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作者: 白沼俊



 どんよりとした雲が、空を灰色にしている。

 濡れたティッシュのようにしっとりと冷たい風が首筋を撫でる。身震いしてコートで無理やり首を隠す。

 段差も何もない舗装された道を、僕は足元を見つめるようにして歩いていた。枯れ葉がかるい音を立てころがっていく。無意識に目で追う。前方のハイヒールを身につけたすらっとした足に惹かれて徐々に目線を上げていく。

 相手に分からない程度に自分の目が大きくなるのを感じた。

「優子、なのか?」

 本当にその名を口にできたかは定かではない。確かなのは、彼女も僕に気づいてくれたことだ。

 目を丸くしていた彼女は、わずかに目を細めて口元をゆるめた。

「久しぶり、佐久間くん」

 実に六年ぶりの再会だ。


「ほんと久しぶりね。七年ぶりだったかしら。八年?」

 優子はほがらかな声で尋ねてくる。首をかしげて分からない振りだ。

 年末の今日、彼女は数年ぶりに実家に帰るつもりらしい。こちらも同じく帰宅途中だ。もっともこっちは借家で、大学のころ引っ越してから惰性で住み続けているだけの単なる寝床だ。

「最近誰かと会った?」

 大学のサークルの誰か、という意味だろう。顔をかたむけ目をじっと覗いてくる。懐かしい仕草だ。

「ああ……ちょっと前に、柴山と」

「そう」

 興味深そうに訊いたわりに素っ気ない反応だ。親しくない間柄でもなかったろうに。

「ねぇ、最近ちゃんと寝てるの?」

「どうして」

 分かっていて訊いてしまう。彼女は目の下のクマを指でなぞる。

「すごいから」

 お互い様だと返したいところだが、そうもいかない現実がある。

「寝ようと試みちゃいるんだけど、どうしても寝付けない日があってね」

「大丈夫? 不眠症?」

 いや、と意識的に笑って別の話題をさがす。

「僕のことより、もう付きまとわれてはないのかな。聞いたよ、ストーカーのこと」

 今さらという思いは否めない。その話を聞いたのは五年ほど前になる。当時優子と交際関係にあった健という友人からの情報だ。耳にしたのは一度きりで、ふいに思い出しては不安になることがしばしばあった。

