08 仲間
「なー、あんたそれ何回読めば気がすむん?」
呆れたような愛の声音に、天音はびっちりと文字で埋まったルーズリーフから顔を上げた。
「テストやないんやし、別に覚えんでもそのまま読めばええやん。どうせそのカンペ持ってやるんやろ?」
「でも、何かしてないと落ちつかなくって……」
実際授業中も落ちついて話を聞いていられなくて、教科書の下に隠してずっと読んでいた。昨日の夜遅くまで考えて書き上げた原稿。その瞬間は完成した満足感もあって自画自賛できたが、時間がたてば不安が出てくる。読むたびに書きなおしたり書き加えたりしているせいであちこちに矢印や線が伸び、自分以外の人間には読読めないだろう。だというのに今になって最初のものが一番良かったような気もしてくる。
「にしても――」
こった体をほぐすように愛が手を上へ伸ばす。耳元で大きなイヤリングがゆれた。
「本当に来るつもりあんのかね。やらんねやったらウチもう帰りたいわ」
愛がそう言いたくなる気持ちもわかる。自分たちはSHRを終えてすぐ小合奏室に来たけれど、着いてからもう一五分近くたっている。いつ来るかいつ来るかと緊張しながら待っている方は気が気じゃない。
「まさかあのセンセ、うちらに言うだけ言うて音科の連中には何も言うてへんのちゃう?」
「それはない、と思うんだけど」
愛をなだめていると、目の端に扉が開くのが見えた。分厚い防音扉の向こうから『音』の校章をつけた生徒がぞろぞろと入ってくる。
最後に神谷が手を合わせて『遅れてごめんね』と口を動かした。半円形に並べられていたイスはあっという間に埋まり、座ることのできない数十人はその後ろに立っていた。天音が目の前のイスにも音楽科の生徒が腰を掛け、そのとなりには愛が足を組んで堂々と座っている。
「さて」
中央に歩み出た神谷が半円を見渡すように首を巡らせた。
「以前言ったとおり、新しく入部した松長さんから現在の合唱部の状態について提言があるそうです。じゃあさっそく、松長さん」
目で促されて足を動かす。その場にいる全員の視線が自分の一挙手一投足に向けられているのを、天音は肌で感じていた。神谷の隣に立つと、彼は天音にしか聞こえないような小さな声で「頑張って」とささやき、聴衆の一人となった。
眼前一八〇度、数十人が自分の言葉を待っていた。合唱部の部員全員を集めると言っていた神谷の言葉は本当だったのだろう。一学年一クラスしかない音楽科の人数を考えれば、このくらいになる。ということは、当たり前のように二年も三年もいるということだ。
考えれば考えるほど心臓がうるさく跳ねる。これ以上考えてはいけないと、ルーズリーフに目を落とした。小刻みに文字が震えている。ここで初めて自分の手が震えていることに気づいた。口の中がからからに乾いて、舌が動かない。
立ったままいつまでも口を開かない天音に、静かだった室内がざわめきだす。そのざわめきが更に天音の身体を固まらせた。全身から汗がにじみでる。
「静かにしなさい」
その声は大きくないのに室内によく通った。たった一言でざわめきは波のように引いていく。神谷が、じっとこちらを見つめていた。ただじっと、その人は天音の言葉を待っていた。
ゆっくりと、うるさい心臓が静まっていく。手の震えも止まった。ようやく動かなくなった文字の冒頭を少し見て、天音はそれを折りたたんだ。一度だけ静かに深呼吸をして、向けられる全ての視線を正面から受け止める。
「まずは、お忙しいのに集まっていただき、ありがとうございます。少しだけ、私の話を聞いてください。私は合唱がしたくてこの高校に入りました。この高校の合唱部の顧問が音楽科の神谷先生だったので、より質の高い合唱を教えてくれると思ったからです」
けれど、現実は違った。
「合唱部の部員はほとんどが音楽科の方だと聞きました。活動していない理由も……。でも、それだけで私は諦めたくないんです」
耳が聞こえなくなってもなお、音楽を諦めない人たちがいた。一緒に汗まみれになって飛び跳ねて、みんなが笑顔で帰っていった。
「私は普通科の人間です。みなさんのような専門的な音楽教育を受けたことは一度もありません。ピアノも少ししか弾けないし、合唱をやりたいだなんて大きな声では言ってますが、音楽を学んでる人からすれば私の歌なんて論外だと思います」
けれど。それでも。
「私は音楽が好きです。歌が好きです。合唱が好きです。その楽しさや幸せを自分の中にだけ持ち続けるんじゃなくて、たくさんの人と共有したい」
どうすれば説得できるかなんて、うだうだ悩むのがそもそもの間違いだったのだ。自分は自分でしかなくて、どれだけ背伸びをしたってそれ以上になんてなれやしない。だとしたらできることは一つだけだ。
