途上の娘・2
まだ薄暗い街を囲む原に、刻一刻と広がる金の絨毯。
金糸を織り込んだ紗を広げるかのような眩い陽光。
遥か地平に小さく陰る森の上から、澄んだ淡い青の明けの空にに朝日が登り始める。
女はずっと昔から、この瞬間が好きだった。
女神の降り立ったと言い伝えられる霊峰アストレアの懐、深い新緑に囲まれた森の狭間にひっそりと佇む館。
人の出入りは殆どなく、老齢の使用人が僅か。
人との交わりを避け、目を避け、世界から隔絶される。
それは、只々窒息するような日々だった。
それでも、揺籠のなかで微睡むような、安寧の日々でもあった。
人の気配の希薄な館には、女神の裾野より大地を見渡せる、小高い塔があった。
見張り台として設えられたそれは、幼少の頃に館に移り住み暫くしてから、書庫に整えられた。
書見台から頭が覗く程だった背が徐々に伸びるにつれて、それに見合った本がどこからか運び込まれた。
女は館で生きてきた時間の多くを、この書庫で過ごしたのだ。
螺旋状に増設された足場と、書棚を全て見渡せる塔の上部には小窓がある。
小窓の脇に置かれた書見台で文字を追う間、夜が空ける時だけは項を捲る手をとめ、太陽が大地より出ずる様を見つめた。
刻々と世界を染めていく暁の太陽に、遠い昔に喪した瞳の色を重ねていた事に、女は気付いていたのだろうか。
「綺麗ね」
リアは呟いて遥か地平のそれを見つめている。
誰に向かって発せられたものではない、それは独白だろう。
セルジュは返事をしないまま、同じようにその光の差す方を見た。
まだ陽の登らない内に宿を出たのは、先に同行を依頼していた行商の男を巻く為であった。
揉める前に姿を眩ませ、というセルジュの意向に従ったまでだ。
幾つかある北への行程の中で一番人目のないルートを取る。
セルジュの引く荷馬車は幌が付いており、荷も幾分か多く積める様だ。
女連れは目立つんだよね、とこぼしながら、商人は幌の最奥の木箱の上に綿を詰めた掛布を敷いてくれていた。
これならば人目に付かずに移動できそうで、リアとしても都合が良かった。
それでも人目の無い明朝ならばと、操馬席の隣を進めてくれたのだった。
ごとごと、と音を立ててゆっくりと進む荷馬車に揺られ、暁に染まる腹を眺める。
「…ね、貴方ならばあれを、何の色と例える?」
胸の透くような夜明けの冷たい空気を頰に受け、リアは気まぐれに問う。
セルジュはリアの側の皮の眼帯の位置を少し直して、太陽の出ずる方を見上げた。
地平からは離れ、それでも燃えるような色を讃えて太陽は男と女の頬を照らした。
「ん?…そうだね。…クフィの実の色、芥子花の色、南の絹染の色、南西の大地の色」
流石商人と言うべきか男はつらつらと並べて、少しも思案する様子は無い。
「東山抗の紅宝玉の色、北の一族の少女の色。そしてこの王国を象する色。…面白い事聞くね、リアちゃん」
刻々と昇る陽を背に、セルジュがリアを返り見る。
逆光で少し陰った顔の、左半分に翡翠の瞳が覗く。
「そうかしら、暇潰しの言葉遊びよ」
目の前に続く蛇行した道を見遣りながら、女の目は何か遠いものを映しているようでもあった。
「ふぅん。君の耳飾りも、紅宝玉だ」
リアは指摘されて初めて気が付いたとでも言うように、そっと耳に揺れる石に触れた。
「瞳も、太陽の色」
珍しいよね、と言う男の目に、小さな感情が走ったように見えた。
それは、侮蔑でもなく、哀れみでもなく、小さな猜疑と…慈しみのような。
そっと振り返った女は、小さく唇を引き結んだ。
「そうね、忘れていたわ」
取るに足らない、些細な事だもの。
静かな街道に鳥が飛び去る影が横切る。
女はそれを追って、その太陽の色が宿ったようなあかい瞳で遠い地平を眺めていた。
「そもそもさ、金を持っていないのがまずい」
昼過ぎには道はだいぶ細くなり、林の間を縫うようになった。
間、幾つかの小さな集落を経て、荷馬車を呼び止める者には荷売り与え、話しかける者には耳を貸す。
各地の情勢は商人にとって大事な情報なのだという。
何処でどんな動きがあり何が求められるのかを知らずに、商人は務まらない。
かと言って方々で足を止めるセルジュであったが、それでも上々の距離を移動して来た様だ。
二人は小川の流れる林の原で、少し遅めの昼食を取っていた。
出立前に宿で調達したトルテに、葉と干し肉を巻いたものと、足をとめる先々でセルジュが頂戴した木の実で、野営にしては豪華なものになった。
煙の少ない枝を集め、焚き火をする手捌きは流石に旅慣れている。
感心して見ているうちに、沸かした湯で淹れた茶を手渡された。
身をほぐす様な香りが漂い出す杯の中は、美しい茶葉の色で満たされている。
誘われる様に口をつければ存外、質の良いものだった。
「…美味しいわ」
「まぁまぁの品でしょ。しがない行商といえこの商売、物を知らぬは恥ってね。俺みたいにまだ尻が青いやつは、金を稼ぐ為に背伸びしてでも投資する。色々大変なのよ」
ふぅん、と口先で相槌して女は杯中の香り高い琥珀色を覗き込んだ。
