07 音楽とは
「天音ちゃん何頼む? どんなのが好き?」
口を開く暇も与えられないまま、リンとそのバンドメンバーにファミレスまで連れてこられてしまった。人見知りと緊張で脳は機能を停止している。彼女を含めた全員の名前をついさっき聞いたばかりなのに、かけらも覚えていない。
「おすすめはパスタだって言ってたよね。でもハンバーグも美味しそうじゃない? あ! 天音ちゃんデザートいちごフェアだって!」
「おいリン、食いすぎんなよ。ライブ前なんだからお前が食えんのはサラダくらいだろ」
「うっさいな。今天音ちゃんと話してるんだから口挟まないでよ」
ねー、とリンが同意を求めてくる。頷くのも否定するのもはばかられて、あいまいに笑うことしかできない。だが彼女はこちらの様子など気にしていないようで、彼と仲よさげな罵詈雑言を交わしている。そのやりとりも振る舞いもまるで同世代の女子高生のようだ。芯の通った力強い歌声のイメージとあまりにもかけ離れていて、まさか人違いだったろうかと疑いがよぎる。
「あの」
勇気を持って出した声は情けないほど小さくてかすれていた。
「前に駅前のイベントでお見かけして……。あの、私の勘違いじゃなければ、なんですけど」
「ああ、出てた出てた。もしかして聞いてくれてたの?」
何度も頷く。あの時の感動が口をついた。
「私、私、すごく感動して。リンさんが歌ってるのってすごくかっこよくて、楽しそうで、歌ももちろんすごく上手で。でもそれだけじゃなくて――」
あの衝撃をなんと言い表わせばいいのかわからない。それでも伝えなければと何とか舌を回した。
「なんていうか……。自分を、見つけられたんです。あの時リンさんたちの歌を聞かなかったら、きっととても大事なものを諦めていたと思います」
諦めて、諦めたつもりで引きずって、胸に消せない重いものを抱えて三年間を過ごしていた。
リンだけでなく、バンドメンバーまで食事の手を止めて天音の言葉を聞いていた。騒がしいほど賑やかだったテーブルの静けさに遅れて気がつく。
顔が熱い。初対面でこんなに熱く語ってしまうなんて。
穴があったら入りたいと身を縮めていると、唐突にがばりと横から抱きつかれ、リンの頭部が狙ったようにあごにあたった。天音の口からカエルの潰れたような声が漏れる。だがリンはそれに気づいていないのか、気づいていて気にかけていないのか、強い力でぎゅうぎゅうと抱きしめてきた。
「うわーどーしよー。もう今日すごく頑張る。お姉さんめっちゃいい音鳴らす」
「誰がお姉さんだ。お前つい最近みそ――」
バンドメンバーの声がぶつりと切れる。もこもこの可愛らしいブーツでリンが彼の足を踏みつける瞬間を、天音ははっきり見てしまった。
「ところで、なんですけど……」
聞いていいものかと迷いながらも確認せずにはいられなかった。
「お父さんとはいつからその、ご関係が……」
もしも父と彼女がそういう関係であるのなら、今後の自分の言動を考えなければならない。
「大丈夫だよ天音ちゃん。尾上さんとリンはプロデューサーとアーティストみたいな関係だから」
靴越しに自身の足をさすりながらのフォローがはいる。
「え、それ以外どういう関係がありえるの?」
「……お前、本当に三十年も生きてると思えないよな。察しの悪さとかそういう点で」
「やだー。あたし永遠の一七歳だからさ」
「人生の重みがねえって言ってんだよ」
にぎやかな掛け合いを見ながら、天音はどこかほっとしている自分に驚いた。父がどこでなにをしていようと父の勝手なはずなのに、なぜ安堵しなければいけないのか。
「お父さん、そんなことやってたんですね」
「あらま知らなかった? 尾上さんがいなかったらさ、きっとこのあたりのアマチュアバンドは三分の一くらいなくなってたと思うよ」
三分の一。――それはもしかしたら、少なくはない数なのではないだろうか。
「信じられない?」
「信じられないというか」
想像ができない。そもそも父が音楽をやっていたということさえつい最近まで知らなかったのだから。
「それは、リンさんたちも?」
「もちろん」
父の存在。それは自分にとって相変わらずあやふやなもので。ぼんやりとした輪郭しか見えない。けれど目の前の人たちはきっと、自分より遥かにくっきりとした父の姿が見えているのだろう。そして娘である自分より間違いなく、尾上浩史という人間を知っている。
不思議なものだ。家族は家族であるという事実だけでは家族になれない。今段階で自分と父を表す関係が家族であるのかというところは疑問だけれど。
