日暮れの川の歌
閑吟集が元ネタです。
「笠いかがっすかぁ、笠よぅかさぁ。」
行商人と一言に言っても、扱う品は青菜、花、薬、はぎれと実に様々である。が、客を寄せる手段はただ二つ、口上か歌である。見目良い商人であっても、客に気付かれねば意味が無い。そのため、商人は声を張り上げ、市を賑わすのである。笠売りの仁衛は、あまり気が利かぬと評されてしまう鈍な男であったが、教えられた歌を歌うことは好いており、その低く響きのある声に聞き惚れる客も多かった。
「浜田の宿にはやる、菅の白い尖り笠を、お召なされぇ。」
仁衛は、日の傾きはじめた鴨川に降りる。この日はひどい暑さでよく笠が売れたため、商売のためでなく謡を楽しむために川辺に来たようなものであった。涼やかな川風とせせらぎが心地よく、どこまでも声が響き渡るのを感じる。
「召されねば、白玉の肌の黒くもなりましょう・・・笠、どうですかぁ。」
気分良く歌いながら、五条の橋をくぐろうとすると、仁衛の低い声に水の撥ねるような軽やかな声が被さった。
「色が黒いのは元々よ―別にいいじゃない。」
驚いて声の主を探すと、川に泊められた幾艘もの舟の中でも極めて古びた、危うい小舟から一人の少女が顔を出していた。
「夜、暗くなってしまえば肌の色なんて分からないもの。無理して白粉はたいても、白粉の匂いは好かん、と仰る殿方もいらっしゃることだし・・・。あら、でも素敵な笠ね。見せて。」
言われて仁衛は用心しつつ、笠を差し出した。相手は十三、四くらいの少女だが明らかに遊女、それもかなり下等の女であり、口下手で押しの弱い仁衛では売り買いの立場を逆転させられる恐れがあった。
「やっぱり見てたら欲しくなる・・・でも私、お金無いし・・・。」
「銭以外じゃ売りませんよ。それか、腹の足しになるもん。」
仁衛は少女の色目を先制するつもりで、相手の言葉を遮った。が、ごねるかと思った相手は意外にも、
「うんうん、その通り。ほんと、お金払わないとか許せないよね。偶にいるけど。はい、ありがと。」
とあっさり笠を返した。
「それにしても、暑いね。あんまり汗臭いとお客さんに逃げられちゃう。」
そう言いながら少女は舟から降り、川に痩せこけた足を浸す。川風に傷んだのか、赤茶けた髪がふわりと羽のように広がり、少女の背で舞い上がる。ぼろを一枚纏っただけの姿に戸惑うが、それさえ脱ぎ捨て水浴びを始めようとするので慌てて背を向ける。立ち去る仁衛の背に、軽やかな声が掛かった。
「また売りに来てね。頑張って、お金貯めるからぁ!」
―関わらない方がいいんだろうな、ああいう子。
―何がしたかったんだろうな、あの子。買えないって分かってるのに。てか、買う気あったのかな。
―駄目だな、女の子の考えてることなんて、さっぱり分からん。他人の考えなんて分かるはずないもんな、しかも、女で、子どもだ。
橋を二つ越え、市から離れ少し落ち着いた通りまで出た所で、ふと仁衛は立ち止まった。振り返ると、少女と出会った五条の橋は夕日に紛れて遠く、微かに人影と、鳶が舞うのが見えるばかりである。
―俺、いつの間にこんなに歩いたんだ?歌いもせずに。
―分かんねぇな、何も。俺、自分が何考えてたのかも分かんなくなっちまった。
その夜、仁衛は眠ろうにも眠れなかった。目を閉じてもまぶたの裏に夕日さす小さな肩が、鳥の様にやせ細った足がちらつき、耳の奥では軽やかな歌声が響く。耐えきれずに起き上がり、夜風に当たろうとした足は、気がつくと川へと向かっていた。しかし、川の音が聞こえてくるぐらいの距離で仁衛の足が止まる。
―暑い。
