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我らのクワイア  作者: 三浦 那々
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01 私を動かすものは

「え……?」

 目の前の人に言われたことが理解できず、天音はそのまま固まった。ベートーベンのようなライオン頭の若い男性教師は、綺麗に整った眉を下げ、申し訳無さそうに同じ言葉を繰り返す。


「なんていうか、その……。合唱部はあるんだけど、活動はしてないんだ。うちには音楽科があるしね」

 松長天音が思い描いていた高校生活は、入学して七日目に崩れ去った。






 昔から音楽が好きだった。中学三年生のあの時。有志合唱の数が足りないのだと音楽教師に声をかけられて二つ返事で参加したのも、そんな思いがあったからだ。たったそれだけの理由で立った舞台で進路が決まるだなんて、誰が思うだろう。


 ソプラノ、アルト、テノール、バス。それぞれのハーモニーが合わさった中でのたった一瞬、聞こえた歌声。それをどう表現すればいいのかわからない。一緒に歌っていた誰に聞いても、同じ歌声を聴いた人はいなくて。けれど天音にはそれが空耳ではないという、不確かな確信があった。天使の歌声を、聞いたと思った。

 ぼんやりとしていた進路希望が、定まった。もう一度あの歌声を聴いてみたいという一心だった。

それは松長天音にとって、短い人生の中で初めてと言っても差し支えない一つの決意だった。




 音楽科へは行けない。母子家庭には入学のために必要なレッスン代を支払う余裕なんてないし、仮に入学できたとしてもその後の入学金も授業料も桁違いだったから。もし母に言えば「そんなことは気にしなくていい」と言ってもらえただろうけど、毎日疲れて帰ってくる姿を見ているのに、そんなこと口が裂けても言えなかった。


 合唱部として華々しい受賞歴をもつ公立高校。全国大会に何度も出場経験のある私立高。高校で合唱をするだけならば、様々な選択肢がある。

 そんな中で見つけたのだ――朋輩高校を。普通科、商業科、そして音楽科。ホームページ上の合唱部顧問の欄には、声楽を教えているという音楽家教師の名があった。


 朋輩高校の合唱部には主たる受賞経験も、大会出場経験もない。だが音楽科の教師が合唱を教えてくれるなんて高校は他にはなかった。朋輩高校は私立ではあるけれど、一般入試で上位に食い込めば入学金を含め授業料も学校がもってくれるという。

 音楽科教師による合唱指導――これだ。そう思った。




 けれど。



 天音はついさっきまで自分も並んでいた教卓へと続く人の列を、教室の片隅でぼんやりと見つめていた。

 ほんの数分前まで、恥ずかしいほど舞い上がっていた。もし誰かに話しかけられでもしていたら、しゃべり慣れない舌を懸命に回して興奮気味に話しただろう。仲間になり、これからともに歌うはずだったその人と。


 列は少しずつ短くなる。ベートーベン先生と何人かの生徒は笑いあって、短冊状の入部届をやり取りしていた。あの子たちはみんな音楽科の生徒なんだろう。圧倒的な女子率だし、よくよく見ると胸の校章には自分と違う『音』の字が刻まれている。

「うっわ、ほんとにすいてんじゃん」

 きゃらきゃらと高めの声が響く教室に、不意に低音がはいってきた。男子だった。それも、ずいぶん背の高いがっしりとした。場に合わないその存在に思わず釘付けになる。

「ねえあんた」

 唐突に合ってしまった視線に、天音は自分の背後を確認した。

「あんただよあんた。あんた、普通科だろ?」

 緩められた制服のネクタイ。その胸元にある校章の『普』の文字。どうやら普通科らしいが見覚えはない。入学してまだ一週間。普通科だけで七クラスもあるのだから、それもしかたのないことかもしれないけれど。

「もう入部届出した?」

 うなずくと、彼は大げさに舌を打って顔をしかめた。

「マジかよ、しくったー。最初から映研とか漫研じゃなくてこっち並んどきゃよかったな。つか情報早くね? 先輩に知りあいとかいんの?」

「映、研?」

「そーそー映研。なんかさ、一・二年は部活必須とかわけ分かんない校則あんじゃん? 面倒だからさ、そういうの。『帰宅部』探して回ってんの。けどやっぱ映研と漫研は有名どころみたいで、めっちゃ並んでるわけよ。もっとすいてるとこねーのって先生に聞いたらさ、ココ教えてくれたんだ」

 無邪気に笑うその顔を見ながら、天音は心のどこか冷静な部分でようやく理解した。


――自分が馬鹿だったのだ。


 音楽科教師が顧問をしているというだけで詳しく調べもせず、一人で舞い上がって。勝手に裏切られたような気になって。この学校では教師にすら合唱部=帰宅部の図式ができあがっていたのに。

