大事なこと忘れてた!」
少女は突然思い出したようで、かなりの大きな声でそう言った。
「私はベリルって言うの。あなたの名前もよかったら教えてほしいな」
あまりにも突然のことだったようで、彼女は少し困った顔をした。けれど、一呼吸し意を決したようだ。
「私は、フローラと言います」
それを聞いた少女ベリルは、なんて美しくて良い響きなのだろうと思い、彼女の名前を聞いてうっとりした。
「ありがとう。きれいな名前だね」
大事な名前だと噛みしめるように彼女の名を口にしてから、よろしくね、と言ってベリルは握手を求めた。フローラは少し悩みながらもそれに応えた。彼女の手が先ほどよりも大分温かくなっていることに、少女は心から安心した。そして初めて二人の視線がぶつかる。嬉しかったのは二人とも同じのようで、二人は思わず笑った。
ベリルは握手していた温かい手を離して、改めて言った。
「ねえ、フローラ」
フローラのムラになっている黒染めの髪の中に垣間見える、青くて美しい髪を見た。
「フローラの髪、とってもきれいな青色だね。たぶん染めてなかったらすっごくきれいなんだろうな。目の色も同じ青で素敵。フローラっていう名前はすごく青に似合ってる」
ベリルはつい思ったことを口にして後悔した。フローラは想像と全く異なる反応をしたからだ。彼女はそれまで見せてくれていた笑顔をすっかり失い、うつむいてしまった。
「ごめん。嫌なことを言ってごめん。本当にごめんなさい」
ベリルは泣きそうになりながら必死に謝った。フローラの様子を見れば、言ってはいけないことを言ったのだとすぐにわかった。けれどフローラはもう二度と笑ってくれなかった。
「ありがとうございます」
そう言って、フローラはベリルに顔を見せないまま背を向けて家に入って行った。ベリルは自分がとんでもないことをしてしまったという思いでその場からしばらく動けなかった。夕日の残した光はもう全て夜闇に食い尽くされていた。それに気付いてから、ベリルは完全に灯った街灯の下、ふらふらとしながら帰路についた。
買い物袋を何とか手から落とすことなく家に着いた。玄関のドアを開けると、母がベリルの元へ飛んできた。帰りが遅いので心配していたところだったらしい。
「ママ、どうして青い髪はいけないの?」
そう口にした途端、ベリルは瞳いっぱいに涙が溢れてきて自分でも戸惑った。娘が帰ってきて一安心の母親のことなど考えず、ベリルはフローラのことしか考えられなかった。
突然そう尋ねられた母は、どう答えるべきか必死に考えた。涙でいっぱいの赤く美しい瞳が母を真っ直ぐに捉えていた。
「青い髪の人には近付いてはいけないって昔から言われてるの。ママもベリルのおばあちゃんやおじいちゃんから聞いたのよ」
母は正しい答え、正しい言葉を探しながらゆっくりと答えた。ベリルは赤い髪に瞳だから、ベリル自身がいじめられたり罵られたわけではないはずだ。けれどベリルがこんなにも涙を溜めて尋ねてくるのだから、何らかの出来事があったのだろう。
「でもね、なんでなのかはわからない。誰も教えてくれなかったの。ベリルのおばあちゃんもおじいちゃんもそう教わっただけで、なぜかは聞いていないんだって」
ベリルの目から涙が零れた。小さな身体には受け止めきれないようなこの国の暗いルールを、必死に受け止めようともがいている。母は思わず娘をぎゅっと抱きしめた。
「ベリルは偉い子ね。ママなんて、なんでそう言われているのかを考えたこともなかった。教えてあげられなくてごめんね。ベリルならきっと、その答えを見つけられるね」
*****
それから一週間が経ち、ベリルはやっと決心することができた。フローラにもう一度会いに行って、もう一度謝る。そして、友達になってほしいと言うのだ。
あの日からずっとフローラのことを考えていた。彼女の髪の毛のこと。瞳のこと。やけに丁寧な言葉遣いと、それに見合う美しく透き通るような彼女の全て。まさにベリルの憧れそのものだった。女の子らしさ、美しさ、綺麗な言葉遣い、控えめな所作まで。彼女のような女の子になりたいと以前は思っていた。しかし本当に理想のような彼女に出会ってしまったから、自分には無理だと認めざるを得なかった。せめて叶わないのなら彼女に謝りたい。彼女の美しい笑顔を奪ってしまった自分を許せない。
その日学校が終わるとベリルは急いで家に帰り、学校の荷物を置いてフローラの家に向かった。謝ると決めたのは良いが、フローラが自分を許してくれる自信があるわけではなかった。そもそも家に居るだろうか。居たとしても自分に会ってくれるだろうか。万が一許してくれたとしても、友達になってくれるだろうか。不安な気持ちは拭いきれず、足は鉛のように重かった。
それでも謝らなければならないのだと自分を奮い立てて歩いていると、あの公園に着いた。公園の中を覗くと知らない子どもたちが楽しく遊んでおり、フローラの姿もいじめっ子たちの姿も見えなかった。再び歩き出し公園を通り過ぎた。あの角を曲がればもう彼女の家はすぐだった。よし、頑張るぞ。そう自分に喝を入れて角を曲がりフローラの家を見た。
しかし、そこにあったはずの彼女の家はなかった。ベリルはそこに駆け寄り確かめた。建物そのものがなくなっており、その敷地だけが平らになり土がむき出しになっていた。ベリルは何が起きたのか理解できなかったが、徐々に現実を現実だと理解し始めていた。
ちょうどそこへ、一週間前のいじめっ子たちがベリルの後ろを通り過ぎようとしてやって来た。
「ちょっと、あんたたち」
いじめっ子たちはビクッとしてベリルの方をおそるおそる向いた。あの出来事からベリルのことを恐れ、気付かれないように通り過ぎるつもりだったらしい。
「なんだよ」
リーダーが返事をした。威勢は良いが声が上ずっていた。
「あの女の子、今どうしてるか知ってる?」
自分たちをまた倒しに来たのではないことを知り、彼らは安堵した様子を見せながら答えた。
「あいつなら数日前に引っ越したらしい。学校も転校したらしいぞ」
「そうなんだ。なんでそれを知ってるの?」
「そりゃあ、この辺の人なら誰だって知ってるさ。学校でも知らないヤツなんかいない。なんせ青い髪だからな」
居なくなって良かったよな、やっと安心して生活できるぜ、そう口にしながら彼らは立ち去った。
ベリルは肩透かしを食らったように感じた。自分自身がどこかに消えてしまったように、足に力が入らないまま帰路につく。あいつらはなぜあんなに酷いことをフローラに言えるのだろう。フローラに何をされたって言うのだろう。フローラがこの世界に、一体何をしたと言うのだろう。
ベリルは、青い髪について暗黙の了解を今まで知らなかった。友達や先生も同じなのだろうか。フローラはベリルに困ったことも嫌なことなど一つもしなかった。だからベリルはフローラが大好きだし、気になって仕方ない。悪いことをしたのは、むしろ自分の方なのだ。友達も先生も、皆フローラの敵なのだろうか。いつか答えを見つけられることを願いながら、街灯のまだ眠る夕焼けの道を歩いた。