 あまり良い思い出じゃないからだろう、彼女は不自然に顔をそらす。

「周りの人に手伝ってもらって、何とかなったから」

 足元に向けていた視線を少し上げる。優子が前に立ってきたからだ。

「このこと、人に言わないでね。特にサークルの皆には」

 柔らかく微笑んでみせる。ただし上手くやれたかは分からない。こうした表情を作るのは久しぶりなのだ。

「分かってるよ」

 効果はあったようで、再び並んで歩き出せた。

「そうよね。健も話したら怒られたって言ってたし」

 ボサボサと髪の伸びた頭をかき、さりげなく横目を使う。

「まだ、付き合ってるのかな」

「とっくに別れてる」

「へぇ」

 盛り上がる話でもないので、それだけ言った。

「もしかして狙ってる?」

「さあ、どうかな」

 優子がくすりと笑うのを見て、自然と頬がゆるむ。

 そろそろ分かれ道だ。笑みが引いていく。

「じゃ、またね」

 にっこりと手を振る彼女に、無言で手を上げてみせる。十字路を僕はまっすぐ、彼女は右へ行く。すぐに姿は見えなくなった。

 うつむき加減で睨むように空に目を向ける。分厚い雲のすきまから、微かに日の光がこぼれていた。


 元旦、午前〇時。中高生のようにお茶らけたメールに律儀に返信をよこす。あけましておめでとう、というやつだ。馬鹿馬鹿しくて送信直後に携帯を放り捨てる。

 年越しそばを食べ忘れていた。どうでも良いか。

 布団に寝ころんで天井を見つめる。亀裂が入っているがそのまま数年間保っているので問題ない。これもどうでも良い。

 だが、くだらない事に頭を働かせるほうがずっと良い。気が楽だ。近ごろ、考えることが多過ぎて嫌になる。うつ気味だ。

 柴山という友人に病院に行ってみるよう勧められたが、まだ診察を受けていない。今後もそのつもりだ。絶対に行きたくない。

 外から道を行く人の足音が聞こえてくる。何か予感めいたものを覚えて二階にある自室の窓から道を見下ろす。

 こんなことがあるのだろうか。

 大急ぎでコートを手に取り玄関から飛び出す。

「あら。良いタイミング」

 鉢合わせした優子は驚くと共ににこりとする。

「初詣、行かない? お母さんもお父さんも寝ちゃって」

 即座に承諾した。


 さい銭を投げいれ鐘をゆらす。手を合わせ終わり階段を下りていく際、小さい坊やに何やら凝視された。あの特有の目つきが苦手でならない。

 向かったのは近くの小さな神社だ。豪快に炎が燃えさかっている。目にも寒がりにもありがたい。そういえばストーブを付けっぱなしにしてきた。

 列を並んで階段をのぼってお参りして、それだけなのに僕は普段とは比較にならないくらい上機嫌だった。

「二つ下さい」

 甘酒を注いでくれる係のおばさんに言うと、きょとんとされる。

「二つ、ですか?」

「え?」

 優子を見ると甘酒をすすっていた。

「先にもらっちゃった」

 いつの間に。仕事の早いことだ。しかし、自分のだけか。

 世間話をしつつ、甘酒をちびちびと飲む。気を付けないと火傷する。

「帰らなくて良かったの? ご両親のところには」

 二人して木に背を向けて、まだ勢いの衰えない炎を眺めている。 

「どうも、そういう気になれなくてね」

 漏れそうになったため息を、甘酒を口に含んで抑える。

「いつまでいるの、ここには」

「四日に出ちゃうけど、そんなに遠くもないのよ」

 意思を含んだ目線を感じる。僕は知っていないとおかしいのだろうか。

「どこだったかな。聞いた覚えがあるような…」

「そこはもう引っ越しちゃってるの。ごめんね、言ってなくて」

 小さくかぶりを振る。どうせ忘れていたし、よくあることだ。久々に会いたいと思うと連絡が取れなくなっていた、というのは既に経験している。そうなる確率はどれだけ親しかったかで大幅に違ってくるわけだが。

 住所と電話番号はささっと口頭で教えてもらう。役立てられる自信はない。だとしても帰ったらメモの一つでも取ってしまうのだろうなと予測できる。

「あったかいな……」

 炎に癒され呟くように言うと、今来たばかりと見られる青年に一瞥される。一瞬歩き方がぎこちなくなり、ちらちらと何度も視線を向けられる。

 優子が角度で木に隠れていたのかな、とあまり気にはしなかった。


 その日の二度目の夜。僕は柴山という友人の家に招かれた。僕の寝床より広々としている。もっとも、彼も仮住まいだ。

「新年早々俺なんかと、ずいぶん暇らしいね」

 自嘲込みの軽口を叩いてあがらせてもらう。

「そう言うなよ。佐久間こそ、どうせすることもなかったんだろ?」

「やろうと思えばいくらかあるけど、やる気は出ないな」

 柴山とは本音ではなせる。少し前にもうつ気味だったことを相談し、病院へ行くよう勧めてくれた。行こうとしなかったとはいえ、気遣ってもらったことへの感謝はしている。

 今日は酒を飲むわけではない。うつ病の疑いがあるうちは飲酒厳禁だと口をすっぱくして言ったのは彼だ。誘ったりはしないだろう。さほど飲む方でもないので今のところ難なく我慢できている。

 では何をするのかというと、男二人ですき焼きだ。柴山からの誘いを受けたとき優子の顔が浮かんだ。曖昧だが、直後に彼女の両親も。それでなくとも、柴山と僕と、もうひとりが優子となると変な気持ちになりそうだ。

 大学時代、彼とは同じ女性に好意を寄せてしまったことがある。それが優子というわけだ。今となっては気にする必要はないだろうが、人の思考はそう合理的にはいかない。

「お。それは?」

 きれいに片付けられたリビングの真ん中。テーブルに置かれたあるものに視線が引き寄せられ、指差す。

 柴山には最近、意中の人があらわれたらしい。そのことが頭をよぎる。

 交際を始められたかの報告はまだだ。上手く行きそうなのか。そう考えて自分でおどろく。ひとり勝手に悩んでいた時には誰の幸せもどうでもよくなっていた。もとの自分に戻れている。その確信のみでしばらく高揚感に浸れそうだ。

