ポルターガイストの家
これは私が小学生六年生の夏休み(昭和62年頃)に起きた奇妙で恐ろしい恐怖体験である。
◇
「今日からここが、我が家だから」
髪型を変え、少し痩せて帰ってきた母が、私達三人兄弟を連れ出した場所は、建て売りの一軒家だった。
そこは荒れ地に道路が先行して敷かれ、住宅はまだまばらにしか建てられていない町はずれの寂しい場所。案内された家は南東の角地とはいえ隣近所がないポツンと一軒家。
「お、おじゃまします」
用意されたスリッパは三人分しかなく、一番最初に足を踏み入れた私は兄と妹と母にスリッパを譲って素足であがった。
ガラス張りの引き戸を開け、左手のドアを手前に開けば開放的なリビングに出る。南向きの窓からは外の景色が良く見えた。半地下のガレージの上という作りは当時の北海道ではよくある構造で、一階とはいえ二メートル程度の高さがあるので、それなりに眺めはいい。
眺めは良いとはいっても、遮蔽物のない荒地の奥に国道を走る大型牽引トラックが流れるのが見えるだけだったのだが。
振り向くと母は満足げな笑顔で子供達の反応を眺めている。
そもそも、母とは半年ばかり別居していた。ある出来事を機に精神的に追い詰められ、遠くの親戚の家で転地療養中と聞かされていた。でもそのわりに今日は顔色が良いし、一年前より確実に健康的になっている様子で、子供心に胸を撫でおろしたところだった。
持病の心臓がさらに弱り精神衰弱に陥った母は、ある日突然なんの前触れもなく私達の前から姿を消した。それからの一年間を共に生活をして、面倒を見てくれていたのは母方の祖母だった。
今日、その祖母は一緒に来ていない。母と祖母は実の母娘だというのに結構仲が悪かったりする。私には素晴らしい祖母でも、他のだれかにとっては違うということを、彼女たちの関係から自然と学ばされた。
天気は晴れ。
綿菓子を千切ったような白い雲が、青空の中を泳ぐように流れている。
「ここからまた頑張ろうと思う」
母の決意の言葉を聞いて、私もまた決意を新たに頷いた。
ここで、ようやく気づいた。母の左手薬指から指輪が消えているのだ。その意味を確かめる必要もないだろうと私は思い、胸の中でホッとしていた。
気をとり直して家の探索に戻る。リビングの奥にキッチンがあり、そのさらに奥に脱衣所と風呂場があった。十四畳ほどのリビングには両開きの納戸があり、扉を開けると階段下の収納スペースということがわかった。
身長155cmほどの私が十人ほど入れそうな広いスペースに、兄と妹と三人でそこに足を踏み入れたとき、最初に目についたのは大きな筆文字で書かれたお札だった。
「お母さん、これなに?」
妹が聞くと「それは厄除けよ」と、母が答えた。
兄は眉間に皺を寄せ、じっと見つめている。私もなんだか急に不安を覚えて、ゾクッとした。
「じゃ、二階も見に行ってごらん。自分たちの部屋を決めなくちゃね」
促されて納戸を出ると、北側にある階段を上って二階へ進んだ。
階段は最初の三段目から左へ九十度曲がっており、そこから先を真っすぐ南方向へ上がっていけば横一文字の廊下に突き当たる。左右にそれぞれふたつずつ、計四枚のドアがあった。
私たちは南東側の角部屋から確認を始めた。絨毯敷きの六畳間だ。北側の壁には押し入れとクローゼットが並んでいる。私と妹は、その部屋を双子の姉妹で仲良く使えば良いと言われた。この部屋の真下には、リビングに隣接した六畳和室があるという。
兄は隣の部屋。南西向きの窓があり、同じく絨毯敷の六畳間。でも収納はない。
兄の部屋の向かいにある引き戸を開けると、三角屋根の屋根裏部屋みたいな天井の低い部屋になっていた。母はここを自分の寝室にすると言った。
もうひとつの引き戸は、三畳ほどの納戸。ウォークインクローゼットと母が言うけれど、窓がないため照明をつけないと真っ暗である。
窓を開けて顔を出してみる。荒れ地の向こう側にある国道に様々なタイプの車が西へ東へ流れているのが良く見渡せた。交通量はかなり多そうだ。
周辺は火山灰土の広大な荒れ地がただ広がっている。職業訓練所や市営バスターミナルの音が聞こえてくるほかに人の気配はあまりない。人の背丈を悠に超える雑草と月見草と呼ばれている黄色い野花やぺんぺん草が群生していた。
◇
引っ越し当日。
祖母の友人が所有する賃貸アパートから荷物を出すとき、なぜか軍手をはめて、白いタオルはちまきにした父が私達の前に現れた。
一年前、「お前たちとはもう生きていけない」と宣言して勝手にいなくなったくせに。彼は特に釈明することもなく私達の机やタンスを、用意したトラックの荷台に積み上げていく。
