途上の娘・3
既に地平に陽は沈んで、小さな宿場町の軒先に蝋燭の灯りが掲げられる。
近隣に住まう町人は仕事を終えて、意気揚々と酒場に滑り込んできた。
労働したものの泥や汗の匂いもあり、狭い店には熱気がこもっている。骨の太い男たちが思い思いに安酒と肴を注文し、少し歳のいった女中が愛想よく動き回る。
何がそれほど面白いのか、リアは店の様子を無言で観察している。それを横目に、セルジュは冷えた麦酒をくっと煽った。
「はー、幸せ。この取れたての麦の1番醸造を毎年心待ちにしてんだよねぇ。あー美味い」
リアの様子には既に慣れたようで、セルジュは気にも留めず機嫌良くしゃべっている。
フォークでつつくのは近隣で取れた兎の肉をトマトで煮込んだもので、リアの覚えたての貨幣感覚で見るに、この店のメニューの中ではそれなりに値が張っていた様だ。俺のおごりだから、と好きなものを頼むよう言うセルジュに従って、同じ飲み物を頼んだリアだったが、良さがよくわからない。美味しそうに呑み下す周囲に吊られて煽ってみる度に、口内を擽ぐる発泡に眉根を寄せる羽目になる。
料理はあまり口にしたことのないもので、味付けが濃いが少しずつ食せば美味しく感じられた。慣れない作法に戸惑いながらも、隣の男や周りの客の自由な食べ方を真似てみる。
昨日店主に絡まれた店もそうだが、がやがやと騒がしい雰囲気には圧倒されるばかりだ。階下の男たちは何が楽しくてあんなにも笑っているのだろう、それが気になって仕方ない。
「どー?リアちゃんお口に合いますか?」
言うとセルジュは飲み干したグラスを脇に置いて、大きな声を出して女中に二杯目を頼んだ。
頬杖ついて顔を覗き込んできた男に、あからさまに顔を顰める。
「ええ、なんだか見ているだけでお腹がふくれてきたわ。…もう二杯目なの?」
「いや、目の前に美人がいると酒も上手くなるってねぇ」
「…恋人が聞いて呆れるわ」
半眼で男を流し見て、リアはやっと上体を椅子に預けて寛ぐ。
食い入るように階下を観察する様が不信極まりない事を、この娘は気付いていないだろう。苦笑を浮かべながらセルジュは取り分けた肉をバケットに乗せてリアの皿に置いてやる。
「ははー、だといいけど。実はまだ片恋中なんだ」
「そうだったの、軽口の男性は好かれないわよ」
「ん?それも本で読んだの?」
「…煩いわね」
清楚な顔立をむ、としかめたリアを見て、セルジュは身を乗り出して嫌な笑みを浮かべた。
「ふふふ、リアちゃんってさぁ、野生動物みたいだよねぇ。こう…全然懐かない小動物が毛逆立てて爪立ててる感じ?」
「しょう、どうぶつ?…失礼ね?」
「ぉお?!すみませんでした」
今度こそ本当に機嫌をを損ねそうだと、セルジュはそこそこ箔のついた女の眼光に閉口した。何に例えれば良しとされたのか、考えてみてから苦笑した。きっと何でも怒る気がする。
それでも場の雰囲気に当てられてか、リアはいつになく饒舌だった。
減りの遅い、発泡の抜けた麦酒を両手で支え、ちびりと舐めて問う。
「ね、その片恋のひとはどんな方?どうやって出会ったの?」
「え?聞きたい?」
「聞きたい」
「ははぁ、リアちゃんもそう見えて年頃の娘さんなのな」
セルジュの見た所目の前の女は、顔立ちや体型、口調は大人びてはいるが、15.6歳程だろう。
洗練された雰囲気はあるが人目に晒される事に慣れてはいない。まだ、自分の“売り方”を知らない娘だ。見る人によってはもう少し上だと言うだろうが、商人の目利きは何も品だけに止まらない。様々な旅先での交渉や取引を経て、人を見る目も養われるものだ。おそらく遠からず、と言ったところだろう。
顔に隠しきれない興味が浮かんでいるリアに応えて、セルジュは懐かしい話を始める。
「出会ったのはもうずっと昔だよ。俺はその頃拾ってもらった恩のある人と一緒に、商売の勉強しながら旅するガキたった」
「そんな小さな頃から、商人を志して?」
「まぁ、丁度両親が死んだ所を拾ってもらったからね。そんな立派なもんじゃないんだけど。それが、変なおっさんでさぁ」
「…へん?」
「そう。他の商人が見向きもしないような辺境の奥の奥、病の偏見により隔絶された村や、独自の文化を保つ少数民族、手や足の無い訳ありの人なんかの生活の中から、都で受けるような品を見出しては商売にする変わった商人だった」
「へぇ、…立派な方だわ」
「そう?本当にただの変人だったよ。まぁ感謝しちゃいるけど」
あの頃は苦労したなぁ、と独りごちるので、つい笑ってしまう。笑ってしまうが、中々の苦労人である事は間違いなさそうだ。さらりと語られる生い立ちはリアが聞いても波乱万丈としか思えない。