昼の日差しの焦げるような暑さでも、夜の蒸し暑さでもない。人の体熱と汗の匂いが、川風に乗って流れてきている―仁衛には、そう思えてならなかった。
顔を布で隠した男が、立ち止まった仁衛を追い抜いて行く。その影が川へと下りた瞬間、仁衛は自分の寝床へと走り帰った。
―やめろ、やめてくれ。何も考えるな、思い出すな。
頭の中に映し出され、重なる少女の身体と男の黒い影を、必死で振り払う。上がった息を押し殺し、うつぶせる。寝返りを何度も打ち、厠に立ち、手と顔を洗い、ようやく落ち着いた頃には短い夏の夜が明けようとしていた。
翌日から、仁衛は川を避けて笠を売り歩いた。しかし、どうにも響かぬというか掠れるというか、声の出が悪い。日差しが強く、暑い日が続くため笠は売れぬことはないが、仁衛は生まれて初めて”歌えない”自分に戸惑っていた。
「笠いかがですか、笠・・・。」
夜も相変わらず眠れない。理由の分からない煩悶と歌えないことへの不安が連鎖し、寝不足は夜毎にひどくなる。それでもふらふらと笠を売り歩いていると、肩をぽん、と叩かれた。振り返ると、片手をあげ、歯を見せて笑いかけてきたのは古着売りの晴太であった。
「うす、景気が悪いな、笠売り。」
「・・・っす。」
「どうした、えらく声が小せぇな。そんなんじゃ、売れるモンも売れんだろ。」
「・・・はぁ。」
晴太は謡よりもむしろ、口上で客を寄せる方が得意な商人である。客を呼び止め、おだて、時にからかい、古着を売りさばく。男前というよりも愛嬌のある顔立ちだが、却って女性受けが良く”遊び相手”も多いと聞く。晴太は仁衛の顔を覗き込むと眉を寄せ、
「暑いし、バテたか。瓜でも食おうぜ。」
と珍しく心配そうな声で誘いかけてきた。言われて初めて、そういえば喉が渇いていた、と気付く。そう思うと、ずっと何かを求めて渇いていた気がしてならない。ありがたく誘いに乗りついていくと、晴太は立ち並ぶ家々の中でも特に趣ある一つの邸にずかずかと立ち入り、当然のように瓜をねだった。おっかなびっくりその後を付いてきた仁衛はいつ追い出されるかと気が気でならなかったが、おそらくは晴太の馴染みの一人なのだろう、楠の大木の影が落ちる軒先に通され、ほどなく割った瓜が供された。透き通る緑の果肉が、つやつやと汗をかいている。
「いやあ、暑い暑い。もう、品物放り投げて氷を担いで歩こうか・・・や、歩きたくもねえな。」
がぷり、と瓜に噛みつくと、青臭い果汁があふれ出る。口を開くとだらだらと汁がこぼれ出そうになるため、しばらく二人は無言で瓜をむさぼり喰った。
先に食べ終わった晴太が、ごろりと寝転がる。
「ああ、旨かった。生き返る。おい、仁衛。瓜の礼に何か歌え。」
仁衛は驚き、名残を惜しんで口に含んでいた最後の一口を飲み下してしまう。
「・・・自分が?」
「ん。俺はいいの。懇ろだからね。お前の方が、声良いし。」
どうしたものか、と皮が剥けかけた鼻の頭を掻くが、正直に打ち明ける。
「・・・自分、笠を売る時の歌しか知らんので。」
「はぁ?」
予想以上に呆れた声をぶつけられ、仁衛は身を縮める。商売道具ともいえる歌について、不勉強であることに負い目はあったのだ。しかし晴太の返答は、逆に仁衛を呆れさせるものであった。
「お前、そんなんでどうやって女の子と遊ぶんだ?」
晴太は半身を起こし、無遠慮に仁衛の顔をじろじろと見回し、
「悪くはねぇと思うがなぁ・・・。」
と呟いた。思わず仁衛が顔を逸らすと、晴太は子どもをあやすかのように
「分かった、分かった。仕方ない。今回はお兄さんが手本を見せてやるよ。」
