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我らのクワイア  作者: 三浦 那々
9/9

09 音を楽しむ

 その日、天音は朝から落ち着かなかった。正しくは朝からというより前日の夜からだったかもしれない。そのせいで定期券や弁当を忘れ、教師に当てられて見当違いのことを言い、移動教室だったことをすっかり失念してた。もし気づいた友人が教室まで迎えに来てくれなければ、初の遅刻をするところだ。


 天音はどちらかと言えば落ち込みやすい質だ。普段から他人の反感を買うことも親や教師から叱られることもほとんど無いせいで、一日一度でも注意を受ければズルズルと引きずる。二度三度それが続いた日には胃が痛くなる。

 だが今日という日に限っては数多の失敗も叱責も天音を落ちこませることはない。いつもは時間なんて気にすらしないのに、担任のSHRがとてつもなく長く感じる。そして終わった瞬間、誰よりも早く天音は席を立った。


「松長。おい松長!」

 小走りに限りなく近い早歩きで廊下を歩いている最中、大きな声で呼び止められる。振り返るとつい数十秒前まで教卓にいた担任が追いかけてきていた。他にもなにかやらかしてしまっていたかとも思ったが、思い当たる節はない……気がする。自信はないが。


「私、何かしちゃってましたか?」

「いや、そうじゃなくてな。ほら、なんというか。……合唱部のことで」

 言われてからようやく、天音は彼が合唱部について調べた資料をくれたことを思い出した。


「神谷先生から聞いたんだ、合唱部が活動することになったって。松長がそのためにいろいろと努力をしたことも聞いた。悪かったな。簡単に『合唱団に入れ』みたいなこと言って。お前がそんなに合唱部に思い入れがあるって知らなかったんだ。って、これは言い訳だな。……とにかく、悪かった」

 正直、少なからず傷ついた。自分はこの学校で合唱がしたいのに、そのために入学したのに、それを理解してくれる人は校内に一人もいなくて。渡された分厚いクリアファイルの重さは、それと同じだけ心も重くした。けれど――



「いいえ。大丈夫です、先生」



 この人がこの人なりに自分のことを思ってくれたのは、紛れも無い事実なのだ。

 合唱部がおそらく長年にわたって形骸化していたことは、この朋輩高校にとっては当たり前な事実の一つだったのだろう。それはプールがないから水泳はできないとか、食堂がないから学食を食べることはできないとかと同じで、どうすることもできない環境因子の一つであるように彼らには思えたのかもしれない。


 そんなどうしようもない環境の中で、彼は彼が最善と思われる協力を生徒にしてくれたのだろう。自分はそれを「ここでの合唱はあきらめろ」と言われたように解釈したけれど、彼は生徒を害する気持ちなど一欠片もなかったのだ。今ならそう思える。その配慮を、今なら素直に受け取れる。

「先生が担任で、よかったです」

 言おうと思って言ったというより、口からこぼれた。担任が一瞬固まって、何かをかみ殺したような苦い顔でわしゃわしゃと髪をかき回してくる。

「ばか、あんまりそういうこと言うな。――がんばれよ」





 早く早くと心がはやる。走りたくなるのをおさえて、早足で渡り廊下を突っきった。見えない壁に阻まれることはもうない。重たい小合奏室の防音扉を、天音は迷うことなく開いた。

 なめらかなピアノが響く。聞き覚えのある曲調だが、校内で聞くようなクラシックではない。小中とあきるほどに歌った合唱曲『BELIEVE』だ。


 リズムに合わせてゆらゆら揺れるライオン頭。鍵盤の前に座っているのは合唱部顧問の姿。

 じんと胸が熱くなる。そわそわは消えてなくなって、かわりに奥からうずきが生まれる。曲の伴奏は盛り上がりながら徐々にサビに近づいていく。大きく息を吸い込んで口を開きかけた瞬間、ピアノが盛大に音を外した。


「あ、あれ。またここか」

 腰を浮かせて神谷が楽譜に顔を近づける。肩透かしを食らった天音が恨めしげな視線を向けていると、神谷がこちらを向いた。

「……もしかして、聞いてた?」

「はい、残念ながら」

「……い、いやあ、大学とか院にいた時の僕なら全く問題なく弾けたんだけどね。今じゃちょっと気分が乗ってスコアから目をはなした途端につっかえる」


 そんなものなんですか、と相づちを打ちながらピアノに置かれた楽譜を眺める。ト音記号にヘ音記号。重なり連なりながら続く音符。楽譜を読むだけならかろうじてできるが、どこをどうすればこの通りに手が動くのか皆目検討がつかない。いつかピアノを習っていた友人に興味本位でショパンの楽譜を見せてもらったが、あれを譜面通りに弾くには腕が四本以上は必要なのではないかと思ったものだ。



「それより松長さん、髪の毛すごいことになってるけどどうしたの?」

 え、と慌てて髪に触ってみる。言われたとおりボサボサだ。ピアノにぼんやりうつるシルエットでもあちこちに跳んでいる髪の毛が見てとれた。急ぐあまり担任に髪の毛をグシャグシャにされたことをすっかり忘れていた。


「うわー、なんか今日はライオン頭が二人おる」

 手櫛で整えていると愛が入ってきた。今日もイヤリングに膝上スカートだ。見とがめた神谷が口を開くよりも早く愛が先制する。

「センセ、ウチこれが戦闘服みたいなもんなんや。授業外やしええやろ?」

「戦闘服って……。君は何と戦うつもりなんだい。校内に地球外生命体はいないよ?」

「地球外生命体はおらんでも猛獣がおるし」


 ずびしと愛が神谷の頭部をさす。思わず天音が吹き出すと、今度は神谷のほうが恨めしげな視線で天音をみた。

「まあ、授業じゃないし、他の人の目もないからいいか」

 あきらめたように溜息をつく神谷にいたずらっぽく愛が笑ってみせる。

「わかってくれて嬉しいわあ」

「そのかわり、この部屋でだけね。ここから一歩でも出るときはきちんと校則通りの着方をすること」

「了解! ウチ真面目やから、言われたことはちゃんと守るし。センセ心配せんでええで!」

「真面目。真面目、ねえ……」



「さて」と神谷がピアノで和音を鳴らした。

「いつまでも話しててもしかたがない。とりあえず発声練習がわりに歌おうか」

 渡されたのはついさっきまで流れていた『BELIEVE』の楽譜だ。

「近藤さんも知ってるよね? これなら二人とも知ってると思ったんだけど」

「小学校でも中学校でも死ぬほど歌わされたで。歌詞全部はよー覚えとらんけど」

「歌詞は見ながらでいいよ。それは女性二部だからソプラノとアルトに分かれてるけど、今日はふたりともソプラノで。発声練習だしね、細かいことは気にせず楽しく歌おう」


 何回、何十回と聞いた前奏。澄んだ高音を聞けば、それだけで中学時代に引き戻されるような感覚があった。肩幅に足を開いて身体中の空気を静かに吐き出し、第一声のための空気で全身を満たした。最初の一音を二人は全く外すことなく発した。歌詞もリズムも旋律も、身体に染みついている。


 『BELIEVE』は歌詞も旋律もただひたすらに優しく、穏やかな歌だ。音階の急激なアップダウンがなく、なめらかに音が流れていく。小学生ですら歌わされるのだから、難易度は低い。だからこそ、些末事にとらわれることがない心が現れる。


 歌いながらとなりを見る。同じタイミングで愛も楽譜から顔を上げ、天音をみた。その顔は柔らかく笑んでいる。きっと自分もそうだろうと天音は思う。声があわさる。心が重なる。

 やっぱり、歌うのは楽しい。


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