「お、あいたあいた」

 じゃ、と手を一振りして、彼は列の途切れた教卓の前へ大股で歩いていく。ライオン先生は彼の顔を見てわずかに動揺したようだったけれど、彼がよく通る声で「あ、俺合唱とかキョーミないんで大丈夫です」と人目をはばかることなく言い放つと、安心したような肩透かしを食らったようなあいまいな表情で短冊を受け取った。


 受け取った顧問の視線がふっと天音と交わる。とたん、外された。気まずそうなその態度に、天音はようやく自身が三〇分近くもこの教室に居座っていたことに気づいた。


 帰らなきゃ。


 よく回っていない頭にそれだけが浮かぶ。おろしたてのスリッパは滑り止めがよくきいていて、歩くたびに廊下とこすれる音がした。階段途中の踊り場で、足が止まった。鼻の奥がつんとする。目が熱くなって、ぐっと唇を噛み締めた。


 泣くな。泣くんじゃない。


 ぼうっとした頭に強く命じる。何度も何度も大きく深呼吸をして、ようやく天音は出そうになった何かを飲み込んだ。





「ただいま」

 扉を開けると、リビングに人の気配を感じた。かすかにテレビの音が聞こえる。かまわず入ると、二人がけの広くもないソファに母が寝入っていた。夜勤から帰ってきた母はいつもこんな感じだ。見る人のいないサスペンスドラマがたれ流しになっている。きっと起きてから『犯人がわからなかった』なんて言って落ち込むんだろう。


 いつも通りだ。数年間何も変わらない、いつもの日常だ。それなのに今日は――すごく泣きそうになる。

「……あー、ぜんっぜん気づかなかったー。おかえりー」

 ごそごそと身じろぎした母にあわてて表情を作る。

「た、ただいま」

 起きぬけのうすらぼんやりした顔。母は一度大きくあくびをして「また犯人誰かわからなかったなー」といつもの様に言うと、「なにかあった?」と唐突に切り出してきた。

「え……、何にもないよ。それよりもまたテレビつけっぱなしにして。電気代もったいないから」

 リモコンで電源を落とす。流れていたコマーシャルの軽快な音楽が消えると、空気が少し重くなった気がした。


「天音」

 優しく名前を呼ばれた。ただそれだけだったのに、涙がこぼれた。一粒落ちれば、その後に続くように次々と溢れていく。どんなに止めようとしても、それは自分の意志では止められなかった。

 しゃくりあげながらの言葉はとぎれとぎれで、話している自分ですらもどかしい。しかも話しているうちにまた感情が高ぶってきて、涙が流れだす。けれど母は途中で遮ることなく、急かすこともなく。ひたすらに話をきいていた。


「そう。それで、天音はどうしたいの?」

「――どう?」


 いろいろな感情でごちゃまぜになった頭の中は、自分自身にも理解不能で。そんな天音を落ち着かせるように、母が静かな声で語りかけてくる。

「そう。これから、天音はどうしたいの? お母さんに学校に電話かけて欲しい? それとも、これからどこかの編入試験を受けて別の高校に入る? 天音は、どうしたいの」


 合唱がしたい。けれど――


問いにすぐに答えられず、口を閉ざした。

 自分が、どうしたいか。母の視線から逃げてうつむいた膝の上のタオルに、その答えは書いていない。

「わかったら、また教えて。お母さんはお母さんだから。天音が決めたことを応援する」

 その言葉を残して、母はキッチンへ入っていってしまう。なにか急にとなりが寒くなって、天音はそっと腕をさすった。




「松長、ちょっと」

 朝のSHRが終わったあと、担任から廊下に呼ばれた。小・中とひたすら真面目に過ごしてきたせいか呼び出された経験なんてほとんどなくて、何かしただろうかと反射的に身体がこわばる。授業前のざわついた、緩んだ空気を壊さぬよう、天音はそっと担任の背中に続いた。

 春先だけれど、風通しのいい廊下は教室よりも空気がひんやりしている。たった扉一枚挟んだだけなのに、クラスメイトたちの声はずいぶん遠くなった。

「昨日は、なんていうか……。大変だったな」

 知られていることを知って、ぐっと胸が押さえつけられる。絞りだした「いえ」という言葉が天音の精一杯だった。

「これ、お前に渡そうと思って」

 そう言って渡してきたのは、あまりの厚みにおしりが割れそうになっているクリアファイルだった。コピーされたらしい紙がぎっしりとつまっている。一番手前の紙にはでかでかとしたフォントで『団員募集!』と書かれている。