と笑いながら身を起こした。
「心だけでも、どうか―朝顔の、花の上なる露の、短か世に―」
儚い言葉とは正反対のやたら調子の良い歌声に、仁衛は驚いて晴太を振り返った。晴太はもう一度同じ謡を繰り返しながら、邸の奥を覗き込むかのように身を傾ける。すると、衣擦れの音と共に
「見ないでください、どうか、こちらを、人が気づきますの―」
とか細い歌声が微かに返ってきた。耳に捉えるのがやっとで、怒っているのか喜んでいるのか、さっぱり読み取れない声だ。声を辿った先、柱の陰に白いつま先が覗くのを見つけ、晴太の顔と声に笑みが増す。
「―思っていると、目が行く、あぁ、どうしようもねぇ―」
更に調子付いた晴太の歌声に、白い足はさっと隠れてしまう。駄目だったじゃないか、と言ってやろうとしたがそれよりも早く、晴太は
「よし、出ようか仁衛。いやぁ、日が落ちるのが待ち遠しいよ。全く、夏は困るね、夜が短くて。」
と満面の笑みを浮かべた。理解できないままに仁衛が押し黙っていると、
「分からんか?なに、教えてやるよ。あのな、女の子から歌が返ってきた時点で十分脈ありなんだよ。まぁ、こういうのは経験だからな。分からんくても仕方ない。でも、勉強はしておいた方がいいぞ?いざという時に気の利いた言葉が出ないと、女の子はすぐ拗ねるし、泣くし、逃げちまうからな。」
と頭をはたかれる。滅多に苛立つことの無い仁衛だったが、さすがにここまで馬鹿にされると腹が立つ。
「勉強とは何ですか。女遊びをしろと?」
いささか嫌みを込めて言い返すが、晴太は少しも気にすることなく、むしろ珍しく真剣な表情になった。
「いや、いきなり遊んでも銭の無駄だろ。それよりまず、耳を澄ませ。人の歌を聞いて真似てみろ。それと、考えろ。自分の感じたことを一つ一つ、言葉に直してみろ。ぼやーっとしてんじゃねえ。一つ一つ、だ。これが案外難しいんだが、歌に乗せてみるとすっと流れ出てくることがある。そこまで出来れば、歌も上達するし笠でも何でも売れるし、何より女の子と懇ろになれる。」
突然の熱弁に仁衛は戸惑ってしまうが、更に晴太は意地悪げな笑みを浮かべ、
「お前さ、何かあっても黙ってたらやり過ごせるとか思ってるだろ。そういう態度とか何とか、色々言いたいことはあるが、そろそろ俺は商売に戻るぜ。今夜は用事が出来たことだしな。ところで瓜代と授業代、もらってくからな。」
と仁衛の笠を一つ奪って被り、忙しい忙しいと呟きながら邸の庭を突っ切って出て行った。あまりの早業に驚き呆れ、言いたい放題言われて腹が立たぬことも無いが、いざ歌ってみると瓜のおかげか声が出やすくなっているため、まぁ良しとする。
―耳を澄ませ、考えろ、か。
晴太と邸の女性とのやり取りを思い出す。随分、男と女で歌い方が違うものだと思った。先日の少女の歌声も思い出す。誰に聞かせるつもりでも無かった自分の歌声に返ってきた、せせらぎのように軽やかな声。今思えば、遊女のあだっぽさのない、無邪気で涼やかな声だった。
―あの子は、どうして俺に歌いかけてきたのか。
―俺はどうしてこんなにも、あの子を、あの子の声を思い出すのか。
考えながら笠を売る仁衛の声はいつもより緩やかに、時に掠れながらも響き渡り、心なしか客も増えたようであった。
しかしどれほど考えてみても堂々巡りのまま答えは出ず、またも眠れぬ夜を迎えることとなった。
―でも、考えないようにしていても気になるんなら、いっそ考えている方がまだ良い。
ごろり、と寝返りを打つ。
―明日は、川へ行こう。避けるより、ぶつかっていった方がましなんだったら。