「近々プレゼントしようと思ってるんだ」

 それだけでも高値の付きそうな箱を開き、ダイヤの指輪を見せてくる。

「プロポーズか」

「それはもっと先だけど、考えといても悪くないな」

 ちまたで言うところの幸せオーラを感じる。妬かせてくれるではないか。

「それで、今日は会ってなくて良いのか」

「まだご両親に挨拶する段階まで行ってないんだ。大変だろうなぁ」

 そう言いながらも余裕を感じられる。来年には結婚の話は確定してしまっているかもしれない。

「それより佐久間、元気になってきたんじゃないか?」

 自覚症状にばかり効果が出ているのかと危惧し始めていたので、その台詞はさらに僕を元気付かせてくれる。

「ああ。優子のおかげだよ」

「優子の?」

「今実家に帰ってきてるんだ。二回会っただけだが、十分元気もらえたな。少し気が楽になった。考えに考えたあげく悩んでるってのが馬鹿馬鹿しくなってきてさ」

 肩の力が抜けたおかげか不眠症もあるていど改善されてきた。そうすぐに黒ずんだようなクマは消えてくれないが、それも時間に任せておけば問題ない。

 柴山がぽかんとしているのに気づく。

「どうした」

「あ、いや……すき焼き、作っちまおうか」

 誤魔化そうとしているのはよく分かる。彼にしては珍しい。まあ彼なら話したくなった時に話してくれるだろう。

「結婚か。俺も早めに考えとかないと、あっという間に四十かもな」

「そう、だな……」

 何ていう事のない呟きにも、彼の反応はぎこちなかった。


 一月五日、ごご四時。きのうの同じころに優子は行ってしまった。見送ったわけではないが、出発の予定時刻だけ聞いていた。連絡先のメモを眺めながら彼女の笑みを思いうかべる。

 また疎遠になるのだろうなと漠然と考える。

 空腹を感じ、まだ昼食を摂っていなかったことに気づく。明日から仕事なのにぐうたらしてしまっている。せっかく英気を養ったのだ。気を引き締めないといけない。

 まずは腹ごしらえだ。いつものコートを羽織り、財布だけもって玄関のドアを開ける。

「あら、良いタイミング。三回目?」

「いや……二回目」

 あっけらかんと現れた優子を凝視せずにはいられない。

「どうして」

「戻るの嫌になっちゃってね。ここからでも仕事場への距離はそんなに変わらないし」

 詳しい経緯は分からない。今は結果にしか頭が回らない。

 彼女は何故こんな報告をしているのだろう。僕に対して言いに来たのは友人としてだろうか。まあ、そうなのだろう。分かっている。だが、別の答えを期待してしまう自分がいる。