「市内の合唱団についてちょっと調べてみたんだ。けっこう色々があるみたいでな、少しでも参考になればと思って」


「もしよければちょって考えてみてくれ」なんて言って、彼はいそいそと去っていってしまった。手の中にずしりとした重さが残る。昨日の今日でわざわざ調べてくれたのだろうか。

 その手間に感謝すべきなのだろう。けれどなぜか、ファイルごとそれを投げ散らかしてやりたい気分になった。






 授業が全て終わり、家に部活にと散り散りになるクラスメイトたちを尻目に、とろとろと教室を出た。他のクラスではまだ教室に残っている生徒がいるのだろう。時おり大きな笑い声が響く。


 朝より重くなったスクールバックが肩に食いこんで、天音は何度も肩にかかる紐の位置を変えなければならなかった。しかしどうにも肩が痛い。ハンカチでも挟んだほうがいいかもしれないと、階段前の渡り廊下近くで一度鞄を下ろした。


 ふう、と大きく息をつく。担任に渡されたクリアファイルは下校まで耐え切れず、やはりピリピリとおしりが割れてきていた。荷物が増えた分何冊か教科書を置いてくればよかっただろうか。入学して一月もたっていないのに、すでに机の中がパンパンになっている幾人かを思い出して思う。置き勉なんて一度もしたことがなかったけれど、教科書を毎日持ち歩くのは距離的にも辛いかもしれない。

 そんなことを考えていると、音楽がやわらかく耳に触れた。サックス、トランペット、パーカッション。そしてピアノ。かすかな音の中には、なんとなく聞き覚えのある曲が混じっている。


 なんていう名前だったっけ。


 記憶をたぐっているうちに胸苦しくなり、一粒涙がこぼれる。天音は慌ててそれをぬぐった。

 この三階の渡り廊下を挟んだ、向こう側。普通科、商業科とは異なるその校舎は『音楽科』の領域だ。幾つもあるレッスン室と音楽室。たった三人しかいないという音楽科教師のためだけの教員室もあるらしい。音楽科教師のためだけの。


普通科と商業科には全く用のない場所。『音楽科』のためだけの。立ち入りを禁じられてはいないけれど、もし自分がこの渡り廊下の向こう側へ行けば奇異な目で見られることになるだろう。

 同じ廊下の直線上にあるのに、天音はそこが同じ校内には思えなかった。この向こう側で音楽ができるのは選ばれた、そして限られた人間だけだ。そう思うと遠く聞こえる音楽すら感情を逆撫でる。

 ずしりと重いスクールバックを抱えあげ、天音は小走りでその場を離れた。






 大勢の人たちと一緒に電車を出ると、雑多な音が天音を包みこんだ。降りたのは定期券の区間には入っていない繁華街。肩にかかる鞄は相変わらず重いけれど、まっすぐ家に帰る気分にはなれなかった。

 高校生に手が出せるわけもない値段の洋服や雑貨を見て時間をやり過ごす。気づけば陽は落ちていた。見て回っている間はそれなりに楽しかったのに、気を抜けば憂鬱に心が引き戻されてしまう。けれど、帰らないわけにもいかない。重たい鞄を肩にかけ続けるのも限界だった。


『続いては――』


 駅のホームに待っていると、耳にマイク音が飛び込んだ。どうやら特設ステージを組んでイベントをやっているらしい。だが司会の声量が足りないのか音響の不備か、声はすぐに雑踏に飲み込まれてしまう。

 ギターやベースなどの楽器を抱えた数人の男性がステージにあがる。一人がドラムのセッティングをはじめたのを横目に見ながら、天音は再び歩き出した。人ごみの間をすり抜けながら歩いて、ステージ上に現れた人影に思わず足を止めてしまう。


 小さな人だ。女性というより女子といった感じの、小さくて細い人。そんな人が大きな――普通の人が持てば普通だろうと思われる――ギターを抱えて、弾むような足取りでステージの中央に立った。彼女の前には、マイク。

 え、と思った瞬間。

 彼女の小さな口が、大きく開いた。



「こんな時間までどうしたの、珍しい。友達とどこか行ってたの? 遊びに行くなとは言わないけど、せめて連絡くらいくれないと心配――」

「お母さん」

 遮ると、母きょとんとした顔をしながらも口を閉じた。昨日はそらしてしまったその眼を、正面から見つめる。

「私、合唱する。朋輩高校で、あの学校で歌いたい」

「――そう。なら、そうしなさい」

「うん」

 ギュッと肩に食いこむ鞄の紐を握る。決めてしまえば、重さなんてそう大したものではなかった。


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