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神代の王国 暁闇の乙女たち  作者: 菫野
永劫の国
2/6

悪魔の赤血・1

鬱蒼と茂る、秘境の森奥深く。

薄暗い木々の底を、冷たい空気が流れてゆく。

辺りに漂う血の臭いに獣たちの気配がざわつき、深い森の静寂に飲み込まれる。


全てを飲み込み覆い隠すような葉の合間を、男は進んでいた。

頭上の木々の間から僅かに窺える太陽を目印に、足早く悪路を往く。

森を行くには荷は少なく、質の良い武具を着込んだ程よく鍛えられた身体には、点々と返り血を浴びている。

その背後には追っ手が迫っていた。

頭の先から足元までを覆う様な黒い外套の人影がちらりと覗いては消え、男はその距離を冷静に測っていた。

時折外套の頭巾から覗く口元が気味悪く笑うのがわかる。

間を取りながらも、人影は慣れた道を行く様に静かに追いかけてくる。

男は期を狙ったように、暫く続いた逃走を迷いなく止めた。


そこは幾許か足元の確かな、高い木々の間に光の落ちる場所であった。

ややあって音も無く木の間に姿を見せた人影は、思ったよりも背丈が低く、華奢だ。


「…あらぁ。追いかけっこはもう終い?」


場に似つかわしくない、高い声が響く。ふふ、と笑いを漏らした艶のあるそれは、楽しげな口調とは裏腹に、恐ろしい程に冷たく響いた。

目深に被った外套の頭巾からは、真っ赤に縁取られた唇だけが覗いている。


「…どう見ても迷子には見えないわねぇ。私達の小さな領域すら侵して、どこの誰が…何を企んでいるのかしらねぇ?」


女はローブを捌き、抜いた短剣を確かめるように眺めた。

男も剣に手を掛ける。金属の擦れる音を立ててゆっくりと抜かれた刀身が、薄暗い森の中で淡い光を放つ。



「…ねぇ、どうしたら教えてくれるのかしら?生き血を啜られたい?それとももっと酷なのがいいかしら」

「…随分とお喋りだな」


男は表情も変えずに言うと、構えを取った。木々に邪魔されなければ、女に致命傷を与える事など男に取って造作無い。


「ふふ、貴方知ってるんでしょう?私達が何と呼ばれているか。だから此処に居るんでしょう?」


女が半歩、歩み出た。

木々の隙間から降る青白い陽に黒い外套が浮かぶように照らされた。


「まぁ、聞かなくても察しはつくけれど。でもね…いい機会だと思うの。あなた達の尊き血のお方に、知らしめる事が出来るでしょう?」


あかく縁取られた口元だけが生々しく弧を描いて、その言葉には次第に怨念が込められていく。


「あなた達の生んだ醜い悪魔は、ずっとずぅっと、あなた達の終焉を願って、今も此処にいるのよって…ふふふ」

「悪魔が。おしゃべりは終いだ」


男は侮蔑を込めて一瞥し、踏み込んで一気に間合いを詰めた。

木々を避け抉るように剣先が走り、女の華奢な短剣が鳴くように音を立て、それを受け止めた。力に押され弾かれた勢いで、すぐにまた女の利き手側に剣が打ち込まれる。反射的に受けた短剣は、男の思惑通り女の体ごと木々の少ない地面になぎ倒される。


力の差は歴然だった。

男は倒れこんだ女に剣先を突きつけ、一歩前に出た。

木々の間から漏れた光が、男の涼し気な整った顔立ちと、うなじでひとまとめにされた白金に透ける髪を照らした。


「お前達が同胞を手にかけたお陰で、生け捕りは取り止めだ。大人しく連れられてくれるならば別だけどね。答えろ…お前達は、何だ」

「っく…ぁはははは、さぁ!どんな答えがお望みなのかしら!」


女は目の前の剣など意にも介さず、狂気を宿す目で男を射抜く。外套から覗くその瞳は、ただ悍ましいまでに異質な血の色をしていた。


「…答える気がないのなら、死んでもらうよ」

「ふふふふ、いいわ!殺せばいい!私を殺すならば覚悟なさい!…業火をお前ににくれてやる」


女は短剣を握り直し、いどみかかった。自らの腕を盾とし、男の構えた剣をかわして。


「っ…ぅぁ…ああぁは、あはははは」


容易く切り落とされた腕に呻き笑う、最早狂った女には迷いなど欠片もない。

男は悍ましさに顔を顰め、女の剣を弾き飛ばした。それにも怯む事なく、とうとう間合いを詰めた女は残された片の手で男の首を掴む。そのままの勢いで覆い被さるように男に向かって倒れ込んだ。