 と、その時。僕はアパートに向かってくる柴山のすがたを捉えた。

 廊下はそう呼ぶのもふさわしくない造りで、柵と屋根しか付いていない。そのため歩いてくる彼のすがたを視認することができた。

 ドアを押しのけ、柵に片腕をおき声をかける。

「急にどうしたんだよ」

 彼はこちらを仰ぎ見て手をあげる。しぶい顔だ。

「優子、柴山だ」

 振り向いて、皮膚がざわつくのを感じた。

 いない。この数秒で、彼女がすがたを消した。

「誰かいたのか?」

 階段を小走りで上がってきて、柴山が尋ねる。

「ああ、優子が。いつの間にか、いないな」

 開け放したドアに気づき中に目を向けてみる。誰もいない。彼女のハイヒールもない。子供じゃあるまいし、隠れているわけもないだろう。しかし、黙って去ったのは何故だ。

「すれ違わなかったのか?」

 訝しげにこちらを一瞥し、周囲を見まわす。

「見てないな」

「そうか」

 やはり部屋に入ったのだろうか。まさかとは思うが、それしか考えられない状況だ。

「なぁ佐久間。本当に優子に会ったのか?」

 くだらない質問に僕は思わず眉をひそめる。

「そんな嘘をつく必要がどこにある」

「今だけじゃない。年末からのこと全部に対して言ってるんだ」

 相手が柴山でなければ閉口するところだ。冗談にしてもセンスが皆無だ。

「繰り返すようだが、そんな嘘ついてどうする。この通り、うつ気味だったのも治ってきてる。優子に元気をもらったからだよ」

 そもそもうつ病だったかどうかも怪しいが。

「有り得ないんだよ、それは」

 頬が引きつるのを感じる。言葉不足じゃなかろうか。

「ちゃんと説明してもらえないか」

 彼の表情に差した影にいいようのない不安をおぼえ、心臓の鼓動が速くなる。そんな心情になったのを、僕はすぐに後悔することになった。

「優子はな、死んでるんだよ。四年も前に」

 そんな真面目な顔で、よくもそのような馬鹿げた空想を話せるものだ。逆にだのある意味だのと前置きしても、感心したなどとは絶対に言えない。

 ここまでくると、もはや怒りさえわいてくる。見損なった。

「じゃあ、今まで見たのは誰だって言うんだ。優子に双子がいるなんてことは聞いてない」

「佐久間、病院行かなかったよな。言っちゃ悪いが古くさい偏見言い放って」

 確かに、うつ病は甘えと言った覚えはある。実は診断されるのが怖かっただけなのを誤魔化していた。

 柴山はその瞳に憂いをたたえ、苦しげにその先を続ける。

「優子は、いなかったんじゃないのか」

 脳天に一撃かまされた。そのくらいのショックだった。

 皮膚がぴりぴりと痺れるような感覚に陥る。涙とはちがう得体の知れない興奮が視界をぼんやりとかすませる。

「俺が見たのは幻覚だった。そう言いたいのか」

 五年前に耳にしたストーカーのことが頭をよぎる。浮かびあがった想像に強く首を振る。初詣の時さい銭を投げ入れるところも見たはずだ。あれも幻覚だったというのか。

「俺は、確かに会ったんだ」

 反論の声の震えを自覚する。柴山はもはやこれ以上の言葉を発する気すらなくなったのか、背を向けてためらいがちに歩き出す。

「また来る」

 それまで一人で悩んでおけ、とでもいうつもりか。ふざけるな。そんな反抗心も、自らに対する疑念に塗りつぶされていく。

 再会の日の会話が思い出される。ストーカーから解放され、健とも別れた。そう聞いて僕は何を思っていたか。あれは、自らを元気付けるための――それどころか、会っていた時のこと全てが、精神を保つための手段だったとでも言うのか。僕はそこまで追い詰められているのか。

 初詣の時チャイムを鳴らされることなく自ら玄関に飛び出したのも、疎遠になるはずがすぐ彼女と会えたのも、運命的なものではなかったのか。

 お参り直後の子どもの凝視、甘酒をもらう時すでに自分の分を持っていた優子、彼女といっしょにいた時のつぶやきを不思議に思ったような青年の目線。

 次々と想起に追い討ちをかけられ、優子がいたという確信はみるみるうちに砕かれてしまった。

 何より、今そこにいたはずの優子が消えていたということ。そのことに何の疑問も抱かずにいられるほど都合よくはなれない。

 ドアを開け、ふらふらと部屋に入っていく。コートのまま床に寝ころび、敷きっぱなしの布団から毛布だけ引っぱり被る。

「ねぇ、出かけるとこだったんじゃないの?」

 声が聞こえた。誰かの手で毛布をめくられる。

 窓の外、藍色のくもを浮かべた空から、夕暮れ時の蜂蜜色の光が部屋に流れ込む。温かくゆったりとした、現実味のない幸福感に包まれる。

 そこには確かに、優子の姿があった。僕のかおを覗きこむ、僕のよく知る彼女の表情。日の陰になっていても、手に取るように分かってしまう。

 幻覚でもいい。存在しなくとも、今目の前にいることに変わりはないじゃないか。

「どうしたの?」

「いや」

 いらぬ話だ。今ここにいる彼女にはなす必要は――。

「あ、知らないんだっけ? 芝居うまいなって思っちゃったけど、そうよね。だったら最初から会ったこと言わないか」

 なんだ。何の話をしている。

「死んだことにしてあるの。騙すの大変だったのよ」

 彼女の手に持ったハイヒールが見えてくる。まさか、そのまさかで、彼女は子どもじゃあるまいしと高をくくられるような真似をしていたのだ。

 ある意味、優子が死んだというデマよりも強い衝撃だ。

 柴山はストーカーだった。




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