翌日、数枚売り残した笠を背負って仁衛は川へ向かった。市中のぬるい風が、涼やかな川風に押され、流されていく。
どじょうでも探しているのだろうか、子ども達が川に入って石をひっくり返し、しまいには水草を投げ合ってあそんでいる。誘惑耐えがたく、仁衛も思い切って川に足を浸す。最初の一歩は期待外れにぬるかったが、くるぶしを超え、足首の半ばまで浸る深さまで来ると、冷たい水がさらさらと流れ、心地よい。足の裏で小石が転がり、砂利が舞い上がり、脛に水草が絡みつく。そのままばしゃばしゃと川を下り、舟が増えてきたところで岸に上がり、ぐるりと見回す。
―この辺りだったか。
深く息を吸い、ゆっくりと吐き出してから、そろりと歌いはじめる。
「―笠はいかが、笠よ笠ぁ。」
程なく、一つの舟から乱れ髪の少女が顔を覗かせた。
「こんにちは、笠売りさん。」
久しぶりに会った少女は晴れやかな笑みを見せ、仁衛は内心、歯を見せて笑う女を見るのは初めてかもしれない、と思う。
「・・・っす。」
仁衛が軽く会釈をすると、少女は眉を下げ、
「折角来てもらったのに、やっぱりお金が足りないの。ごめんね。」
と謝った。笠一つ、そう高い物でもないとは思うが、少女の痩せこけた身体と着古されてぼろぼろになった衣からその苦しさは察せられる。仁衛が返事に困っていると、少女は乱れ髪を振り払い、
「ところでさ、どうして中々来てくれなかったの?忘れられたのかと思った。お金無かったけど。」
と詰め寄ってきた。仁衛はその勢いに押されかけたが、辛うじて
「・・・思い出した。だから、来た。」
とだけ答えると、少女は小さく溜息をつきそっぽを向くと、
「―思い出すとはねぇ。忘れてたのね・・・思い出さないよね、忘れてなければ―」
とひそやかに歌った。出会った時には十三、四くらいの子どもと見えたというのに、その横顔は十八の乙女のように大人び、かつ不安定であった。
―伝えねば、応えねば・・・
かすかに耳をくすぐるかのような少女の歌声に、仁衛の頭の中、胸、腹で生まれかけの言葉、感情の嵐が巻き起こる。しかし、その言葉を掴めないまま、川は流れ、風が吹き抜け、思いと時間だけが逃げ去って行く。焦り、逃し、諦めて黙りこくった仁衛の耳を、再び少女の声が叩く。
「―思ってること、簡単には言わない人こそ、思いも深い―とも言うよね。うん、お世辞や言い訳ばかりの男よりは良いよ、きっと。」
少女の灼けた肌が、弱まった陽射しに白くにじむ。卵色の産毛が一本一本、夕日に照らし出され、風に震える。髪も肌も乾いた少女の、瞳だけが黒く潤んでいた。が、その瞳は伏せられ、乾いた唇が小さく笑みを作った。
―逃してしまった、いや、俺が逃げたんだ・・・それでも。
仁衛は、すがるような思いで少女の顔をのぞき込む。手を伸ばしたが、髪に触れるか触れないかというところで思い切れず、結局空を掴んだ。
「また、来ます。笠を、売りに。」
「・・・うん。忘れないでね。」
少女は変わらず微笑んでいたが、その瞳は日の沈みきった水面のように暗くゆらぎ、仁衛には捉えることが出来なかった。
その夜も仁衛の頭には少女の面影がちらついて離れなかった。宵の薄暗がりに灯された火のような、不安定な笑顔。刻々と変わっていく少女の表情一つ一つを、仕草を、声を、鮮明に思い出す。しかしそれまでの夜とは違い、充足感と共に不思議と眠りに引き込まれていく自分に、仁衛は気がついた。
―なんか俺、ずっとあの子のことばっか考えてるな。ずっと、あの子の側にいるような気がしてくる・・・あの子、名前、何だ?何も知らない。聞きたい。
