電話
ひとりの女が、仕事帰りの夜道を歩いていた。時計はすでに十一時を回っている。昼間でも人通りの少ないこの道は、夜遅くともなるとしんと静まりかえり、どことなく不気味でさえあった。
そのとき、後ろから伸びてきた手が、女の口をふさいだ。手の主は女の耳元に口を寄せ、くぐもった声でこうささやいた。
「さわぐな。もしさわいだら、このナイフがどうなるかわかるな」
街灯の明かりを反射したナイフが、女の喉もとで鋭く光っていた。おそるおそる振り返ってみたが、覆面をかぶっていたため、顔はまったくわからなかった。ただ、声がくぐもっているのは、覆面のせいらしい。
犯人の言葉に、女はこくこくと頷いた。そして布を渡され、言われるままにみずから目隠しと猿ぐつわをつけた。その間もずっとナイフを突きつけられており、抵抗のしようがなかった。
さらに手足も縛られて、女は車のトランクに放り込まれた。やがて車は低いエンジン音を立てて動き出し、どこかへ向かって走り始めた。
女はトランクの中でおびえながらも、犯人は誰だろうかと考えた。だが、特に心当たりは見つからなかった。声も聞き覚えはない。何せ、くぐもっていてよくわからなかったのだ。男のようでもあり、女のようにも聞こえた。
いや、今はそれどころじゃない。なんとかして逃げ出さないと。
そう気づいたところで、ふと、ポケットの中に携帯電話が入っていたことを思い出した。ハンドバッグは奪われていたが、電話はたまたま、パンツスーツの中にしまっていた。
身をよじり、女はどうにか後ろ手で電話を取り出した。ボタン式の携帯電話を開き、かけるべき番号を考える。警察? いや、猿ぐつわの状態じゃ、うまく話せない。いたずらだと思われてしまう。両親なら気づいてくれるかもしれないけれど、実家はあまりに遠いし、手間取りそう。
どうしようと悩んだ末、女は親友に助けを求めることにした。すっかり暗記していた番号をプッシュすると、電話の奥から聞いたことのあるメロディーが流れ始めた。ついこのあいだ会ったときに言っていた、話題の新曲だった。
その直後、同じ音楽が別のところから聞こえてきた。ちょうど、運転席のあたりから……。