瞬間、女の口から痛みによって獣のような呻きが漏らされた。

剣が、女の横腹を貫いていた。

間近に迫った女の頭を覆う頭巾が、その重みにするりと落ちてゆく。


「っぅ…ふふ…教えてあげる」


露わにされたのは、悪魔と呼ばれる貌。


「これは…身を蝕むばかりの闇よ」


男の頰に流れ落ちたのは、おぞましい程に鮮やかな赤色の長い髪。そして男を射殺すような赤血の瞳。


「王国に…ヒトにより齎された、我らの怒りと…憎しみの、きおく」


切れ切れに言い、震える手を持ち上げる。白く細い手の甲に流れ落ちた自らの血を舐める。


「この目で、見られぬのが…惜しい…お前の、成れの果てを…ふふ」


言うなり、残された方の手で男の額を余力の限り押さえつけた。

女は自らの血で塗れた唇で、男のそれを無理矢理に塞いだのだった。


それは呪わしき口付けであった。


男は抑えられるがまま、顔を顰める。振り払おうと体が反射する前に、異変は訪れた。

皮膚の上に衝動的な激痛が走る。全身の上皮を剥かれたような堪え難いそれは、すぐに熱だと自覚できぬほど。


「っつ…?!」

「はは…ぁはは、あは、ははっ!苦しめ…っ!」


鼻腔が皮膚の焼ける臭いを捉える。男は耐えきれずに呻き叫んだ。


「苦しんで、くるしんで…憎み、怒り、狂い…絶望して、死に行け…!あはは…はっ…」


思考する事も許されぬほどの体の異変に、衝動のまま女を払い落とす。

のたうつ肢体を抱え、地を掻く指先から、背から、足からは肌が焼ける煙が立ち上る。

女は結ばない焦点で笑い、血を吐き出しながらむせ込んだ。


「っな…にを…した…っぐぅう、ぁぁぁ…!」


歯を食いしばり咆哮を耐え、地に伏せながら男は女を見た。しかし既に応えられるような余力は女には無い。短い息を切れ切れに続けながら、喉から風の抜ける異様な音を鳴らして。