父は気まずさなのか、私達と目を合わせようともしない。でも、表情は軽やかで、罪悪感の欠片も感じさせていない。これは一体どういうことかと母を見ると、彼女はただ肩をすくめて見せるだけだった。何も語るつもりはないらしい。
兄だけは嬉しそうだった。
兄は両親の離婚を心の底から反対している唯一の存在だったので、私と妹は複雑な心境である。母が転地療養しなくちゃいけないほどのことをした犯人が、また不用意な態度で母を追い詰めるようなことになったらと思うと、気が気ではなかった。離婚したのならば潔く姿を消してくれたら良いものを、と腹の底で怒りを煮えたぎらせる。
もう二度と父を「お父さん」と呼びたいとも思わない。だから、私達から父に話しかけることもない。そう決意を固めていたのに。
新居へと荷物を運び込む。父が連れてきた男手のおかげで、あっさりと引っ越しは済んで、母が注文していた家具が順次届けられて、がらんとうの部屋は生活感のある部屋へと変わっていった。
夜になって人手を帰しても、父だけはなぜか居残っていた。
母はまだなにひとつ説明することなく、父がいることを当然のように受け入れている様子だった。
思えば父が「好きな人がいるから」と身勝手な言い分を残して私達に別れを告げて出ていった時も、母が居なくなった時も唐突だった。今回もまた、唐突に父が戻ってきたということなのだろうか。察することしか出来ず、私は閉口したまま否応なしの現実をただ受け入れるしかなかったのだった。
◇
いびつな家族が暮らし始めた家は、朝になると必ずカラスが屋根の上にとまり、カーカーと鳴き騒ぐ。不穏な予兆と言っても良い現象だと私は思っていた。
スズメを丸のみしてしまいそうな大きいカラスが恐ろしくもあり、玄関を開けるたびに大きな蜘蛛が大きな巣を張っているのをほうきで一掃する手間もあって、新生活はストレスフルの連続だった。
学校まで片道徒歩一時間を超えているし、最寄りのスーパーもコンビニの片道十五分はくだらない。学校からいちばん遠い家の子として、早起きもしなければならなかったのはつらいものがあった。引っ越す前は学校まで五分、十分程度だったのだから。
母は元々保険の外交員をしていたので、職場復帰を果たした。当時、専業主婦のほうが圧倒的に多かった時代に子持ちの女がフルタイムの仕事をするのは珍しいケースだった。
父は実家の経営する建設業でサラリーマンをしていて、うちから勤めに出ていくようになっていた。実は両親の離婚は成立していなかったことを知るのはもっとずっと後のことになる。
肝心なことをなにも話さないまま、一年が経った頃。
六年生になった夏休みのことである。母が仕事の都合で二泊三日も家を空け、父は連絡なく帰らない日が続いていたある日。それは起きた。
母が用意していたカレー鍋に火をかけて、温めて三人で食べ、それぞれお風呂に入って寝る支度が終わった頃。全員、一階のリビングにいるのに天井から聞こえてきた足音に飛び上がるほど驚いた。
位置的に、兄の部屋。でも、その足音をは兄の部屋から私達双子の部屋までを行き来している。それはもうはっきりと疑いようのない足音だったので、三人で身を寄せ合いながら、しばらく息をひそませて様子を窺っていた。
「見に行ってみる?」
兄が言う。兄は私達と一歳と離れていない、学年はひとつ年上。
「怖い」
妹が首を振って嫌がった。
「ちょっと、電話かけよう」
私が提案したのは、祖母に助けを求めるというもの。でも、祖母は自分で運転できないし、もう寝ているのか電話に出ない。当時、携帯電話はまだ普及していないので、親の居場所を知らないとどこの固定電話にかけて良いのやら、という状況だった。
「ダメだ……。おばあちゃん、寝てるみたい」
私達は怖がりながら仏壇の前に並んで、ご先祖様にお祈りをした。
一時間もすれば音も気配も消えて、二階にあがっていくと特になにも問題はなかった。
それでも怖いときは、一階のリビングにかけ布団を敷き、毛布をかぶって三人並んで寝て、長い夜を凌いだ。
◇
お盆が近付く週末、幼馴染の友達が遊びに来た。うちに幽霊がいるかもしれない、と言ったらよだれを垂らして飛びついてきたのだ。
「おばけに会ってみたい」と彼女は言って、鼻で笑い飛ばす。その明るさに私達兄妹は救われた気がして、できるものならずっと泊って欲しいとさえ願っていた。
四人でテレビゲームをしたり、アニメのビデオを見たり、外でキャッチボールをして遊んだ。昼になって冷凍のハンバーグを焼いて、炊飯器の白いご飯と一緒に食べ、午後のおやつを買いにスーパーに買い出しに行って、戻ってきた時のこと。
家に入って手を洗っていると二階から「ばたん」、とドアが閉まる音が響いた。
それから、兄の部屋のラジカセが大音響で鳴り出したのだ。