「天音ちゃんは、お父さんのことどんな人だと思う?」
メロンソーダのストローに口をつけたのは、考える時間が必要だと思ったからだ。どこまで家庭の事情をリンが知っているのかもよくわからない。けれど考えた結果出たのは、考える必要もなかった答えだった。
「……わかりません。私、あの人のこと全然知らないから」
今までその事実を疑問に思うこともなく、もちろん悩むこともなかった。けれど父を臆面もなく尊敬していると態度に出せるような人達の前でそう言うのはなぜか恥ずかしく、罪悪感にも似たものを感じる。
「じゃあ今日一つお父さんのことがわかるね。尾上さんがすごく大切にしてるイベントだから」
「あの、今日って何をするんですか? 私、全然教えてもらえてなくて」
ライブをするのだろうということはわかる。けれど父がわざわざ隠してまで連れてきた理由がよくわからない。
「何も言われなかったの?」
リンの問いに肯定すれば、その笑みがなにかたくらんでいるような含みのあるものに変わった。
「じゃあ何も言えないなあ。お楽しみに、ってことだね」
ライブハウスに戻るとリンたちはすぐにリハーサルに入ってしまい、「もうすぐはじまるから、ちょっと待っててね」と奥へ引っ込んでいってしまった。父の姿も見当たらない。
入口近くの壁に背中を預け、薄く流れる音楽をぼうっと聞く。いつも校内で羨みとほんの少しの反感を持ちながら聞くクラシックではない。そんな音楽を久しく聞いていないことに今さら気づく。
しばらくすると観客らしき人たちがチラホラと入りはじめた。最初の数人が入ってきたかと思うと、間をおかずに次から次へと人が入り、ほんの数分で広くもない会場は埋まってしまう。
邪魔にならないように移動しているうち、いつの間にか人の壁でステージが見えなくなってしまった。しっかり聞こえるBGMはこれからリンたちが演奏する曲だろう。駅前で聞いたものとは違う曲ばかりだ。できればリンが見える場所で聴きたいけれど、人混みを割って前に行くのも申し訳ない。残念ではあるけれど、しかたがない。音が聞こえれば十分だろう。会えただけでも幸運なのだから。
そうやって納得しかけてふと、奇妙な感覚にとらわれた。この会場の何かが不自然で引っかかる。その不自然の理由に、天音はそう間をおかずに気がついた。BGMがはっきり聞こえすぎるのだ。ファミレスやファストフード店で流れているBGMが周囲の音で何の曲かもわからなくなるのはよくあることだ。だというのに、混みあったこの室内でそう大きくもないBGMの低音まではっきりと聞き取ることができる。いったいなぜなのか。
考え込んでいる最中に肩を叩かれ、天音は文字通り飛び上がった。バクバクする心臓をおさえながら首を巡らせると、一人の女性が。白のTシャツにホットパンツ。まだ外は肌寒いだろうに、まるでこれからスポーツでもしに行くかのようなラフさだ。他の観客もカジュアルな服装だけれど、その中でも一歩踏み出している。肩からさげたタオルがあるからなおのことそう思うのかもしれない。
「ごめんごめん、びっくりさせちゃった? あ、わかる? 私の言ってること」
困惑しながら頷く。こんなに静かなのに聞こえないわけがない。
「ならよかった。あなたもっと前にいかなくていいの? まだ空いてそうなのに」
「いえ、私は――」
人見知りと緊張とで声が小さくなり、視線が下る。
「ああちょっと、ごめん、顔さげないで。あともうちょっとはっきり言ってもらっていい? 何話してるか全然わかんなくなっちゃう。私これだからさ」
彼女が指した耳には小さいながらも存在感を放つ機械――補聴器が。
珍しげにしげしげと見てしまった自分に気づいてあわてて目をそらす。その反応に彼女は天音が場馴れしていないことを悟ったようだった。
「今日なんのイベントか知らないの? ほら、まわり見てみなよ」
よくよく見回して天音はようやく違和感の正体に気づいた。声に出して会話をしている人が圧倒的に少ないから、ここまでBGMが聞こえるのだ。ちらちら見え隠れする身振りは、言葉通りのボディランゲージなのだろう。
「でも、」
彼女は普通に喋っている。全く問題なく天音と意思の疎通が取れているのだ。
「聾唖じゃないの私。難聴のほう。前までは普通に聞こえてたから、いちおう喋れるよ。逆にちょっと手話は苦手。あ、でも大丈夫? 声、大きすぎたり小さすぎたりしない?」
「全然大丈夫です。普通の人みたいに……」
言ってからしまったと思った。くすりと彼女が笑う。
