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悪魔の笑顔

 エヌ氏は、無能ではないがとりたてて有能というわけでもない、ごく平凡な会社員だった。もう四十近いが結婚はしていない。きっとこれから先もそうなのだろう。エヌ氏はなんとなくそう思っており、また、それでいいと考えていた。気ままなひとり暮らしは、エヌ氏の性に合っていた。




 ある休日の夕方。家事も買い物もすべて終わらせてしまったエヌ氏は、特にやることもなく、家でだらだらとしていた。


 そこに、インターホンのチャイムが鳴り響いた。


 突然の来客に、エヌ氏は、はて、誰だろうと思った。何も頼んでいないから、荷物が来たわけではないはずだ。ならば友人かと言うと、そうでもない。そもそもエヌ氏には、親しい友人などいないのだ。


 エヌ氏は少し不審に感じながらも、とりあえず玄関へ行ってドアを開けた。


 そこには、なんだかよく分からないやつが立っていた。おかしな、と言ってもいい。


 エヌ氏は驚愕きょうがくのあまり、言葉がうまく出てこなかった。


「な、なっ」


「ちょっとお邪魔しますよ」


 そいつはドアのすきまに体を入れ、強引に家に上がり込んできた。あまりに非常識。驚きは怒りに変わり、エヌ氏は強い口調で文句を言った。


「ちょっとあんた。いきなりなんだ、無理やり入ってきて。少し、常識ってものが欠けているんじゃないか」


 しかし、そいつはそれを気にするふうもなく、さわやかな笑みを浮かべて質問に答えた。


「私は悪魔です。実は耳よりなお話があるんですが」


「なに。いま、なんと言った。悪魔だと。ふざけたことを言うやつだ。そんなものが、この世に存在するわけがないだろう」


「そう言われましても、実際にここにこうしているんですから。それにあなた、私の姿を見て、なんとも思わないんですか」


 そう言われて、エヌ氏はそいつの姿をあらためて眺めてみた。しわひとつないスーツ。ぱりっとのりが利いたシャツ。右手には仕事用のかばん。そこだけを見ると、働きものの会社員のように見える。


 だが、まともなのはそこだけで、それ以外はすべてが奇抜だった。

まず、目じりが異様に吊り上がっている。耳は鋭くとがり、髪は一本も生えていない。肌は全身真っ黒で、人間のそれにはとても見えない。そして極めつけが、後ろに見え隠れしているしっぽのようなもの。その先端はスペード型をしていて、空中でふらふらと揺れていた。


 そいつの問いに、エヌ氏は答えた。


「ふん、今はやりのコスプレというやつだろう。全身黒いのは、肌に吸い付く黒い服を着ているだけ。目はメイク、耳は付け耳。つるつるの頭は映画でよく見る特殊メイク。そのしっぽのようなものだって、モーターか何かで動いているに決まっている。そこまでっているところを見ると、よほどのこだわりの持ち主なのか、あるいは特撮映画の仕事でもやっているのだろう。そのあなたが私に何か用なのか」


 エヌ氏の返事に、そいつは吊り上がった目じりをさらに吊り上げて言った。


「これは驚いた。この姿なら、当然信じてもらえるものと思っていましたが、案外そうでもなかったらしい。選ぶ相手を間違えたような気がしてきましたよ」


「それなら帰ってくれないか」


 エヌ氏の拒絶を気にすることなく、そいつは再びさわやかな笑顔を作って答えた。


「いやいや、せっかくこうしてお邪魔したんです。話くらいは聞いていただかないと」


「私にそんな義務はない」


「それに、本当に耳よりな情報なんですよ。どうですか、お話だけでも。私があなたを選んだのは、ほとんどただの偶然です。別に誰でも良かった。それがたまたま、あなたの家をたずね、いい情報をお教えしようと言っているのです。これはチャンスですよ。この機会を逃せば、あなたは大損をなさいます」


 悪魔を名乗るそいつの言葉を聞いて、エヌ氏は考えた。どう考えてもうさんくさい話だ。だが、どうせ暇だったのだ。休日の時間つぶしには、ちょうどいい相手かもしれない。話を聞くだけならかまわないだろう。


 エヌ氏は、悪魔のささやきに耳を傾けてみることにした。


「いいだろう。聞くだけ聞いてやる。ただし、金がかかるようならお断りだ。今すぐ出ていってくれ」


「めっそうもございません。お代なんてけっこうです。私は、これをあなたに受け取ってほしいだけなのです」


 悪魔はそう言ってかばんを開き、親指ほどの大きさの、黒い小瓶を取り出した。


「なんだ、それは」


「これは、願いを三つ叶える小瓶です」


「なんだと。そんなばかなものがあるわけないだろう。私をからかっているのか」


「からかってなんていませんよ。私はそんなことに、興味も関心もありません」


 悪魔はさわやかな、それでいて誠実そのものといったふうの表情で答えた。しかし、エヌ氏はそれを信用しなかった。


「よく言う。悪魔といえば願いを叶えると言って人間をからかい、最後には魂を奪うものと相場が決まっている。おまえが本当に悪魔なら、それこそ私の魂を奪おうとしているんじゃないのか」


