04 仲間?
誘いの言葉は丁重に、見方によれば他人行儀にも見える丁寧さで断った。少し肩を落とした父親を見て悪いような気はしたけれど、発した言葉を否定する気にはならない。何かあったらいつでも連絡してくれと渡された名刺は、見ることもなく別れてすぐ財布にしまった。
誰も彼もどうして別の道を歩かせようとするのか。そうじゃないと、なぜわかってくれないのか。
天音はベッドに転がって生徒手帳を開いていた。校則にさいているページは半分ほど。大半はスカート丈やアルバイトなどに関する生徒指導についてだ。少ない『部活』の項目を、天音は何度も読み返していた。
一、当校の生徒は普通科、商業科、音楽科にかかわらず、健全な心身を育むため一・二年生の部活動への所属を義務付ける
二、同好会、部活ともに一人以上の顧問が必要であり、部として認められるには一〇人以上の生徒の所属が求められる。所属人数が九人以下の場合は同好会としての活動となる。
たった二項。一ページにも満たないその二つを一〇回ほど読んだところで、天音は手帳を閉じた。
『健全な心身を育む』という目的が今の朋輩高校に果たせているかどうかはおいておくとして、人数で部活と同好会を区別するのなら紛れも無く合唱部は部活だろう。なにせ音楽科のほとんどの生徒が合唱部に所属しているというのだから。音楽科は一学年に一クラスしかないけれど、一・二年生だけに絞ったとしても六〇人弱は部員がいる計算になる。部活自体が活動していないのだから、数がいても意味が無いのだけれど。
「ごめんね、私たちちょっと忙しいから」
彼女は少し戸惑ったような、それでいて迷惑そうな感情を隠し切れていない笑みを浮かべ、数人の女子を引き連れて天音の前を去った。背後で聞こえるヒソヒソとした話し声。それが自分に関することだろうとは容易に想像がついた。
どうすれば合唱部を活動させることができるか。数日考えてはみたけれど、状況を打破できるような一発逆転の策なんてそう簡単に浮かびはしない。だからひとまずあたって砕けることを前提に、音楽科の生徒に声をかけることにしてみた。
その結果、本当に見事に砕け散ったわけなのだけれど。
話を聞いたうえで「忙しい」と言われるのはまだいい。何人かはこちらが本題を切り出すより早く「普通科の生徒?」と怪訝そうな顔をされ、そのうちの何人かには「あなた達の校舎は向こうでしょ?」と半笑いで言われた。
レッスン室前の廊下には、まだいろいろな楽器の音が響いている。もう少しだけ粘ってみようかと思ったところに、後ろから足音がした。生徒かと振り返れば、そこにいたのはあの神谷守だった。
視線が合って、神谷が足を止める。天音の息も一瞬止まる。その一瞬で色々なことを考えたけれど、なにも言葉にならなくて。ただ一礼して走り去ってしまった。そうしてしまってから流石に失礼だったろうかと少し後悔したが、もう逃げてしまったのだからしかたがない。
「どうすればいいのかな」
誰もいない廊下でぽつりと呟く。
胸の奥はこんなにこごっているのに、晴れ渡った春の夕空は赤く透き通って。窓を開ければ運動部のかけ声が遠くに響いていた。ほんの少し冷気をはらんだ春風は、少し土の匂いがして。静かに吸い込んだ空気は、歌となって唇からこぼれた。
ゆうやけこやけでひがくれて
やまのおてらのかねがなる
おててつないでみなかえろ
からすといっしょにかえりましょう
「あんた、歌うまいなあ」
誰もいないと思っていたところに、耳慣れないやわらかな語調で話しかけられて驚いた。
「音科――やないな。普通科やん」
長いまつげに縁取られた大きな目をパシパシと何度も瞬かせながら、彼女は意外そうな顔をした。
太ももまであらわになった短いスカート。イヤリングなのかピアスなのか、耳元には大きな蝶が揺れている。
「おい近藤! さっき注意したばかりだろう!」
男性の野太い怒声に肩が跳ねる。だが目の前の彼女は驚いた様子もなく、見るからに面倒そうな渋い顔を作っていた。
ずんずんと歩み寄ってきたのは、ジャージ姿の男性。おそらく教師。まだ入学して間もないからか、天音はその顔に見覚えがない。
「没収だ没収」