それでもその顔は、笑っていた。



どれ程時間が経ったのか、それとも僅かな間か。不明瞭な意識の狭間で男は自らの身から立ち上る煙を眺めた。

皮膚が爆ぜるような痛みはジクジクとむずがるようなそれに変わり、ひどい頭痛を感じながらも意識を保てるようになって来た。

荒い息を繰り返しながら凄まじい喉の渇きを感じる。体の熱が少しずつ治まるのを、麻痺かと疑いながら地面に転がる。

視界に入った腕は所々、焼け爛れている。

向いた先には丁度、息絶えた悪魔がいた。見開いた目は、激情を残したまま。地面に散らばるのが血なのか、髪なのかもよく判別がつかない。

これが、悪魔の正体。

やっと回り始めた頭が女によって齎された身の異変に思い当たって、舌打ちしたい衝動に駆られた。

しかしたったのそれだけですら、思うように体を動かすことが叶わない。

波のように全身に広がる痛みで思考はすぐに断絶される。起き上がる事も出来そうになかった。


「…く…っ…まだ、…」


このような所で、こんな形で。


荒い息の合間から、声にならない言葉が土の上にこぼれ落ちた。

帰らなければ。息をする事ですら痛みを伴う身で、ただそれだけに囚われる。


その時。


がさりと木の葉が揺れる音がした。

柔らかい腐葉土を踏み分ける、それは人の足音だった。

ゆっくりと静かに、それは近づいてきた。

動かせぬ体に制限された霞む視界の中に、今度は何者かの足が写り込む。皮の編み上げに包まれた、華奢な足。


「…騒がしいと思えば」


抑揚のない女の声がする。先ほどの女よりずっと静かな声だ。

冷たい金属の音を聞いて、それが剣を抜く音だと男はすぐに理解する。

自然と息が詰まる。

声の主は静かな所作で、膝を折った。

冷たい指が触れて、男の首を支えた。


視線が合わさる。

…悪魔だった。

鮮やかに目に焼きつく、赤い、あかい髪の、…美しい。


「息はあるの」


男は荒い息を繰り返しながら、腹の底から湧き上がって来た仄暗い怒りに、皮肉な笑みを浮かべた。

今度こそ悪魔は、自分に何をもたらそうと言うのか。想像に容易い。


「っつ…」


首に一段と強い熱を感じて、男は顔をしかめた。

女が触れた箇所が再びチリチリと焼け始め、嫌な煙が立ち上る。それ見た女の顔が、微かに顰められた。



「…呪いを」


男は奥歯を噛みしめ痛みを堪えながら、女の言葉に目を上げた。


「呪い、」


男は呟く。

掠れて自らのものとも思えぬような声が鳴った。

そう、きっとこれは呪いだ。それはとても、たちの悪い。


「残念だけど、助からない」


男の様子を嫌に静かな目で見ている女は、そっと男の首を地面に下ろした。

そうして脇に携えていた細い剣を、慣れた手つきで男の首筋に添える。


「…あなたの終を、私が貰い受ける」


何かがおかしい。

目の前の女は悪魔と同じ貌をして、天使の慈悲を持って微笑んだ。

男が先ほど手に掛けた数人の悪魔とは、あまりに異質だった。


「大丈夫」


木の間から降り注ぐ光に、赤のまつ毛が透けるのが見える。


「土に還るだけ。何も怖くない」


そっと手のひらを持ち上げ、男の瞳を覆い隠した。遂に女が首に添えた剣を引く気配を感じて、男はこぼした。

力の込められた女の拳が、一瞬止まる。


「…しぬのは、」


次の間に、天と地が入れ替った。

大地を鋼が突き刺さり、鈍い音が響く。


「おまえだ」


男はとても立ち上がる事など叶わない様な身体で、それをやって退けた。

白い首筋に寸分狂いなく突きつけられた剣には、先ほど奪った女の血がまだ濡れて滴っている。

地に倒された女は、驚きに目を見開く。しかし大した抵抗をするでも無く静かに男を見た。


「私を殺しても、貴方はやっぱり死ぬ」

「そう、だね」


男は再び笑った。

鋭い眼光は蝋の芯が燃えるような仄暗い光が宿っている。


「でもそれは、お前が決める事じゃない」


玉の汗が額から滑り落ち、地面に吸い込まれた。

女の利き手を封じた手から、肉の焼ける匂いが立ち込める。

呼吸なのか呻きなのかも分からぬ声が、男の喉から漏れていく。それでも男の声に迷いは見られない。

女は静かに瞬きをして、男に言い聞かせた。


「…体の臓を焼き、肌は爛れ腐り、ゆっくり…1日、1日と命を削る。それはそういう"呪い"」

「ならば、おまえが…解け」


真っ直ぐに静かに見つめ返していた女の目は、不意に陰った。

まつ毛が伏せられ、そしてゆっくりと瞬いた。


「それを解く術を、私は知らない」

「っ…」


目の前が揺れる。

既に意識は切れ切れだった。

全身の倦怠感と熱、切りつけたような痛みに目を晦ませる。突きつけたはずの剣がぐらりと揺れる。


ここで終いかと、憤る。

この女の手に掛かり、 死ぬという。

男は己が運命を嘲笑った。

しかし同時に、不思議と安らいだ。


薄れる意識の端で、最後に見慣れた色を捉えたからだろうか。

ただ男を静かに見つめ返す、森の泉のような瞳。自らと同じ…それは。


ー翡翠の、色。


男は、空気を吐くのと変わらぬほど微かにそう口にした。

男は崩れるように、地面に横たわった。

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