「それはおとぎ話ですし、それだって結局のところ、おろかで強欲な人間が悪かったのだという結末ではありませんか。私はからかいもだましもしませんし、魂を奪うなんてこともありません。私はただ、この小瓶をあなたに譲りたいと、心からそう思っているのです」


 どう言われたところで、にわかには信じられない話だ。しかし、仮に本当だとして、そんなすごいものを、悪魔が誰かに譲りたがるのは、いったいなぜだろうか。


 エヌ氏は、その小瓶にいくらかの興味を持った。こいつはなんだか誠実そうだし、本気で言っているようにも見える。しかしそれは、実に考えにくいことだ。そんなアイテムがあるのであれば、普通なら自分で使ってみたいと思うことだろう。


 その点をたずねてみると、悪魔はきちんと質問に答えた。


「実は、私はもうこれを使ったのです。ささやかで、ごくありふれた願いのためにね。ただ、願いが現実に叶うためには、ある条件が必要でした」


「条件だと」


「はい。まず、この小瓶をどなたか別の方に譲り渡さなければならない。そして、その方が願いを三つ言う。そうしてようやく、私の願いは叶うのですよ」


 なるほど、とエヌ氏は思った。何を願ったのかは知らないが、それを叶えるための条件がそういうものなら、譲り渡したいと思うのは当然だ。


「それで私のところに来たわけか」


「その通りです」


「しかし、どうして私を選んだんだ」


「たいした理由なんてありませんよ。さっきも言ったでしょう、ほとんど偶然なんです。たまたまあなたの家が目に入ったので、とりあえずノックをしてみた。そうして出てきたのがあなただった。それだけです」


 どうやら、偶然というのも本当らしいな。さっき、他ならぬ悪魔自身が言っていたように、物語の悪魔は人間をだまさない。人間がおろかだっただけだ、というのが定番だ。欲におぼれた人間があいまいな願いを言うから、とんでもないことになるのだ。悪魔は願いをそのとおりに、人間が口に出した内容の範疇はんちゅうで叶えただけだ。


 ならば、この悪魔は本当に嘘を言っていないのかもしれない。


 エヌ氏は少し身を乗り出して、悪魔にたずねた。


「つまり、お前は本当に悪魔で、自分の願いを叶えるために、その小瓶を私に受け取ってほしいと、そう言うのだな」


「その通りです」


「なら、ひとつ気になることがあるのだが」


「なんでしょうか」


「お前は、何を願ったんだ」


 悪魔は表情を変えず、相変わらずさわやかな笑顔で答えた。


「たいしたことではありませんよ。もう少しだけいい暮らしをしたいとか、そんなありふれた願いです。それを願って小瓶を使い、願いを現実のものにするためにここへ来た。そしてあなたにこれをお渡しする。そうしてやっと、私は元の生活に戻り、願いも叶うのです」


「本当に、ありふれた願いだな」


「私にだって、生活がありますからね。いろいろあるんですよ」


 悪魔の生活か。興味深いな。


 エヌ氏はそんなことを思っていたが、同時に、気になったことがひとつあった。


「今おまえが言った、元の生活に戻る、とはどういうことだ」


「願いを現実にするためには、こういうふうにお譲りする方を探して回らなければなりません。お恥ずかしい話ですが、私は見知らぬ他人と話すのは苦手でして。今もけっこう、つらいのですよ。つまり、早く元の生活に戻りたいというのは、こんな面倒ごとはさっさと終わらせたいと、そういう意味です」


 悪魔の言い方が妙に回りくどく聞こえ、エヌ氏は少し引っかかりを覚えた。だが、エヌ氏も人付き合いの良い方ではなく、その気持ちもわからないではないし、また悪魔が人見知りというのもなかなか面白かったので、まあ飲み込んでおくことにした。それにこの悪魔は、どうやら本当に嘘は言っていないらしい。ささいな違和感に、そこまで執着することもないだろう。


「それで、小瓶を受け取っていただけるのでしょうか」


 妙な共感を覚えていたエヌ氏に悪魔が再びたずね、エヌ氏は少し思案してから答えた。


「いいだろう。どうやら嘘は言っていないようだ。何も起こらなかったとしても、話の種にはなる。それにもし本当に願いが叶ったなら、こんなありがたい話もない。もらっておくとしよう」


「おっしゃるとおり、嘘などひとつも言っておりません。頼みを聞いていただいてありがとうございます」


 そうして悪魔は小瓶の詳しい使い方を説明し、では私はこれでと言ってあっさりと帰っていった。




 小瓶を受け取ったエヌ氏は、さて何を願おうかと考えた。金がいいだろうか。女がいいだろうか。地位や名誉がいいだろうか。


 しかし、安易に願うと、いったいどうなるか分からない。なんと言っても悪魔の小瓶だ。たしかに願いは叶うかもしれない。だが、とんでもない叶えられ方をしては、たまったものではない。


