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我らのクワイア  作者: 三浦 那々
6/9

06 父

 こつこつとシャープペンの先で机を叩く。目の前のルーズリーフは全く埋まっていないくせに、なんども書いては消しを繰り返したせいでよれてしまっている。手ぶらで大勢の前に立つ勇気なんてない。せめてカンニング用のペーパーでも作らなければと紙に向きあってはいるけれど、作業は全く進んでいなかった。

 合唱部を活動させたいという自分の考えを認めてもらう。おそらく幼いころから音楽を学んできた音楽科の生徒たちに、一度もまともに学んだことのない自分が。チャンスをもらえたと無邪気に喜ぶことができたのはせいぜい数時間の事だった。一度冷静になってしまえば、次は不安のほうが大きくなってくる。

 もし失敗すれば、道が途絶えるのだ。そして途絶えれば、次に繋ぐのはきっと容易ではない。そのことに気づいた時、天音の背に冷たいものが落ちた。

 くるくるくるくる。思考はどこにも引っかからずに空回りを続ける。もう自分でも何を考えているのかわからなくなりはじめて、天音はペンを置いた。

 気分転換にコンビニにでも行ってこよう。甘いものを食べたら少しは頭も働くかもしれない。

 財布を出して、中にいくら入っているか確認する。小銭入れを開けると、硬貨とこすれあって薄汚れた名刺が目に入った。



「ごめんよ、遅くなって。今日も天音のほうが早かったな」

 いつかと同じ金時計前。以前より少し深い時間帯の待ち合わせ場所に、父は走ってやってきた。見れば額に汗を浮かべている。

「大丈夫。一回家に帰ったから」

 名刺を見て連絡することを決めるまでに、まるっと一晩かかった。誘いを断った手前かけにくいというのもあったし、どんな顔をしてあったらいいのかわからないというのもあった。それでも連絡をしたのは父が音楽をしているというあの話がどこか引っかかったからだ。

「それで、相談ていうのは何だったかな」

 いくつめかの皿が運ばれてきた時、控えめに聞かれた。来たこともない個室の料理屋に連れてこられ、だいぶ緊張していたせいで反応が一瞬遅れる。その一瞬をどう受け取ったのか、父は慌てたように言葉を重ねた。

「あ、いいんだよ無理に話さなくても。父さんは天音とこうしてご飯を一緒に食べられるだけで嬉しいし」

「いや、話したくないわけじゃなくて……」

 何から言えばいいだろうと考えて箸を置く。背に腹は代えられないと電話したはいいものの、やはり気まずくて高そうな食事の味すらよくわからない。だがこちらから呼んでおいて何も話さないというのは流石にだめだろう。

「実は――」


「……その期限まで、後どれくらいあるんだい?」

 話し終えると、父は考えを巡らせるように数秒黙りこんでから口を開いた。

「今日も入れると、あと六日。来週の月曜日だから」

「そう、か。……じゃあ天音、土曜日はなにか予定があるかい? もしないなら父さんにつきあってくれないか」

  週末。ゆっくりと考えていられる時間はそれが最後だ。明けてしまえばもうあとはない。思わず眉間にしわがよる。父とふたりで出かけるというのは正直抵抗があった。

「でも、」

「もしかしたら、天音が出す答えのきっかけにはなるかもしれないよ」

 そこまで言われてしまえば断りきれない。迷いながらも、天音はうなずいた。




 マンションの駐車場。いつも母の軽自動車が止まっているそこには、今日は黒のワゴン車が止まっている。春の雨がそぼ降っているせいで昼時だというのにあたりは薄暗い。

「隣に乗ってくれるかい? 後ろは荷物がいっぱいでね」

 後部座席に乗りこもうとすると運転席から声がかかった。スモークがはられた窓をのぞき込めば、確かに大量の荷物が見える。隣かと少し憂鬱な気分で助手席に座った。

「どこにいくの?」

「ついたらわかるよ」

 そう、と小さく相槌をうって流れる景色に目を移す。質問の答えとも言えないその言葉に更に問いを重ねることはしなかった。陽のささない街は灰色で、見ているとため息がもれた。心は重い。どうすれば音楽科の生徒を説得できるか。焦りで無理やりルーズリーフを埋めてはみたものの、全くしっくりきていなかった。自分が納得できていない言葉で他人を納得させることなんてできるはずがない。