「皆さんの力を貸してください。一緒に合唱部を活動させてください。お願いします」
ただ楽しいからやりたい。諦めたくない。根底になるものは音楽科も自分も変わらないはずだから。
天音が頭をあげると、すっと手が上がる。一瞬遅れてからあわてて「どうぞ」と促すと、一人の女生徒が立ち上がった。眼鏡越しの鋭い目と、しっかりと伸びた背中。天音は彼女に気圧されて息をのんだ。
「一年の佐伯日向です」と自己紹介したあと、彼女は前置きもなく斬りこむような鋭さで言葉を発した。
「それは強制でしょうか」
緊張と圧倒。一瞬天音の声がつまる。その一瞬を待たずして、彼女はよどみなく言葉を続けた。
「合唱部が仮に活動することになれば、そこに現在在籍している音楽科の我々は強制的に部活動に参加することになるのか、という意味で質問しました」
「強制だなんてそんなつもりは! ……一緒に活動してもらえたら嬉しいです。でも、それは強制という意味ではなくて、」
「では、活動に参加しないからといって退部させられたりすることはないという解釈でいいんですね?」
「もちろんです」
「なるほど、了解しました」
以上ですとつけ加えて彼女はあっさりと腰を下ろした。こわごわと周りを見渡す。静まりかえった室内に手が挙がる気配はない。
「じゃあ、決をとろうかな」
神谷が再び横に立つ。天音は手汗でべとつく手のひらをぎゅっと握った。
「合唱部を活動させてもかまわないという人は手を挙げて」
タイミングこそそろっていないものの、視界にいる生徒は全て挙手している。
「じゃあ」
ちらりと神谷がこちらを見る。天音はその視線を感じながらも目を向けはしなかった。彼の瞳が帯びているだろう感情の色を、正面から見るのがおそろしかった。
「合唱部として活動を希望するという人は、手を挙げて」
手を挙げる生徒は、一人もいなかった。しばらく待っていてもその気配すらない。天音と目が合うことを気まずく思っているのか、大半の生徒が視線をあらぬ方へと向けている。その中でただ一人、先ほど発言した佐伯日向だけが変わらない目で天音を見つめていた。
「みんなの意見はわかったよ。集まってくれてありがとう、解散」
集まるまではあんなに時間がかかったのに、出て行くのは早かった。けだるい授業から開放された直後の教室のように、話し声と笑い声が広がる。三分もしないうちに小合奏室は天音と愛、神谷の三人だけになっていた。
「……で? これは結局どうなるん、神谷センセ。音科のヒト、だーれもおらんくなったけど」
座ったまま微動だにしなかった愛が問う。
「音楽科の生徒は説得できた。合唱部として活動するには全く問題ない。ただ……」
最後まで言わなかったのは彼の優しさだろうか。けど今の自分はその優しさを素直に受け止めることができない。重苦しい空気と心を打ち払うように、天音は努めて大きく明るい声を出した。
「大丈夫です! 活動の許可はいただけましたし、普通科の人や商業科の人にあたっていけば今のメンバーは私一人でも――」
「ちょい待ち、誰が一人やって?」
え、と思わず漏れた声は、張り上げた声とはまったく正反対の情けなさだった。よっこいしょ、なんて似合わない掛け声をかけて愛が椅子から立ちあがった。
「あんた、やっぱりおもろいわ。めんどくさいけど、まあやみつきカレーは気になるし」
じわりじわりと、あたたかいものが広がっていく。
「僕はまたピアノ弾きはじめないとな。だいぶ指も固まっちゃったと思うけど、伴奏くらいならなんとかなるかもしれない」
「ちなみにセンセって何のセンセなん?」
「声楽だよオペラとかやってる人」
「へえ、ピアノのセンセやなくてもピアノ弾けるんや」
「音楽科の先生だからね。そして生活指導の先生じゃなくても先生なので、イヤリングは没収です」
ぽんぽんと愛と神谷の会話が弾む。その中で天音は恐る恐る声をあげた。
「あの、神谷先生」
神谷の視線が愛から天音にうつる。その隙に愛が素早くイヤリングをポケットにつっこんだ。
「教えて、いただけるんですか」
とくとくと心臓が期待の鼓動を刻む。
「うん。僕じゃあ力不足かもしれないけど」
照れたように神谷が頭をかいて、ライオンのたてがみがふわふわ揺れる。胸が一杯になって、押し出されるように涙がこぼれた。
「え、ちょ、どうしたの!!」
「センセ、大丈夫やで。別に何か痛くて泣いてるわけやないんやから」
焦る神谷とは対象的に、落ちつきはらった愛が呆れたように笑った。
決して完全な成功とは言えない。音楽科の生徒は誰一人協力してくれないままだし、合唱部なのに活動メンバーは二人だけだ。――けど、一人じゃない。