「気にしないで。聞こえなくなってからしばらくは、いろんな人の言葉尻とらえて勝手に落ちこんだり悲しんだり怒ったりしてたけど、今になってそんなことでゆらゆらしないわ。この場所じゃ特に、ね。そんなことより」
がしりと腕を掴まれる。
「前行くわよ前。見た感じ今日は健常者も多いみたいだし、これならステージ前はまだあいてるわ。こんな後ろにいたんじゃ、リンの唇すら読めないじゃない」
「いえでも、私はそんなに前には――」
すでに天音の腕を引いて歩き出した彼女に天音の言葉は聞こえていない――いや、見えていなかった。名前も知らない初対面の彼女は「通りまーす!」とあらん限りの声を張り上げ、人の間をその肩を叩きながら縫っていく。着いていくしか仕方のない天音は、人にぶつかるたびに「すいません!」と声を上げた。しばるくすると人の壁で薄暗かった視界が急に開けて、眩しいほどの光が目に飛び込んだ。ステージ中央、ど真ん前だ。
「ここは流石にダメなんじゃ……」
つぶやいた声はこちらを向いていない彼女には全く届かない。つかまれていた腕を引いて彼女の顔をこちらに向けた。
「私後ろに戻ります!」
焦って早口になったせいか首を傾げられてしまう。早くしないとはじまる。そうなれば後ろに戻るのは困難だろう。もう一度はっきりと唇を動かせばどうにか通じたようだったけれど、それでも彼女はつかんだ腕を離してはくれなかった。
「私ね、昔から音楽が好きだった。歌手になるのが夢でね。耳が聞こえなくなったのは中学生のとき。髄膜炎で死にそうになって、なんとか助かったと思ったら何も聞こえなくなってた。何回も聞き直すのが申し訳なくて、適当に笑って相槌打ってたらいつの間にかトラブルになっててね。聞こえてた頃の友達は半分くらいいなくなった。引きこもってた私を友達が無理やり連れてきたのが、このイベントの第一回だった。救われたわ。本当に」
言葉の途中、ふっと明かりが消える。
「あなたたち健常者にも知ってほしいの。私たちにだって音楽を楽しめるんだって」
ステージに暴力的な光量のライトがあたる。一瞬白くなった視界に思わず目をつむった。恐る恐る目を開けると、ステージ上にリンたちが立っている。
甲高い声と野太い声が合わさって喚声になる。
その音は唐突にはじまった。体の内側にまで響く激しいドラム。それにギター、ベースが続く。一番遅れて発せられたはずのリンの声はいつの間にか前に出て、ぐんぐんと音を引っ張りはじめた。そして前に行くボーカルの声を引きずり落とそうとするように楽器たちの激しさは増していく。
音の熱が増せば、それに煽られるように会場のボルテージも上がっていく。リンが小さな拳を突き上げるたび、天音の周囲から声が上がる。肩越しに後ろを振り返れば、暗闇の中に幾つものサイリウムが揺れていた。
ぞくりと、全身に鳥肌がたった。前後左右から発せられるエネルギーの大きさへの、恐怖にも似た何かが足元から這い上がってくる。唇でしゃべろうが手でしゃべろうが、耳で聴こうが目で聴こうが関係ない。音を楽しもうというただの集団が、ここにはいるだけだ。
まだ足りないとでも言うようにリンが観客を煽る。周囲の熱に圧され、気づけば天音も同じように声を張り上げていた。はじまる前には想像もしなかった熱気。服が肌にじっとりとはりつく。不快なはずのその感覚が気にならないほど、いつの間にか夢中になっていた。
ステージ上でギターを掻き鳴らし、大きく口を開けて歌う小さな人。彼女の内のどこに潜んでいたのか検討もつかない膨大な熱量が、会場ごと観客を熱狂させていた。
興奮冷めやらぬ中、客席の照明がつけられる。ステージには楽器だけが残され、もうそこにメンバーの姿はない。イベント終了のアナウンスが流れ始めて天音はようやく自身の状態に気づいた。
ほとんど上げっぱなしだった腕はわずかにしびれて重い。普段出さないような声量で叫んだ喉は少し痛むし、身体はマラソンを走ったあとのように汗みずくだ。
「楽しかった?」
自分以上に汗まみれの彼女の問いに強く頷く。彼女の髪は幾筋も頬にはりつき、今も首元へ汗が新たに流れていた。
「私も楽しかった!」
にっと歯を見せて笑う。その笑顔は幼い少女のようだった。
「ありがとう」
帰りの車内。助手席で流れる景色を見ながら父に伝えた。湿気っていた心が乾いて、胸によどんでいた重いものも消えている。
本当はしっかりと目を見て言わなければけないのだろうけれど、それができるほど今の自分はまだ、いろんなことを割り切れていない。それでもこれだけは伝えなければいけないと思った。
「どういたしまして」
窓に薄く写る父の横顔は、少しだけ笑んでいた。