 エヌ氏は、具体的な内容をじっくりと検討してみることにした。明確に、別の解釈の余地のないように願えばいいのだ。それを怠ったやつが、だまされたと言っているに過ぎない。自分はそんなおろかものではない。


 しばらく思案し、やがて願いは決まった。それほど大げさな願いにはならなかった。そこそこの金、ほどよい健康、気ままな生活の維持。このくらいが分相応という気がする。あまり極端なことを言うと、想定外のことが起こるかもしれないからな。やはり、無理のない願いにしておくのが無難だろう。


 それからエヌ氏は、願いの内容を厳密に考えながら、紙に書き出した。金は、このあたり一帯に落ちている金をまとめて家の中に出現させれば、そこそこの額になるんじゃないかな。健康は、これから死ぬまでのけがや病気をすべて設定してしまえばいい。最後のひとつが難しいが、今後の人生をしっかり設計すれば、なんとか書き上げられるはずだ。


 そうして数ページにわたる願いの文章を書き終え、いよいよ小瓶を使ってみることにした。


 小瓶の口には小さな穴が三つ空いていて、それぞれにコルクの栓がされている。あの悪魔の言うことには、この栓を一つ抜くごとに、一つ願いを言えばいいということだった。


 エヌ氏は栓を順に抜き、願いを言い始めた。一つ目を唱え、二つ目を口にする。


 そして、三つ目の願いを読み終えた。


 次の瞬間、全身から薄く煙が立ちのぼり、エヌ氏の姿かたちが変貌した。


 吊り上がった目じり。鋭くとがった耳。つるつるの頭。真っ黒な肌。そして、先端がスペード型をしたしっぽ。


 自分の体を見て、エヌ氏は呆然とした。何が起こった。これはなんだ、どうしたことだ。私が悪魔になったのか。さっきのあいつが悪魔じゃなかったのか。


 エヌ氏は、顔を触ったり、頭を撫でてみたり、尻尾を動かしてみたりといろいろ確認してみた。しかし、鏡に写った姿を目にして、ついに事実を認めざるを得なくなった。


 つまり、私はだまされたのか。あいつは、願いを叶える小瓶だと言った。だが、私はこんなことを願ってはいないぞ。


 そう思ってふと小瓶に目をやると、抜いたはずのコルク栓は、どういうわけか元のようにふたをしていた。


 エヌ氏は混乱しつつも、必死に考えた。


 小瓶の中には、なにか悪魔的な力が入っていて、人間を悪魔に変える作用があったんじゃないか。


 私の願いが叶うためには、この小瓶を他人に譲らなければならないとあいつは言っていた。ということはひょっとすると、さっきのあいつもどこかの誰かから同じようにこの小瓶をもらい、悪魔の姿に変えられた人間だったということか。


 ならば、あいつの願いは今ごろ、無事に叶っているということか。


 そういえばあいつは、これで元の生活に戻れるとかなんとか、そんなことも言っていた。あれはつまり、私が悪魔になれば、あいつは人間の姿に戻れると、そういうことか。


 いや、それだと、あいつだってその前の悪魔から聞いただけだということになる。だから、本当なのかはわからない。


 だが、近所で悪魔が増えている、という話も聞かない。つまり、ちゃんと元に戻れるのだろう。そうでなくては困る。


「それなら、やることはひとつだ」


 エヌ氏はそうつぶやいて、ゆっくりと立ち上がった。


 のりがよく利いたシャツを選び、スーツをきっちりと着る。鞄を用意して小瓶を入れる。そっとドアを開け、あたりを確認して家を出る。人通りの少ない道を選んで歩き、家から少し離れたところにある、独身の男ばかりが住んでいるアパートに向かう。そして、明かりのついている部屋を適当に見つくろう。


 部屋の前まで来たところで、エヌ氏は少し考えた。


 だますようで気が引けるが、なに、実害はないのだ。多少の苦労をすることにはなるが、ちゃんと元に戻れるのだから、深く悩むようなことでもない。


 だいいち、あいつがそうだったように、私も嘘を言うわけじゃない。きちんと元に戻れるように誘導もしてやるのだから、何の問題もない。


 それにそもそも、私は悪魔ではない。善良な人間なのだ。善良な私が元の姿に戻るために、ちょっと手を貸してもらうだけだ。次のやつが少しばかり困ったとしても、それくらいはきっと許されるだろうし、許されるべきだろう。


 自分自身を納得させるように大きく何度もうなずきながら、エヌ氏はインターホンを鳴らした。開いたドアのすきまから、ちょっとお邪魔しますよと強引に上がり込み、まるで人間のようにさわやかな笑顔を作って、エヌ氏は言った。


「私は悪魔です。実は耳よりなお話があるんですが……」

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