「センセ、うちの後ろつけとん? タイミング良すぎや。さっきつけたばっかやで?」
抗議しながらも彼女は耳元の蝶を引っぱった。するりと抵抗なくとれた所を見ると、どうやらイヤリングのようだ。
「人聞きの悪いこと言うんじゃない。というか、お前は一体いくつ学校にこんなもんを持ってきてるんだ」
「うちのポッケはドラえもんみたいに四次元に繋がっとんやで」
「偉そうに言うな。入学して一月もしないうちに生徒指導の先生全員に覚えられてるのはお前くらいだぞ」
得意気に鼻を鳴らした彼女に、教師が深く息をついた。その視線がこちらにうつり、天音は慌てて姿勢を正す。しかし教師は満足気にうなずいた後、「スカート丈も直しておけよ」と言いおいて去っていった。
「あのセンセ、悪い人やないんやけど、ちょっとうるさすぎやと思わん?」
返答に窮したが、特に答えを求めていた訳ではなかったようだ。スカートのポケットに手をつっこんだ彼女が取り出したのは、先ほどとは違うイヤリング。なれたような手つきで耳たぶにそれをつけている。
「……何の話やったっけ?」
彼女が首を傾ければ、それにあわせてイヤリングがチャリチャリと音を立てる。ここまできてようやく、天音は彼女の校章が商業科のものだと気づいた。
「ああせやせや、あんたの歌の話や。チョイスが古くさくてビミョーやけど、上手かったわそのせいでセンセに見つかってしもたけど。って、なんであんたそんな顔しとるん?」
「え?」
「なんや疲れきったコンビニのおばはんみたいやで」
初対面だと言うのに、随分はっきり物を言う人だ。思わず苦笑がもれる。
「たしかに、疲れてはいるかもです」
意気込んで来て全て空振り。次に打つべき手も思い浮かばない。歌で現実逃避したくなる程度には疲れている。
「なんか、そのへんにどこでもドアでも落ちてないですかね」
「ああそれウチも毎朝思うわ。あったらギリギリまで寝とれるし」
目が合って、同じタイミングで笑いがもれる。
「じゃあうちはそろそろ帰るわ。どこでもドア落ちとらんし、また見つかったらうるさいからな」
ひらひらと手を降って帰ろうとするその人を、天音は反射的に呼び止めていた。
「あの、一年生ですよね? 合唱とか、興味ありますか?」
「合唱?」
「私、合唱部なんです。もしよかったら……!!」
「合唱部なんてあったん?」
ぐっと言葉につまる。いけない、衝撃を受けている場合ではない。
「今は活動してないらしいんですけど、どうにかできないかと思って。最初は大変かもしれないですけど、活動しはじめたらきっと――」
「あー……」と言い淀まれる。
「ごめんな、うちこれ以上イヤリング取られたら困るねん。センセに見つかる前にはよ帰らんと。それに、ちょっといろいろ面倒そうやわ。ウチは今の映研でジューブン。これ以上目えつけられても嫌やし。悪いけど、別の子誘って」
短いスカートをひるがえし、背を向けた彼女の腕をあわててつかんだ。ちらりと振り返った彼女の少し冷えはじめた視線に怯みそうになる自分を、胸の内で叱咤する。
「お願いです。話だけでも聞いてもらえませんか。それでも気が変わらなかったらもう何も言いませんから。お願いします」
頭を下げて頼みこむ。ペンで派手な色に塗りたくられた彼女のスリッパを見つめて、じっと待った。
「ああもう、やめやめ! こんなんセンセに見つかったら、またグチグチ言われるわ」
ゆっくりと背を伸ばすと、少し疲れたような様子で彼女が腕を組んでいた。
「おとなしそうな顔しといて、あんた案外えげつないな。ここで話も期間と帰ったら、ウチが悪モンみたいやん」
「じゃあ――」
「勘違いせんといてな。入るとは言うてない。そもそも、別に歌とかキョーミないし。ほんまに聞くだけやで?」
至極面倒そうな、半ば諦めたような一言だった。けれどそれは天音にとって何よりも求めていた一言でもあった。
「一人!?」
ぽかーんと口を開けて彼女が固まる。生徒指導室に提出しなければならないと言って彼女が広げた原稿用紙は、丸い字で『近藤愛』と書かれたきりほとんど埋まっていなかった。
「正確には一人じゃないんですけど、なんか複雑で」
