第16話 愚かな御者
・・・はっ!
辺りを見回すとそこは見慣れた俺の部屋だった。
どうやら無事に帰って来れたようだ。あちらの世界にずいぶんと長居してしまった。逆に、やれば俺もあそこまで禁欲出来るのか。
俺の性欲は自分の思っているほど強くないのかもしれない。自家発電なんてしてる場合じゃない、という状況になればあそこまでいけるのだ。
俺があちらの世界に行ってから1日以上経っていた。バイトを無断で休んでしまったな…。山登さんからも心配だったのか、連絡が来ている。
俺は物凄く体調が悪かった、と苦し紛れに言い訳をしておいたところ、彼女も何とか納得したようだ。
思えばあの世界も最初に行った世界とは違う意味で恐ろしかったし、カオスだった。
賢者の俺はあの世界での事を思い返す。
あの世界の俺は本当に性欲の尻に敷かれている状態だった。性欲の赴くままに生きていた。どうやら俺は本物の性の快楽を知ってはいけないようだ。
そして何より陽、山登さんという2人の女性だ。
陽は相も変わらず、高校時代のままであった。違う世界とは言え、彼女に会えたことはとても大きかった。懐かしくも忌まわしい高校時代の思い出の大半を占めているのは彼女だ。
違う世界とは言え、また俺は彼女にあの時のことを謝ることが出来なかった。いつか謝れるといいな…。
問題は山登さんだ。
俺はあの世界では彼女について知ることが出来た。しかし、それ以上に彼女についての謎が深まった。
まあ、とりあえず彼女と付き合うと大変な目に遭うのだろう。あの世界の俺のように。彼女、山登さんがメンヘラだったとはな…。
愛が重すぎるが故に陽を殺してしまった。愛もまた人を狂わせるもののひとつなのかもしれない。
まだ午前だ。基本的にバイトは午後からのため、午前に起きることなんてほとんどない。
そうだ、気になっていたあのカフェに行こう。俺は着替えをし外に出た。本日は晴天である。
ついさっきも通った道を再び歩いていく。
最大の謎はあの店だ。あの店は分からないことだらけだ。急に襲ってくる客、繋がらない電波。拳銃らしき音もなってたな…。謎は深まるばかりだ。
現場に行くのは怖い。だが行ってみないと分からないこともある。
そして恐らくあれは、山登さんが関係している。でなければ明らかにおかしすぎる。
彼女が一体何者なのかも分からないが、あの店単体ではあんな目に遭わないはずだ。
カフェが見えてきた。1回しか見てないのにまるで何度も見たかのような気分だ。それほどこの景色は印象深いということなのだろう。
さぁ、入ってみよう。
カランカランと入店の鈴がなる。いらっしゃいませ、と店員の声がする。聞く限りではやはり男性店員しかいないようだ。
客を見てみる。
やはり違った。店内には専業主婦なのであろうか、優雅にコーヒーを啜る女性や、定年退職をして暇なのであろうか、年老いた女性たちなど、あの世界の時の様子とはまるで違う。
俺はとりあえずあの時と同じ席に腰をかけ、あの時と同じくコーヒーを頼んだ。ふむ、店内の様子はあの時とは全く違う。
異様な静けさもなく、談笑の声も聞こえてくる。変わらないのは店員だけか。
その後も特に変わったことはなかった。
トイレに行ってもあんな乱暴な目には遭わなかった。
俺は席に戻り再び考える。山登さんは一体何者なのだろう。危ない人達に依頼して俺を襲わせたのか?
「ずっと一緒にいてください」
この言葉の真意は何だろうか。
俺と心中する気だったのだろうか?
それとも俺を捕まえて監禁する気だったのだろうか?だとしても彼女はいずれ捕まっただろうから、監禁したところで意味もない。
やはり心中する、という線が1番しっくりくる。
ふとあの時の山登さんの不気味な笑いが脳裏によぎる。思い出すだけであの異様な恐怖が鮮明に蘇る。
あぁ、もう考えるのは辞めよう。もう終わったことだ。これから始まるわけでもない。俺はその選択はしない。
いつの間にか彼女に抱いていた好意も消えていた。この世界の彼女は決して悪くない。だがあの世界の彼女も彼女なのである。
似て非なる者なんかではない。無理矢理言うならば、似ずも同なる者、と言ったところか。
もうやめだやめだ。俺は半分くらい残っていたコーヒーを一気に飲み干し、お会計を済ませ店を出た。
結局、何も起こらなかった。
さてこの現象はいつまで続くのだろうか。
もし続くとしても、次は平和で楽しい世界にして欲しいな。
空を見上げると相も変わらず太陽は性欲まみれの俺を責めるように照らしていた。