また、もっと、と思ったところで、仁衛は久々に深く、眠りに落ちた。
次の日、仁衛は笠を売っていてもどうにも落ち着かず、まだ日が高いうちに川へと向かった。橋の影に並んだ舟の中の一艘をちらと覗くと、ぼろにくるまった寝姿があった。探す少女のものよりは長く、しなやかな足が伸び出している。
―そうか、あの子もまだ寝ているか。
くっと動いた足に驚かされて身を退き、やがて気恥ずかしい思いに襲われた仁衛はそそくさと舟を離れ、市へと引き返し、やけくそとばかりに声を張り上げて笠を売りさばいた。
夕刻、仁衛が手土産にと市で求めた夏蜜柑を、少女は目を輝かせて喜び、その場でかじりついた。
「ありがとう、笠売りさん。」
「・・・仁衛、です。」
「へぇ。ありがとう、仁衛さん。」
「そっちは?・・・名前。」
仁衛なりに勇気を出した問いに、少女は夏蜜柑の種をぺっと吐き出しつまらなさそうに答えた。
「何とでも呼んでいいよ。お客さんによって、名前変えてるし。」
「俺は、」
客ではない、という言葉を、仁衛は飲み込む。自分ではそうではない、そう思いたくないのだが、少女の立場から見れば客として自分を望むのが当然である。
「・・・ひぐれ、でいいか?」
少女は返事代わりに悪戯っぽく微笑む。
「日暮れに会うから、日暮れ。夜が来る前には俺、帰るから。」
そう言って仁衛が川岸を指さすと、ひぐれと呼ばれた少女は
「それだと、あなたも私のひぐれね。」
と呟いた。仁衛が立ち上がると、ひぐれは手についた夏蜜柑の汁を舐め、仁衛を引き留めることもなく見送った。
幾度か仕事の後にひぐれの元に通い、二言三言交わす日が続いた頃、仁衛は市中で再び晴太に捕まった。
「仁衛、お前もついに、か。」
晴太のにやけ顔から背を反らせて少し退き離れ、仁衛は首を傾げる。
「何がです。」
「とぼけるなよ。お前、舟遊女の元に通ってんだって?まぁ、手頃だよな。」
「違う。」
仁衛は、思いがけず鋭くなった自分の声に驚いた。
「すみませんでした。その、俺が、舟遊女のとこに行っていることは本当です。ただ・・・客は俺じゃなくて向こうです。」
対して晴太は特に驚く様子もなく、
「まぁ、そういうことでも良いけどさ。気をつけろよ?あいつら河童みたいなもんでさ、慣れてない男はすぐに引き込まれちまうからさ。ずるずるーっと。」
と仁衛の肩を叩いた。
「・・・っす。」
遊べと言ってきたのはそっちだろう、とも思ったが、晴太が言うだけ言って、さっさと得意先の軒先に消えていってしまったため、仁衛も声を張り上げて商売に戻る。
―俺はもう、引き込まれているのだろうか。
そもそも、引き込まれるとは何なのだ。ひぐれのかぼそく、薄い身体、軽やかな声がいつも頭にこびりついているのは、そういうことなのだろうか。
――思い出すってことは、忘れてたのね・・・思い出さないよね、忘れてなければ。
思い出さぬ時など無い・・・忘れられるような女じゃない。客だけれども、客じゃない。ひぐれにも、そう思っていてほしい。
それにしても、噂になっているとは知らなかった。そうと分かると、いつもからかってくる晴太はともかく、他の知人や商売相手の目が気になって仕方が無い。ひぐれには会いたいが、何となく川へ向かう気が起きず、ぬるい風が吹く中帰途へついた。
その夜、ぬるい風は段々と強くなり、雨を伴いはじめた。草を湿らせるだけの雨は瞬く間に地を崩す豪雨となり、眠りの浅い仁衛が目を覚ます頃には、木が折れ塀が崩れる程になっていた。
―川は・・・ひぐれは。
