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我らのクワイア  作者: 三浦 那々
3/9

03 父親


 小学校の宿題で名前の由来を調べるように言われた時、緊張しながら父に聞いた覚えがある。


「お前が生まれた時、音楽があふれたんだ」


 一年生だった自分はその言葉を不思議に思うことも、疑問に思うこともなかった。授業で発表して「ロマンチストなお父さんね」なんて先生に言われた気がする。「ロマン」なんてまだ聞いたこともなかったころの話だ。

 母と父が別れたのは、六年生の時だった。もうとっくに物心はついていたはずなのに、天音は父のことをよく知らない。意図的に無視をしていたわけでも、避けていたわけでもない。きっと父が家にいることが少なかったからだと思う。好きでもないけれど嫌いでもない。それが、率直な父への思いだった。母の口から離婚という言葉を聞いた時、驚きはしたけれどそれ以外の感情が特に浮かばなかったのは、だからだろうか。

 一戸建ての持ち家から賃貸のマンションになったり、それまで専業主婦だった母が働きに出たりと環境は変わったけれど、心境的な変化はあまりなかった。学校が変わらなかったこともその一因かもしれない。





 待ち合わせ場所は、定番の金時計前。電信柱のように直立するその時計の前で、天音は緊張しながら行きかう人々を見つめていた。

 昨日の夜、食後の母の口から出たのは珍しい人の名前だった。

「お父さんがね、天音に会いたいんだって。どうする?」


 お父さんという言葉を聞いて瞬時に顔が浮かばなかったのは薄情だろうか。けれどそれくらい、天音にとっての父は遠い人だった。

 離婚してから一度もそんなこと言ってきたことがないのに、なんで今になって会いたいと言い出したんだろうとか、なんで母は別れても連絡を取りあっているんだろうとか、不審に思うことはいろいろあった。正直に言ってしまえば、会いたくない。どんな顔をして会えばいいかわからないし、なにを話せばいいのか見当もつかない。それでも今こうして父を待っているのは、やけに母が食い下がってきたからだ。


 待ち合わせは金曜の六時。数日前に「彼女」の歌を聴いた駅だった。ほんの少し期待してステージが組まれていた場所まで行ってみたけれど、そこは人が行きかうばかりで舞台すら組まれていなかった。インターネットであのイベントを調べてもみたけれど、「若手バンドを集めてのイベント」という概要しかわからなかった。

 学校が終わってすぐに来てしまったから、時間にはまだ余裕がある。けれど妙に落ちつかなくて、ずいぶん早くから立ちつくしていた。


 ふと、人混みの中で記憶にかする人影を見つける。けれどそれは本当にかすかな、薄ぼんやりとしたもので。じっと目を凝らしてその人を見つめていると、その人がこちらを見て片手を上げ、大股で近づいてきた。


「天音、だよな」


 ぎこちない笑みを浮かべて自信なさげに声をかけてきたその人は、たしかに自分の父親だった。こんな顔をしていただろうかという思いは残るが、声が記憶に合致する。どういうふうに返せばいいのかわからなくて、とりあえずうなずいてみせる。すると、父はあからさまにホッとしたように息を吐きだした。

「じゃあ行こうか」

 目の前に手が差し出される。意味が理解できずに顔と手を見比べていると、彼はその手を引き戻して、かすかに笑いながら頭をかいた。






 連れてこられたのは、今まで一度も来たことのないような店だった。天音は磨き上げられたグラスのクリームソーダに見入ってるふりをしながら、そっと周囲の様子をうかがう。見慣れない小綺麗な奥様方がほとんどだ。


 お互いにしばらく何も話さなかった。天音が透き通った黄緑色のソーダ水に浮かぶアイスクリーム島をしばらくつつきまわし、そのほぼ半分が溶けかけたところでようやく、父の方から口を開いた。

「遅くなったけど、入学おめでとう。合唱部に入ったんだって?」

 からんとパフェスプーンが滑り落ち、グラスの底に沈んだ。中のソーダ水が一気に泡をたて、あわや零れそうになって反射的にその縁に口をつける。はっと気づいて慌てて顔を引いた。

「うん、そう」

 ついさっき直接口をつけてしまったグラスにストローをさしこむ。ぱちぱちと舌の上で弾ける炭酸が少し痛かった。

「うまくいってないって聞いたから。心配になったんだ」

 ストローから口を離し、天音はまじまじと目の前の人を見つめた。


――心配。心配、か。


 そういった種類の言葉を、この人から聞いたことがあっただろうか。

 嫌味でも皮肉でもなく、天音には父親の記憶が希薄だった。物心ついてから遊びに連れて行かれた覚えもなく、叱られた覚えもない。朝出て行く時間は自分より早く、夜帰ってくるのも遅かった。土日に家にいた覚えもあまりない。父に関する記憶で鮮明に思い返せるのは、名前の由来を聞いたあの時だけだ。だからといってそこに反感を覚えたこともない。天音にとってはそれが普通だったから。どうやらそれが世間一般の普通ではないらしいとしたのは、ふたりが離婚してからだった。


 不思議な気分だった。そんな人に心配をされるのは。年に一度しか会わない親戚が、妙に詳しく近況を聞いてきた時と同じような気分になる。喉の奥が痒くなるような、不快な違和感。


 大人というのは、よくわからない。離婚しているのに連絡を取り合っていたり、合唱をやりたくもないのに合唱部の顧問をやってみたり、一・二年生は部活必須なんて校則を作っておきながら帰宅部を黙認したり。自分には理解できないし、したいとも思わない。

「うん……そうだね。うまくは、いってないかな」

 けれど今その疑問をこの人にぶつける勇気はなかった。



「実は父さん、昔からこんなことしててさ」

 父が唐突に取り出したタブレット端末が目の前に置かれた。どこかのホームページらしいその画面には『音楽お届け隊 shooting star』という大きなバナーが貼られている。その下の大きな写真に写っている人の中には、目の前の人と同じ人がいた。手には見た覚えもないギターが抱えられている。

 ふっと画面が暗くなり、自分の顔がタブレットに映る。ぽかんと口を開けた間抜けた顔だった。

「プロとかじゃ全然なくてさ、好きな人が集まって勝手にやってるだけだけど、いろんな施設とかに行って音楽やってるんだ」

――もしよかったら、一緒にやらないか。


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