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神代の王国 暁闇の乙女たち  作者: 菫野
永劫の国
3/6

悪魔の赤血・2


狭い部屋に、控えめに扉を叩く音が鳴った。


「入るよ。包帯、変える」


扉の向こうから澄んだ声が抑揚なく響き、扉が押し開かれた。

男は微睡みから覚めて、背にしていた羽毛の枕から、緩慢な動作のまま女の方を向いた。

足音もなく男の横まで歩んで来た女は、手にして居た水桶と盆を傍に置いて、寝台脇の椅子に腰かける。

目に慣れない異質な血色の髪が、女の動きに合わせて肩から滑り落ちた。

男は、〈赤の悪魔〉に命を拾われたのだった。



「腕、貸して」


女は言うと染みのできた包帯をするすると解く。

大分爛れの引いてきた肌を少しずつ露わにしていく、その手つきには危うげはない。

介抱する手には布が巻かれて、肌が直接触れないように配慮されていた。触れれば、呪いを燻らせる事になるからだ。


男がこの小屋に運び込まれたのは、4日前の事だという。

最初の1日は高熱にうなされ、意識は朦朧と混濁していた。

意識を取り戻したのは2日目だ。火傷で腫れた体が殆ど動かせいことを知った。

喉が焼け声が変質している事に気がつき、それでも3日目には肌が裂けない程度に身体を動かす事が可能になった。そして今日になって、やっと上身を起こすまでに回復した。それまでの男の身の世話を、目の前の悪魔の貌をした女は淡々とこなしたのだった。


女は生業を、薬師だという。

ここに運ばれてからの数日、男には毎日まめに特殊な薬湯が塗布された。

女の言葉によれば、まじないの施された特別な薬湯だという。

その実、火傷が癒える速さは異常であるとも言えた。

火傷の類はたちが悪く、酷いものは治りが遅く抵抗力も落ちる。感染症や病をも引き起こし、命に関わることの多い。

男は仕事柄様々な事態に立ち会う事があるが、全身に渡る火傷が数日でここまで癒えるなど、聞いたこともない。どこか薄気味悪くさえ感じる。


女は血の滲み始めた手布をなるべく火傷の箇所に触れさせないよう注意深く動かし、清潔な布を巻き直していく。

患部に水差しに作り置いた塗含用の薬湯を流し掛ける。片手を施し、それを対の腕、上半身と清めていく。頰には布にふくませたそれをそっと推しあてた。

そして洗いたての包帯を巻き始める。

女はその間、一切の表情を讃えない。


「できた。背中も随分良くなった」


取り替えた包帯を纏め始めた女は、男の遠慮の無い目察をも意に介さない。

まともに声が出るかはわからなかったが、試しに男は訪ねた。


「何故、殺さなかった」


掠れてはいたが、伝わっただろう。

びりりと口の端が裂け、血の味が滲んだ。

女はちらり男を見やった。

同じ、翡翠の瞳がかち合う。


「まだ死ねないって言ったのは貴方だ」


桶を腕に抱き立ち上がりながら、気を失った後の譫言(うわごと)、と付け足した。


「呪いは解けない。呪いの苦で死にたくなったら、私がいつでもあなたを終わらせてあげる。…私は貴方に呪いを齎した〈イリスの血族〉から、〈終末を負う者〉と呼ばれている」

「…どういう意味」


問うた男を見下ろし、女は去り際に微笑んだ。


「異端、ということ」


男が目にした女の笑みは、どこか諦めを含んでいた。



5日目には、自ら体を動かすことができた。

6日目に、立ち上がり歩く。

身体のどこが、どの様な状態なのか。ゆっくりと試すように肢体を動かす。

上皮は徐々に再生され、余程の力を入れなければ肌が裂けることはない。常識から見て、やはり異常な回復であった。


寝台から立ち上がり、小さな木窓からの明かりに照らし出された部屋を見渡す。

粗末なまでの広さしかないが、それでも使い込まれた素朴な木の質感には温もりが感じられる。

寝台と鏡台、小さな戸棚の設えを見れば、年若い女の好みそうな小箱や櫛、小瓶に指し掛けの裁縫といったものが少しと、素っ気のない木箱や燈台、本が大半並んでいた。それでも物は少ないと言っていいだろう。