「時に、空気が薄くなるくらい高い崖にだけ生える、見たこともない木の実やら。どデカイ獣の頭蓋骨の飾りやら、どうしてかよく効く、怪しい薬やら…。そんな多々ある取引先の中の1人の娘さんだったんだ。歳も近い、お互いろくに友達も居ないって事で俺はガキなりに一目惚れしちゃったんだよ。それからずっと、片思い」
一途でしょう?笑いながらセルジュは冷えた麦酒を煽った。
「そうね。素敵な話。彼女はどんなひと?」
「んー、大人しそうに見えるけど、結構頑固でさ。綺麗だよ。それでいて可愛い。ほっとけない」
ふふ、と控えめに笑う。常、硬い表情の多いリアは、笑うと蕾が綻ぶような柔らい雰囲気を覗かせる。
あぁ、と男はジョッキを置く。
「どこかリアちゃんに似てるとこがあるな。顔とか性格も全然違うんだけど…なんて言うか。だからあんたの事もほっとけないのか」
言葉尻は独りごちて、彼女の方が綺麗だけどね、と付け足して、セルジュは笑う。
「遠慮のない人ね。…大事に想われて、その方は幸せね」
「どーかな、彼女がどう思ってくれてるかはわからないけれど、俺にとってはやっぱり特別大切な人。旅の行商なんて苦労かけるだろうけど、蓄えができたら指輪を送ろうと思ってて」
そのツテがそれね。リアの耳飾りを指して、セルジュは悪戯な顔で笑った。リアは耳飾りに触れて、可笑しそうに肩を揺らした。
「ふふ、二人の幸せの手伝いができるのなら、嬉しい」
きっと喜んでくれる、とリアは請け合った。
市井であっても、家が定めた婚姻は多い。それが当たり前の世で、二人の話は夢物語のよう。きっとこの国の少女の誰もが一度は憧れるような話だ。
確かに男の目には明るいものが灯っていた。近い将来に待っているであろう、幸せな時間を信じて。
「…でも、それは君にとって大事なものじゃないの?」
セルジュは思い当たって気にして居た事を問うてみる。惜しいというのであれば、腕輪やネックレス…それらに品替えをする迄だ。しかし女の答えは否だった。
「…これ、あまり好きではないの」
あるでしょう?色んな思い出が詰まりすぎていて、重たいものって。
リアは笑みを浮かべたまま、最後は小さく独白した。陰った瞳は、自嘲の色が混ざる。
「手放せば、かえって気が空くわ」
「なら、いいけど。後悔しない?」
「ええ」
セルジュは、リアの曇る表情を見て、口を噤んだ。きっと自分の踏み込んでいい話ではない。
「リアちゃんはいないの?思いびと」
気分を変えようと、今度はリアを囃し立てる。しかしそれもあまり意味は無かった。女はきょとんとした顔をこちらに向ける。
「ぇ?…そうね。昔にそんな事もあったかしら…あまり、覚えていない…わ」
次の時におやと背を質した。リアが話しながら、遠目に階下を見て表情を強張らせたからだ。
「リアちゃん?」
「……普通にしていて。出来れば隠して」
セルジュはすぐに察して、顔を動かさずにリアの目線を辿った。店の入り口で、身なりの良い男が二人、今しがた入ってきた様だ。
女中に声を掛けているその様子では、晩酌をしに来たわけでは無いらしい。剣呑な雰囲気がある。
これは、と独りごちてから、少し離れた長椅子に掛けていたリアの肩をぐいっと引き寄せた。
「っひゃ…なにす」
案の定声を上げようとするリアの目を覗き、しぃ、と人差し指を立てて制止した。
「見つかりたくないんでしょ。大人しくしときな」
「つ…」
側から見れば辺りを気にしない恋仲の男女か、酌女と客かに見えるだろう。
そもそも、セルジュの腕に潜り込む形となったリアは階下からはあまり視認できない。幸い、女中の方も忙しさから、適当にあしらっているようだ。店での面倒毎は、繁盛時刻には避けたいに決まっている。
話をしていない方の男が、店内を仕切りに見渡していたが、思わぬ水をさしたよそ者に野次を飛ばし始めた客たちに呆れて、扉を潜り出ていった。
ふぅ、と息を吐き出し、セルジュは腕の力を緩める。
「よしよし…いなくなっぃ痛っ!いただだだ!痛いイタイいたい!」
腕に刺すような痛みが走ったかと思うと、腕のなかのリアが思いっきり、肉を抓っていた。
「痛いいたいやめ…っつぅー」
やっと解放された腕を捲り上げてみると、見事に鬱血していた。セルジュは内心、やってくれるなーとひとりごちる。
「助かったわ、ありがとう」
リアの方はしれっと身を正してセルジュを一瞥する。
「でも二度目は許さないわよ?」
「へーい…ごめんねぇ」
セルジュはすっかり酔いも覚め、深いため息をついたのだった。可愛くないねぇ、と呟いたのを聞き咎められ、その後の食事はリアの冷たい視線を浴び続ける事になり、早々に宿に帰ることになった。