 窓に薄く写る自分。その目は自信なさげに揺れていて。天音はそっと顔を伏せた。



 車が震えてエンジンが止まる。妙に狭い、猫の額のような駐車場だ。「着いたよ」と言われて傘をさしながら車から出る。雨だというのに賑やかな商店街をすぎ、路地をいくつかまがる。まがるたびに道幅は狭くなっていった。父の後ろをついて歩きながら、緊張が少しずつ不安に変わる。狭い路地は両側のビルに挟まれて影になり、人通りがないせいで怪しげな雰囲気さえする。

 一体どこに行くつもりなのか。こらえきれずに声をかけようとしたとき、目の前の人は止まった。雨がぎりぎり防げるかどうかのビルの軒先で傘をたたみだす。


「……ついた、の?」

 わずかに声がかすれてしまったのは、否定されることを望んでいたからだ。だがそんな淡い期待は、頬の緩んだ父の「そうだよ」という言葉にあっさりと打ち消された。

 目前には地下へ続く狭い階段がぽっかりと口を開けていた。階段を挟む壁にはその地が見えないほどの量のポスターやチラシが貼りつけられている。ライトもなにもない階段は奥に行くにつれ暗くなり、自分で馬鹿らしいと思いながらもまるで一度降りてしまえば戻れなさそうな何かを感じてしまう。


「どうしたんだい天音。おいで」

 傘をさしたまま路地に突っ立っている自分に父が不思議そうに声をかける。不安と怯えをなんとか飲み込み、意を決して階段を降りた。扉を開けるとぼんやりと明かりがついていて少し安心する。小さな部屋のようなその先にはもうひとつ更に扉が見えた。薄い音が耳に入ってくる。

「ああ、もうリハやってるね」

 言いながら父がふたつ目の扉に手をかける。分厚く重たげなその扉に隙間があいた瞬間、音が洪水のように全身を包んだ。その衝撃に一瞬固まり、直後に聞こえた歌声に耳を疑った。忘れるはずのない、記憶にこびりついている声。



 一歩足を踏み入れれば、そこはもう彼女たちの世界だった。関係者らしい人間がポツポツといる中、ステージ上の彼女は間近で見ると幼子のように小さく見える。けれど発せられる声は圧倒的な存在感を放ち、しっかりと地に足をつけていないとジリジリと後ずさってしまいそうだった。

 曲が終わり、それと同時に天音を押していたオーラーが収縮していく。

「うん、いいね。前よりずっといいよリン」

 今まで聞いたことのないよく通る声を父がとばす。彼女らの視線が一斉にこちらへ向いた。「少し待っていて」と言った父が、大股でステージに歩いて行く。

 ぽつんと取り残された天音はよくわからない単語を駆使して彼らと会話をしている父を眺めていることしかできなかった。父の言葉を聞く彼らの瞳は真剣だ。自分のわずかに知っている父が急速に遠のいていく。そこにいるのは父であって父でない、尾上浩史という一人の人間だ。

「天音」

 突然呼ばれて肩が跳ねる。気づかないうちにぼうっとしていた。

「お腹すいただろう。リンたちとご飯を食べておいで。父さんは用事があるからいけないんだけど……大丈夫かい?」

 え、ともれそうになった声を押し殺す。ここまで連れてきて急に初対面の人間と食事しろといえる父の神経が信じられない。そんな自分の本音を飲み込み、かわりに一度首を縦に振った。


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