木戸に向かい部屋を横切り、静かに扉を押すと、きぃと音を立てて滑るように開いた。その先は居間だった。

3人程がやっと肩を並べられる程の小さな食卓机と、石を組み合わせて作られた水場、かまどのある天井の低い部屋。

左に外へ続くであろう扉と、右に屋根裏へと続く梯子。

正面のかまどの上には横に広い木戸の窓があり、今は下部から押し上げられ外の木々の緑が覗いて見えた。かまどには大鍋がかけられ、くつくつと何かが煮込まれている。脇の作業台には、様々な道具や名も知らぬ草が広げられ、薬湯の独特の香りが立ち込めていた。


住まいにしては簡素な部屋の、どこにも家主は見当たらない。


左の戸口から外へ出ると、そこには森の木々が切り倒された小さな空間が出来上がっていた。

男は久々の溢れんばかりの陽の光に晒され、地を覆う草花や壁のように広がる森の緑が眩しくて目を細める。

小さく整えられた畑と、積み上がった槙の収まる納屋、丁寧に手入れされ立てかけられた道具類。

そして端には小川が流れており、赤い髪を風に揺らめかせて洗濯に勤しむ女を見つけた。

物干しに布をかけ終えると女はすぐに気付いた様で、桶を抱えて小屋へと戻ってきた。


「体、良いの」

「…おかげさまで」


顔に小さく笑みの形を作った女は、小屋の扉を押し開いて男をを振り返る。


「お腹、空いたでしょう」




目の前に置かれた麹粥を、ゆっくりと口にする。

数日前には水を飲むのにも激痛を伴ったが、今は少し違和感を感じる喉を通ってしまえば空腹に変わりない様で、次の匙へと手が伸びる。

女の前には麹が置かれて居たが、それに手をつけず、新しく湯を沸かしたり水に浸した葉を揚げたりしている。それを目で追う男の視線に気付いて、あぁ、と小さく声をあげた。


「たまに会う友人によく怒られる。行儀が悪いって」


片手間の食事を詫びたが、男は構うことはないと首を振る。元より食事を共にしたい訳でもなく、自身とて多忙な日々では同じ様な覚えがあるので追言するつもりも無い。


「友人とは、悪魔の」

「まさか。イリスは私に関わらない」


少し目を丸めて、手を止めた。


「なぜ。お前はイリスでしょう。異端とはどういうことだ」

「私にはイリスの力は殆ど受け継がれて居ない。母は確かにイリスの血族だった。けれど、裏切り者と呼ばれる人だった」


歯に衣着せぬ男の物言いを、相変わらず女は少しも気にする様子がない。淀みなく単調に淡々と話す女だ。


「母は王国の兵士と駆け落ちした。私は生まれた時からイリスにとっても、人にとっても異端」


ずっと昔に二人とも死んでしまったけれど、と女は付け足した。


「….その呪い。今でこそ大人しいけどまた燻る。イリスの力は、月の満ち欠けに由来する」

「満月に近付けば、また身を焼くと?」

「そう。イリスの伝承に伝え聞く呪いの中でも、それはたちが悪いよ。色々見てきたけど、実際にそんな呪いに掛けられた人は貴方が初めて。元は、拷問の為のもの。…イリスの血族がその肌に触れると、肌から身から全てが焼ける。放っておいても少しずつ蝕んで、やがて爛れた肌が腐り死んでいく」


脅迫の色がある訳ではない、真実を淡々と伝える風だ。男もそれを他人事かの如く能面で聞いている。

互いに愛想の無い事は、この数日で知れた。


「…呪いを解く術があるのかさえ、私は知らない。思ったよりも薬が効いたのは幸運だった。けれど貴方は、近い将来必ず、死ぬ」

「それは怖いね」


ふと笑って、男は食べ終えた食器に匙を置いた。

女の眉根が寄る。


「まだ死ねないと言うのならば、自ら貴方の望む終いを選び取ればいい。それでも私は業を負うもの。一度はあなたの終末を貰い受けた…その責で、見届ける。あなたの、」


ー死の、その時を。

皆まで言う事はしなかった。


「…私がお前に殺される事は無い。例えそれが慈悲であろうが報いであろうが、お前が殺すと言うならば、私はお前を奪う。呪いを甘んじて受けようとも、元より私にはその為に立ち止まる暇は無い」


男は静かに立ち上がる。

女を見下げる態は奢りなどではない、傲慢でもない。

それは常に命ずるものの、剣を抜き立ち続けるものの、孤高であった。


「薬師。…終末を負う娘」


冷たいまでに、端正であり。

そして狂気を宿した強い目があり。

零れ入るあわい陽を得て、白金に縁取る髪が。

この男を示す、全てが。

…気高く、うつくしい。


「わたしのものに、なれ」


赤い髪をした女は、男を見上げた。

その澄んだ緑の瞳は小さく、ちいさく見開かれた。


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