普段口にしていたものとはまた違う味わいで、住居を離れ幾日、質の良い紅茶は久々だった。
リアにとってこれ程嬉しい事はない。
気付かぬ内に緩んだ口元に、セルジュが満足げに頷く。
「で、話を戻すけどリアちゃん。貨幣がないのはマズイ。だからあんたにこれを貸す事にする」
担保はその耳飾りだからね、と念を押して渡されたのは小さな麻袋。
中はずっしりと重みがあり、覗けば幾つかの貨幣が入れられていた。
どうやら道中で稼いだ小金を別口にして分けていたようだ。
蝋、塩、砂糖、油、布、お世辞にも贅沢な品質では無いが、きちんとそれを揃えられるだけの潤いがこの辺境にあるのは好ましい事だ。
地方によっては、全く捌けない事もある。
商車の行き来の殆どない土地だが、そこに細々と物と金の流れを作っているのはセルジュ自身でもある。
この辺りに独自の取引先を持つセルジュは、足を運ぶついでに小金稼ぎの小口の売買をしているのだと言う。
売るばかりでなく買取もする。
故に警戒心の強い地方辺境の民達とも親しいのだ。
道中その取引の様子を見ていたリアは、袋を握りその重みを確かめる。
どの取引相手も、お世辞にも綺麗な身なりのものは居なかった。
腰の曲がった老婆が畑を耕していた家もあった。
小さな少女が下の子供の世話をしていたし、同い年だと言っていた女は手肌が荒れてずっと年上に見えた。
リアはずっと見てはいけないものを見ているような、心地の悪い思いで彼らとの取引を眺めていたのだ。
品を買い求めるのは生活を守るため、潤いを得るため。
それでもその貨幣を得るのに、彼らは余程の苦労をしているのだろう。
「私のような人間が、こんなに重たいものを持っていいのかしら」
「へ?重いならその紐肩から下げておきな。盗まれたり無くしたりしなくて済むし」
「そうじゃなくて……ええ、そうよね」
小さく呟いた言葉に、見当違いな返事を貰って、リアは我に返った。
そして言われた通りに肩にかけておく。
それを見届けてセルジュはこほん、と咳をしてから、紅茶を一口煽った。
「えーと、失礼ではありますが。使い方はわかってる?」
「え…?ええ。これを、品や食事、宿を取るときに対価として払うのよ」
「正解、…その硬貨に種類があることはご存知で?」
「…わかるわ。本で見たもの」
セルジュはから笑いして、リアの手の麻袋の底をひっくり返した。
この大陸で硬貨を使用したことのない人間は数種類に分けられるだろう。
奴隷、蛮族と呼ばれるような辺境の民族、そして世間知らずの深窓の君。
それとわからぬようため息を漏らした男をよそに、リアは品良く座したまま小さく首を傾げた。
「あー、リア、見て。この大きさの順に、価値が違ってくる。書いてある通り」
色形の様々な硬貨を順に並べて、刻まれた模様と数字を指してリアはほんのりと微笑んだ。
「…この硬貨の文様は金の獅子ね。イオシア建国の伝承に由来して刻まれた。同じように女神の眷属の天使、女神の持つ矢と審判の聖火。それにこれは建国王…初めてみたわ」
「あぁ…うん、種類は良さそうだね。じゃあ価値を。例えば、この時期市場でこの林檎を買おうと思うと、これと、これが3枚。店で昨日位の食事をしようと思うとこれが2枚とこれが1枚…宿を取ろうと思うと…」
リアは静かに聞き入っている。
単純に興味深いようで、真剣な顔つきだ。
「ならば、昨日のあなたの支払いは過ぎたものだったのね」
「わかっていただけて嬉しいよ。因みに、君のその耳飾りは相場で恐らく…こっちの紙幣がこれくらい積み上がったくらいのもの。俺は専門じゃないけどこれくらいは硬いよ。さらに詳しい鑑定結果によっては倍以上。騙したみたいになるのは不本意だから、先に知らせときたかったんだよね」
セルジュは自分のは懐から一番高価な紙幣を1枚出して、厚みを指し示して、苦笑した。
リアは取り立てて驚きもせずに聞いている。
次にセルジュは皮袋から地図を取り出した。
この国を中心と描かれたそれは、セルジュ自身の走り書きだろう、端の方には意味も分からない文字が木炭で幾つか書き留めてある。
北の関所より手前、南西には女神を頂く霊峰が、そして東には深い森が茂る、その下には中規模の街がある。
街を中心に幾つもの石垣が造られた、北の関所に従軍する兵や役人をはじめとした者が多く住まう、有事に対応し得る半要塞だ。
「俺がキミを送ってあげられるのは…国境の手前、このトリネシアの街まで。このままいけば4日後の夕には着く。それでここからは取り引きに向かうかから。この先は何処へ行くか俺の知ったことじゃない。ただ割のいい取引だから、君の目的地までの足を手配するところまで、手伝わせてもらうよ。東の言葉で、袖振り合うも他生の縁ってね。無事に行き着くといいね」
緑の瞳がにこりと笑う。
片目であっても、この男はとても表情豊かだ。
「あなた、いい人ね。疑わしいくらいに」
「うん?どうぞご自由に。精々警戒しなよ。それくらいでなけりゃ、女の一人旅は無理だ」
はは、と笑い声を上げながら、男は散らばった硬貨を拾い集めていった。