02 同じ辛いのなら
昨日逃げるように背を向けた渡り廊下の手前で、ゆっくりと息を吐いた。
放課後に直行した職員室で、担任にライオン――もとい、合唱部顧問である神谷守の場所を尋ねれば、音楽科教員室にいると言われた。尋ねた時の顔は、何かとても複雑そうだったけれど、心がそれに引きずられることはなかった。
レッスン室から漏れる楽器の音が近くなる。だが幸運な事に音楽科の生徒に出会うことはなく、奇異の目で見られることもなかった。しばらく歩いて、壁から突き出る『音楽科教員室』の札を発見する。
ノックの腕を持ち上げては下ろすという意味のない行為を何度か繰り返して、ようやく天音は心を決めた。
軽く三回、扉を叩く。数拍おいて「はい」と応答があった。
「失礼します」
人のいない廊下に、少し震えた自分の声が響いた。
扉を開けば、聞いたとおり神谷守の姿があった。今日も相変わらずベートーベンのようなライオン頭だ。その眼光のなさは肖像画とは似ても似つかないけれど。
何か書き物をしていたらしい彼は、こちらを認識すると数瞬固まって、取りつくろうように笑みを貼りつけた。
「やあ、君か。えっと――」
「松長です。一昨日、合唱部に入部した」
「そうだ、松長さん。廊下寒いでしょ、中に入りなよ。あー、イスどこにあったかな」
神谷が立ち上がって室内をウロウロと探しまわる。その間に天音は言うことを聞かない心臓を落ち着かせるために深く息を吸った。
「あ、あったあった。ここに――」
「合唱部を活動させるためにはどうしたらいいですか」
何の装飾も前置きもなく、ただひとつ用意してきた言葉をそのままぶつける。ぶつけられた神谷の方は、まさに鳩が豆鉄砲を食ったという様子だった。手にパイプイスを持ったまま固まっている。たたみかけるように、天音は言葉を続けた。
「私は、ここで合唱がしたくてこの高校に入学しました。いま合唱部が活動していないなら、どうすれば活動できるか教えて下さい。活動してくれる部員を集めればいいですか。署名を集めればいいですか。どうすれば――」
「ちょ、ちょっと待って」
どんどん語調の荒くなる天音を押しとどめるように神谷が胸の前で手を挙げた。がたがたと音を立てながらパイプイスをひろげる。「座りなよ」と言われて、天音は戸惑いながらも腰掛けた。神谷も最初に座っていたイスに腰を下ろす。
「君――松長さんは、合唱がしたいんだね?」
頷きで答えれば「そうかそうか」と何度も繰り返しながら、神谷は頬をかいた。その眼は天音をとらえることなく空中を漂っている。
「合唱部は音楽科の生徒が多くてね。多いというか、音楽科は三年生を除けば基本的にほぼ全員が合唱部なんだ。松長さんたちのいる普通科や商業科と違って、音楽科は少し特殊でね。普通の勉強以外にも音楽の専門授業があるし、毎週金曜には校内コンクールがある。部活をやってる時間って、正直なくてさ。合唱部が活動できない理由ってそこにあって、」
「ちょっと待ってください、先生」
今度は天音が手を挙げる番だった。
「音楽科の皆さんが部活に参加できないのはわかりました。でも、それならやっぱり活動できる部員を集めればいいんですよね? それなら活動できるんですよね? 私、先生に教えてほしいんです――合唱を」
声の途切れた教員室に、レッスン室から様々な音楽が薄く響く。そんな中、神谷は重そうに口を開いた。
「合唱部には、音楽科の生徒が多いから。みんなに黙って活動させるっていうのは、ちょっとどうかなって思うんだ」
答えのようで答えでない返答。その言葉が耳に入って、脳内を二巡三巡して、ようやく理解することができた。
――なるほど、そういうことか。
「先生は、やりたくないんですね。合唱部」
天音の目には神谷が声をつまらせたのがはっきりと見えた。
「音楽って、選ばれた人しかできないんですか」
金がなければ、音楽科でなければ、望んだ場所で歌うことすら許されないのか。好きでいることすら許されないのか。
「自分がどうしたいのか」なんてわかりきっている。もともと合唱がしたくてここに来たんだから。けれど、それを押し通せば苦しいだろうということも理解していた。生徒どころか教師にまで実態がないと言わせる部。それを活動させるだなんて、入学したばかりの一生徒には重すぎる。できないのにやりたいだなんて、苦しいじゃないか。
苦しいのは嫌だ。きっと自分だけじゃなくて、誰だって。だから一度は飲みこんだ。そうしたら楽になれると思った。
でもあの人は。昨日聴いたあの人の声は、歌は、姿は、消化できずにいつまでも残っていた心を無遠慮にひっつかんで、引きずり出してきた。あんなに小さくて細い身体で、大きなギターを抱えて。力いっぱい歌う彼女は本当に楽しそうで、幸せそうで。
本当は飲みこんでも苦しかった。けど、いつかそんな苦しみも消化されてなくなるだろうと信じようとしていた。けど違うんだ。どれだけたったって消化なんてされやしない。だって飲みこんだのは食べ物じゃない。思いなんだから。
「私は先生に教えてもらいたかったんです。先生ならきっと、私が教えてもらったことのない歌を教えてくれると思ったから」
あの時聴いた『天使の歌声』を、教えてくれると思った。けれど――
「違うんですね。先生から見た音楽って、そうなんですね。でも私、諦めませんから」
さらけ出しても飲み込んでも同じように辛いなら。私はさらけ出す方を選ぶ。