ここに四人いて、他に誰もいないはずなのに。なぜ音が鳴るのか不思議で、驚きと怖さが混じり、小さなパニックに陥った。でも、幼馴染は勇敢で「ちょっと見てくる」と言って、ひとりで階段を上って行った。私はその後ろを着いて行く。
ドアを開け、ラジカセの電源を切ってくれて、急に静かになったその時。
隣の私達の部屋からものすごい物音がした。何か、本の山が崩れるような音だ。
窓を開けているわけでもないので、幼馴染の手を握りながら自分の部屋のドアを開ける。なにも変わった様子はない。ドアを閉めて、リビングに降りていくと兄と妹が悲鳴をあげて階段下収納から飛び出した。
幼馴染と私を脅かしたかったらしい。でも、驚くことに慣れてしまったのか、全く驚かなかった。
無言で見つめ合う四人。
すると、幼馴染が納戸の中を見て「なにこれ」と指を指した。
お札だ。しかも三枚になっている。
「あ。増えた」「増えてる」「これなんだろうね」「やばいんじゃない?」
私達は口々に感想を垂れ流した。
「おばさんってさ、霊感強いんでしょ? うちの母さんがそう言ってたけど」
「……そうらしいけど、あの人なにも言わないから」
「そうそう。秘密主義っていうかさ、聞いても絶対教えてくれないよね」
「正直、聞きたくないこともあるよ。言ってくれない方が良い」
三人兄妹は普段口にしない心境を吐露した。
ガタン!
四人で再び飛び上がる。
見れば、リビングの大きなテーブルが部屋の端っこに移動している。
「え?!」
「テーブル、こんな場所にあったっけ?」
バシャン!
今度は、目の前でテーブルの上のコップがひとりでに滑り出して、床に落ちた。中に入っていた水が、私達の足下まで飛んできて靴下を濡らしてしまう。
「はぁ!?」
幼馴染も、私達兄妹もこれには戦慄した。すぐに、動けない。
次々に、テーブルの上のものが、滑るようにして床に落ちていく。同時に、天井からドスドスという足音が聞こえてきた。ガチャっとドアが開く音と、バタンと閉まる音が鳴り響く。あげくの果てには、半地下の車庫のシャッターが開いたり閉まったりするガラガラドーンという音まで聞こえてきた。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁああああああ!」
私達は叫びながら家の外に飛び出した。
天気は快晴で、気温二十五度程度の乾いた風がそよいでいる。
家を見上げると、うちの真上だけ黒い雲があっても不思議じゃないぐらいなんだか不気味に見えてしょうがない。
「なに、いまの。なにいまの。なにいまの!!」
幼馴染は何度も尋ねてきたけれど、私達は茫然として応えられない。
「ポルターガイスト!」
彼女はそう叫ぶので、確かにあれがかの有名なポルターガイスト現象なのかと思ったけれど、まさかそんなことが自分の目の前で起きるだなんてすぐには信じられなくて、心臓が落ち着くまでなにも言葉を発せられなかった。
「この家は危険だから、うちに来る?」
幼馴染の提案に、私達は三人とも頷いていた。とにかく、ここから離れたい。
「ちょっと待って。父さんに電話する」
彼女のお父さんはトラックの運転手をしていて、会社に電話すると無線で連絡してくれるので、折り返しの電話がうちにかかってくる仕組みだ。ということは、今から電話のあるリビングに行くしかない。
周辺には頼れる人がいないので、他にどうすることもできず、四人で手を繋いで犬のお巡りさんの歌をうたって自宅へ入った。幽霊は犬が嫌い、という勝手な思い込みによる即席の魔除けである。効き目の程はわからないけれど、勇気は湧いたような気がした。
室内に入ると、ラップ音が鳴っていた。リビングでも、仏間でも、階段の下でも、トイレでも。 割り箸を割るようなパキンという乾いた音が、ひっきりなしに鳴っているのだ。
幼馴染が電話を終え、父親から電話を待っている間も台所からなにか落ちる音が聞こえている。私は手の甲の皮膚を噛んで、恐怖を痛みで誤魔化していた。
ガラガラ、ガシャン。
シャッターの音が何度も繰り返される。さっき見たときは閉まったままで、開いてはいなかった。ここにいる四人ともが聞こえているため、幻聴なんかじゃない。
電話が鳴ったときは、飛び上がるほど驚いた。電話に出ると、彼女のお父さんの声。こどもの話が突飛すぎると大人はなかなか信じられない様子で、とにかく今夜は彼女のうちに私達三人が泊っても良いという許しを得ることが出来た。
一泊分の着替えをまとめて家を出る。シャッターが開いていて、そこになぜか秋田犬が繋がれていた。
この犬は父が連れてきた雄犬で、南側の犬小屋に繋がれているはずだったのに。いつの間にか北東側の玄関前に来ている。
―――誰がどうやって?
