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我らのクワイア  作者: 三浦 那々
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05 新入部員

 翌日、愛は時間通りきちんと待ち合わせ場所に現れた。心の保険としてすっぽかされることも考慮に入れていた天音は、そのことに少し驚く。そして現れた彼女を、上から下までまじまじと眺めてしまう。

「うちのかっこ、どっかおかしいとこある?」

 どこかというか、おかしくないところを探すほうが難しい。相変わらず耳元には大きなイヤリングが揺れているし、極限まで折られたのではないかと思うほどのスカートからは白い太ももが丸見えだ。ブラウスの胸元も大きく開けられている。

「今日は先生に何も言われなかったんですか?」

「このかっこ? 見つかるとうるさいし、授業中はちゃんとしとるからな。帰るまでに見つからなければオールオッケーや」

 胸を張ってのサムアップ。一応これから会う人も教師なのだが。けれど彼女はけろっと「戦うときは戦闘服やろ」と当たり前のように言い放ってみせた。

 渡り廊下を歩いて、間にある見えない壁を通り抜ける。レッスン室から漏れ出る音楽が相変わらず空気を満たしていた。音楽科教員室に近づくにつれ、鼓動は少しずつ早くなっていく。

 いつかと同じく三度のノックをして返事を待つ――つもりだった。

「しっつれいしまーす」

 勢い良く開けられた引き戸が跳ね返り、天音の目前に半分ほど戻ってくる。衝撃に動けずにいる天音をよそに、愛は堂々と中へ入っていった。

「あれ、誰もおらんやん」

 拍子抜けしたような声。おいでおいでというように手招きをされる。それにつられるように恐る恐る入ると、そう広くもない室内はぱっと見ただけで無人だということがわかった。

 安堵の息がもれ、身体にこもっていた力が一気に抜けた。自分で啖呵を切ったくせに、いざ神谷に会う段になってしまうと腰が引けてしまうのが情けない。

「とりあえず、入部届だけ置いていきましょうか」

 本当なら出直したほうがいいのだろう。けれどできればこの部屋にいつまでも居たくはなかった。

「えー」となぜか渋る手から入部届を受け取る。置こうとした神谷の机の上には、音楽科の生徒のものと思われる手書きの楽譜が束になって積み重なっている。赤ペンで細かく書き込みのあるそれを見るとぐっと胸が押されて、入部届を握りしめた。

「あ」

 ぽろりと愛が背後で声を漏らす。振り返って天音は再び固まることになった。

 開け放ったまま閉めるのを忘れていた扉。そこに困惑した顔のベートーベンが立っていた。

「センセ、音楽科の人?」

 天音の様子も神谷の様子も全く気にかけていないように愛が声をかける。

「え、あ、うん。そうだけど――」

「ちょーどよかったわあ。せっかく気合入れて来てんのに、だーれもおらへんのやもん。はいこれ」

 ぴっと天音の指から入部届を抜き取り、神谷に差し出す。

「入部届。神谷センセっていう人に渡してくれへん?」

「愛、ちゃん」

「ん?」と愛が首を傾げた。

「その人が神谷先生、です」

 なんとか絞り出した声は硬直の影響でかすれていた。愛の視線が神谷と天音の間を何度か往復する。

「なんやあ、めっさええタイミングやん」

 流れる空気と正反対のハイトーン。どこか嬉しげなその声はよく響いた。

「新入部員、一人増えましたよセンセ」

 神谷は愛から入部届を手渡され、薄く開いた口で「商業科、なんだね」とつぶやいた。

「そ、商業科。その子、本気で活動させたいみたいやで、合唱部」

 神谷の視線がこちらに移る。その視線をそらしそうになるのを、天音はぐっとこらえた。

 なぜ神谷と会いたくなかったか。どんな顔をしたらいいかわからないというのも確かにあった。けど、本当はそれだけじゃない。同じように断られるのが怖かったんだ。これ以上、音楽に関わっている人から自分を否定されるのが恐ろしかったんだ。

 でも、逃げちゃいけないんだ。怖いことや恐ろしいことから。

言われたことに傷つくかもしれない。また泣いてしまうかもしれない。それは辛くて苦しいことだけれど、全部受け止めなきゃいけないんだ。傷つきながら、泣きながら、ボロボロになりながら。それでも前に進むんだ。きっとそれを『覚悟』っていうんだろう。

 逃げるように引けていた腰をぐっと伸ばす。顎を引いて、しっかりとその人の眼を見た。

「歌いたいんです、ここで。合唱を教えて下さい」

 深く頭を下げる。沈黙の数拍。不思議と、心は落ちついていた。

「……うん、わかったよ」

 降ってきた声に顔を上げる。その声は柔らかだったけど、目は少し張りつめた色をしていた。

「でもやっぱり、音楽科の生徒が部員の大半なのは事実だから。だから、君が説得してほしい」

「……説得?」

「そう。前に一度、音楽科の何人かには声をかけてくれたみたいだけれど、あまり人が捕まらなかっただろう?」

 鉢合わせたあの時、なぜ天音がそこにいたのか知っているようだった。

「音楽科の生徒はすぐにレッスン室に入るか帰るかのどっちかだからね。だから放課後に短い時間だけだけれど、僕が生徒を集めておくよ。だからそこで、君が直接部員に話してごらん」

「もしそこで許可がもらえたら、教えてくれるんですか?」

 神谷が頷く。

「一週間後の放課後。小合奏室に部員を集めておくよ。――頑張って」


 ふらふらと教員室を出た途端に肩を強く叩かれ、天音は危うく転びそうになった。

「やったやん。一歩前進ってことやろ?」

「うん。……そうだよね」

 説得。条件付きではあるが、もし成功すれば合唱部として活動ができる。

 ようやく現実感が湧いてきて、じわじわと喜びが広がってきた。――そうだ。チャンスをもらえたんだ。

「じゃ、じゃあ今日もマック行こう! どうやって説得するか考えないと」

「あー、うちはパス」

 予想外の言葉だった。

「あ、え? だって合唱部に――」

「うん、入った。でもまだ味わっとらへんからなー、やみつきカレー」

 冷水をあびせられた気分になった。徐々に視線が下る。愛とは正反対の膝丈のスカートを、ぎゅっと握りしめた。

「だから、早くやみつきにさせてや」

「よっこいしょ」と顔に似合わない掛け声をかけて愛が立ち上がった。

「一回味わったら逃げられへんのやろ? 正直ちょっとだけキョーミあんねん。そんなことになったことないからな」

 歯を見せて笑う彼女はなぜかとても大きく見えて。突き放されたようなのに、一人にされた気は不思議としない。

「わかりました。頑張ります」

「おう、頑張ってや! じゃあうちはセンセに見つかる前に――」

 愛が言い終える前に、がらりと扉の開く音がした。

「あ、そういえば君。えーと、近藤さん?」

 教員室から身体を半分出した神谷が、手元の入部届を見ながら愛を呼ぶ。

「イヤリング没収ね。あと、スカートの丈も戻してから帰ってください」

 うへーと舌を出して心底嫌そうな顔をした愛は、それでも素直に神谷へイヤリングを渡した。



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