ともすれば私情から音楽科や神谷守個人に対しての陰口になってしまいそうなこの状態を、客観的に話すのはなかなか難しい。
「つまり」
話している途中、シャープペンのお尻を向けられ、天音は口を閉じた。
「悪もんは音楽科の連中と、その神谷っていうセンセ。そういうことやな?」
どうやら自分の努力は実になっていなかったようだ。
「えっと、そういう意味じゃなくて、」
「あーあー、そーいうのええわ。嫌なやつに『あんた嫌い』言うて何が悪いん? 別にそいつらの事好きなわけやないんやろ?」
「好き、ではないけど……」
好きではないが、嫌いとも少し違う気がする。結局どう言えばいいのかわからなくて、ごまかすようにストローをくわえた。
「どうしてそんなこだわるん?」
「え?」
「だってメンドーやろいろいろ。ウチいっつも不思議やねん。スポーツでも合唱でも、誰かと何かするってことが理解できん。まー野球とかサッカーとかは人数おらなできやんからしゃーないかもしれへんけど、それでもやっぱメンドーやと思うわ。好きなことは一人でやったほうがええやん。誰にも邪魔されんと自由にやれたほうが絶対楽しいで。特に歌なんて一人でもやれるやろ。なんでそんな苦労してまで合唱したいん?」
なるほど、そういう考え方もあるのかと天音は目をまたたいた。確かに彼女の言ってることも間違いではないだろう。むしろ一理ある。自分が今ここで合唱を諦めれば、面倒事は全て片付く。やる気のない顧問に腹を立てる必要もなければ、どうすれば合唱部を活動させられるかだなんて悩む必要もなくなる。けれど――
「めんどうでもやりたいというか、やらずにはいられないんですよね」
理屈でないそれは、もはや衝動に等しい。転がるボールを犬が追いかけられずにはいられないように、虫が光を求めて炎に飛び込んでいくように。辛い思いをしたいわけではない。苦労をしたいわけでも。それでも、求めてしまう。
「ほー、そんなもんなん。やっぱウチにはよーわからんわ」
ペンをくるくると回しながらそう言う彼女は心底不思議そうだ。
「一緒にやったら、わかるかも」
その一言を口にするのは、少しだけ勇気がいった。
「ほらだって、カレー食べたことがない人はカレーが食べたいなんて思わないじゃないですか。一回食べてみたらものすごく美味しくて絶対好きになるのに、見た目が茶色くていやとかドロっとしてて気持ち悪いだなんて思って食べずにいたら、一生カレーの美味しさなんてわからないわけですよ。カレーを知らないなんて人生の三分の一は損してるのと同じことなのに。だからまずは食べてみるっていうのがカレーの美味しさを知る第一歩だと思うんです」
つまり、
「とりあえずやりましょう、合唱」
一度やればきっとやみつきになる。そう思って真面目に力説したのに、返ってきたのは引きつけを起こすのではないかと心配になるほどの大笑いだった。バンバンとテーブルを叩きながらヒーヒー言っている。
「えーっと……、大丈夫ですか?」
顔を赤くして引き笑いの域にまで入っている。酸欠が心配になるほど本格的にツボにはいってしまったようだ。
「あかん……っ、おもろすぎて涙出てきた」
彼女が目元をぬぐって、大きく息をつく。どうやらようやく落ちついたらしい。
「うん。あんたが相当なカレー好きってことはよーわかったわ」
「いや、合唱の話してたんですけど」
「どこからどー聞いてもカレーの話やったやろ」
ぐっと言葉を飲む。まさか例え話のカレー愛のほうが彼女の心に残るとは思わなかった。ここからどう挽回したものかと首をひねっていると、思わずといったように彼女が吹き出す。
「ええよ、合唱部はいっても」
その言葉が耳から入って脳を一巡するのには、ずいぶんと時間がかかった。ぽかんと開いた口が若干乾いてくるくらいには。
「ほ、ほんとうですか?」
「ほんとほんと」
「途中でやっぱりやめた、とかないですか?」
「それはこれからのあんた次第やわ」
にっと歯を見せて彼女が笑顔を浮かべる。
「はまらせてくれるんやろ? 合唱」
「――はい、必ず」
ぐっと拳を握る。せっかくくれた期待を裏切るわけにはいかない。
「とりあえず、」
手早く荷物をまとめた彼女が立ちあがる。
「カレー食べたくなったからはよ帰ろ」