川へ向かおうにも、真っ暗で何も見えない上、風が絶えず雨と雑多な物を叩きつけてくる。自分の寝泊まりしている小屋さえ傾き屋根が飛ばされそうになっている。それでも、と飛んできた板を拾って頭に載せ、川と思われる方へと進む。道はぬかるみ、足を取られる中、かすむ目を凝らす。暗くてよく分からないが、仁衛のようにどこかへ向かおうとする者もいれば、戸や屋根を必死で押さえ付け、修復しようとする者もいるようである。はっきりと聞き取れない怒声が、雨風に混じる。唐突に腕をつかまれたと思ったら、身体が傾ぎ、そこそこ造りが丈夫で損傷が少ない邸に引きずり込まれた。豪雨の中うろつく仁衛を放っておけず、この邸の人間が助けてくれたようだった。仁衛を引き摺ってきた男に説教されるが、耳に言葉が入ってこない。仁衛がうわごとのように
「・・・川、川は。」
と呟くと、男は眉をひそめ
「川はもう駄目だ。橋も流されかけている。絶対に近づくな、死にたくなけりゃ雨が治まるまでここにいろ。」
と仁衛を座らせて自分は邸外へと出て行った。
仁衛はしばらく呆然としていたが、やはり川が気になり立ち上がろうとする。だが、足腰が鉛を注がれたかのように重く、力が入らない。あまりの疲労にへたり込み、横になると、何か考える間もなく眠りに落ちた。
朝になるといくらか雨風は落ち着いており、仁衛は礼を言って邸を出た。川に向かうと既に見物人が集まって人垣が出来ている。いくらか背が高いことを良いことに頭の隙間からのぞき込むと、清流はどうどうと茶色く濁り、折れた木や飛んだ屋根、橋脚が大量に流されている。仁衛はその中に転覆した小舟を見つけた瞬間、髪を引き千切られたかのように首を仰け反らせた。強い陽射しが目を灼き、一瞬のうちに視界が暗転する。
・・・・・・ひぐれ。
その後、どう小屋まで帰ったか思い出せなかったが、やがて否応もなく邸や橋の修復のための人夫をしてかり出され、黙々と働くうちに市も元の活気を取り戻し、川は濁流を押し流して元の清流に戻った。そして驚いたことに、橋のもとには再び小舟が泊まりはじめたのであった。
しかし、仁衛がいくら探し、歌い歩いてもひぐれの姿は見つからなかった。ただ時折、ふとした瞬間に、ひぐれの面影が視界の端に映ることがあった。だがその影はいつも呆気なく、雑踏に、木陰に、水面に消えていく。それでも、と仁衛は消えた跡を闇雲に追い縋っていく。その影は、何かを連れているようにも見えた。それは俺だ。俺以外であってなるものか。当たり前だろ、ずっと俺はひぐれのことばっか考えてんだ。あれは俺だ。俺から離れ出てひぐれの側にいることを選んだ、俺の魂だ。
川辺に、経を唱える僧が立っていた。足下には、供養の花が積まれている。
仁衛はそこに、背負っていた笠を一つ置こうとして手を止めた。笠をしまい、代わりに笠一つ分の銭を置く。
―なぁ、ひぐれ・・・お前、どっちにいるんだ?彼岸か?それとも、まだこっち側にいるのか?こっち側にいるなら、いつか俺が見つけてやる。この銭は、あの日亡くなった誰かの供養でいい。もし、死んでしまっているなら・・・ひぐれ。その銭で、俺の元に来てくれ、笠を買いに。もう一度、君に会いたい。伝えられなかった思いが、返せなかった歌があるんだ。まだ、届くよな?
―君のことで頭がいっぱい、思い出さない時なんてない。夜も君のせいでまどろむことさえできないんだ。
俺の心は君の側にくっついて離れない、ずっと一緒にいるって言うのに、何が心残りで、こんなに恋しくてたまらないんだろうな。
大体室町ぐらいの京都鴨川のお話しです。時代考証ですが、一ミリも考慮しておりません。