「なんでこの子がここに……?」
もう、そんなことどうでもいいから早く逃げたい。四人とも、もう余裕がない。
私達は自分の自転車を車庫から引っ張っていく。四番目に自転車を持ち出した幼馴染に、突然おとなしくて人懐っこいはずの秋田犬が、唸り声をあげて噛み付いた。
太ももに、ガブリ、である。
私は咄嗟に自分の腕を犬の口に突っ込んで、彼女を助け出した。
犬は私を噛もうとはしなかった。
兄は犬の首にすがりついて、妹は幼馴染を安全な場所まで引き摺り出す。
牙が刺さった場所から血が噴き出すのが見えた。
犬は申し訳なさそうに耳を垂れ、目を瞬かせて伏せをした。それが、とても違和感がある仕草だと感じて、これもまた霊障なんじゃないかという思考で頭の中がいっぱいになる。
怪我人が出た以上、恐がって何もしないわけにはいかない。私は家に飛び込んで父の会社に電話をかけた。
「あんな人に一生頼れない」なんて言っていられない事態が起きてしまったのである。一番頼りたくない人に今は頼るしかない。そう思い、不満や怒りを放棄して、躊躇いなく震える指でダイヤルを回した。
私の伝言を聞いた父がすぐに帰ってきた。そして幼馴染を車に積んで、全員で病院へ向かった。寝袋の紐で脚の付け根を圧迫し止血しているおかげか、出血はそうでもない。
だけど、彼女の傷は三針縫ったし、破傷風の注射もした。
トラック運転手のおじさんにも連絡が回り、保険外交員をしている母親たちも駆け付けた。
この日なにが起きたのかを説明するのが大変で、子供の語彙力の限界と疲れを感じながらも、とにかくあるがままに起きた詳細を説明することを何度も繰り返した。兄、私、妹、幼馴染の四人の口から語られる不思議な話を、大人達は呆れたような顔をして聞いていた。
犬は、保健所で始末するという話になったのを、幼馴染とそのお父さんの人柄によって回避されて、代わりに大きな檻を作ってそこに閉じ込めるという措置が取られた。こうすれば人に噛みつくことはもうないだろうということのようである。
彼女の怪我は傷が小さいので割と早く治った。
シャッターの音が何度もしていたと言ったら、母が車庫の奥にある地下室に置いたままだったガラスケース入りの日本人形をお寺に持って行ったと聞かされた。
お坊さん曰く、この人形に良からぬ霊が入っていたので、お祓いした後に焼却処分したと、しばらくしてから教えて貰えた。
その家ではその後、あれほどの霊障は起きなかったけれど。でも、目の前に大きな病院が建ってからは頻繁に幽霊を目撃することが増えたので、そもそも霊道でもある場所に家を建ててしまったのかもしれない、と勝手に思っている。
思春期が始まる子供が三人いる我が家で起きたポルターガイスト現象は、親子のコミュニケーション不足による弊害だった、と言えるのかもしれない。行き場を失った感情が積もると、その思念に引き寄せられた浮遊霊が物体を動かすほど力を蓄える、なんて仮説を立ててみた。それを立証する術を知らないので、あくまで仮説だが。人間の脳は、とにかく空白を埋めたがると何かの本で読んだ。理由や原因を探って、自分のみに起きたことを納得したがる生き物なのだ。
その家は病院に買い取られ、今も病院の休憩所として当時の姿のままそこに在り続けていると聞く。風の噂では、頻繁に霊が出ると言われているのだとか―――。
了