彼女を刻んだ懐中時計
僕と彼女の思い出は、三枚と半分。たったそれだけ。
それだけで彼女は、逝ってしまった。
僕らが出会ったのは、何てことないただの合コンだった。その当時僕には付き合っている人がいたのに人数合わせで呼ばれて、仕方なく参加した。
僕は元々人と話すのは苦手なほうだ。人の多い空間にため息が出そうになるのを懸命にこらえる。顔に寄ってくる女の子たちの話をうんうんと聞き流し、適当に愛想笑いを浮かべながら接していると、そのうち僕がつまらない人間だと分かったのか、女の子たちは離れて行った。やっと、落ち着ける。そう思いながら僕は大学用のリュックからミラーレス一眼レフを取り出し、最近撮った写真を片手間に見返していた。ふと、頰に息のかかる感覚がし、甘い香りが僕の鼻孔をくすぐる。何気なくその方向を振り向き、驚いた。かなり近い位置に見知らぬ女性が座っており、しかも僕の手元をまじまじと見つめているではないか。
「あの……」
いつの間にか隣に存在していた女性に、恐る恐る声をかける。誰だろう、この人。
「あ、急にごめんなさい! なにしてるのかなって気になっちゃって。写真、好きなんですね」
「あぁ、うんまぁ」
「私、撮るのは苦手だけど見ることは好きで、盗み見するつもりはなかったんです」
と言いつつこの人、がっつり僕のカメラ覗いてたよな。別に変な写真があるわけでもないからいいんだけど。
「あの、気を悪くされたのなら謝ります。私いつもこうで、興味惹かれるものに対しては猪突猛進と言いますか、その」
「いや、いいよ。こんな場所で他ごとしてた僕も悪いんだし。それより、君は向こうに混ざらなくていいの」
僕は出来上がった奴らの馬鹿騒ぎをちらりと横目で眺めて言う。するとこの女性は苦笑して、僕の隣に改めて腰を落ち着け直した。
「私、見た目こんなだし騒がしいしよく喋るし、ああいう人達と同じように見られること多いんですけど……はは」
どうやら僕は、失礼なことを言ってしまったようだ。
「あの、迷惑でしたか?」
そう困り顔で問われ、慌てて首を振った。むしろ、そんな風に思わせてしまったことに申し訳なさを感じる。そんなつもりはなかったのだが、あるいは厄介払いをしたように受け取られてしまったかもしれない。
「君がここに居たかったら、居ていいよ。……写真、見る?」
「えっ、いいんですか。その……嬉しいです」
女性の顔がほころんだ。心からふわっと温かいものが溢れ出してきたかのように、本当に幸せそうに僕を見上げる。
「えっと、好きなジャンルとかある。風景とか、建物とか、花とか」
「全部、全部見てみたいです」
女性に見やすいようカメラのディスプレーを傾けて写真を次々に送っていく。女性は時折わぁ、とかおー、とか呟きながら瞳を輝かせた。本当に写真が好きなのだろう。自分が趣味程度に撮ったものでここまで喜んでもらえるとは、率直に嬉しかった。
もっと見て欲しい、そう思ってしまうのは、致し方ない感情だろう。
やがて、合コンはお開きとなり、ノリだけで生きてるような奴らが二次会だカラオケだと騒いでいる。僕はそっと人混みから離れ帰路に着こうとした。
「あのぉ」
「君も帰るだろう。駅まで送る」
傍らで僕のカメラをおずおずと差し出す女性に、素っ気なく返事をする。僕はカメラを受け取らず、そのまま駅の方向へ歩き出した。
「あの、カメラ」
「メモリーカード貸す。バックアップはもうとってあるから。好きな写真選んで保存していいよ」
「どうしてそこまで。だって今日、初対面なのに」
僕は分かりやすく咳払いをしていた。女性はそんな僕の半歩後ろをついてきながら、首をかしげる。
「写真、気に入ってくれたんだろ。それ以外に理由とかいる」
「い、いえ! 嬉しいです。でもあの、彼女さんいるんですよね」
どこでその話を聞いたのか。僕は話した覚えないぞ。
「幹事さんが、その、あなたに話しかけるか迷っていたら、諦めなって……」
あの馬鹿が、だったら僕を合コンに誘うなっていうんだ。視線をちらりと女性の方に向けると、焦げ茶色のベレー帽と緩くパーマのかかった明るい茶髪だけが電灯に照らし出されていた。顔は分からない。うつむいて、何か考えているようだ。
「元々人数合わせだった。こんな性格だから、人付き合いとか好きじゃないし。ただ、君と話してるのは楽しかったよ」
「か、彼女さんに悪いです」
「君にその気があるなら、今すぐに別れても僕は構わない」
そんなことをさらりと言ってしまえるほど、僕はこの女性が気に入っていたらしい。僕は感情表現が豊かではないが、自分に嘘はつかない主義だ。小っ恥ずかしい言葉でも本音なら言える。
「それよりさ、今何時」
僕は抑揚のない声で尋ねた。遠くの方に駅の明かりが小さく浮かんでいる。隣で僅かに、金属のチェーンが擦れあう音がした。
「あ、はい、今はですね……もうすぐ十時です。電車の時間ですか?」
「いや、聞いてみただけ」
女性はまた不思議そうに首をかしげ、コートのポケットに古めかしい懐中時計をしまった。合コンの最中、何度か確認していた懐中時計。今時おしゃれなものが多いブレスレットのような腕時計ではなく、あえて場所をとる懐中時計を使っていることに、何か意味はあるのだろうか。
僕は密かにこの懐中時計が気になっていた。かちっと音を立てて開く蓋、手巻き式の針、ローマ数字で書かれた文字盤。女性の趣味、にしては随分と印象が違うような、でも写真好きみたいだしレトロなものに興味があるのかもしれない。
「あ、もしかして私帰りたがってるように見えましたか……?」
「えっと、うん、まぁね。時計、何度も見て時間気にしてるようだったから。君の性格だと二次会とか断りづらいのかもしれないし、僕についてきたら抜けやすいだろうと思って」
「ありがとうございます、優しいんですね。実は明日の課題がまだ終わってなくて、助かりました。あ、でもこれは勘違いしないでください。私、あなたと話すのはとても楽しかったですよ。今ももっと話したいなって……だからこうして一緒に居られて嬉しい。やっと、やっとです」
両手を胸の前で合わせて握りしめ、女性は顔を上げた。その顔は雪のように白く淡く、夜の闇に溶けてしまいそうで愛おしかった。なぜ会ったばかりの女性がこれほど気になるのか、分からない。それでも今触れないと消えてしまう気がして、僕は手を伸ばした。
「で、さぁ。さっきの返事だけど」
女性の頬に触れる直前で手を止め、震える声を抑えながら確認する。ここで聞いておかなければ、僕はとんでもない過ちをしてしまいかねない。
「もちろん、嬉しいです。これからも私、あなたと話がしたい」
僕は女性に触れた。女性の頬は思ったより暖かくて、柔らかかった。初めて自分から女性に触れたいと思い、その欲を叶えた瞬間だった。
次の日僕はその時の彼女を呼び出して別れを告げた。彼女は少し不服そうだったが、納得してくれた。既に愛なんて冷めきった関係だったんだ。彼女は僕の顔が好きで、余計なことを話さない僕と一緒にいるのは気が楽なだけだった。しかし、彼女も一般的な目線で見ると可愛くて綺麗な人。彼女にとって僕では、刺激が足りなさすぎる。そのうち別れる運命なのは互いに感じていたし、僕に限っては告白されたから付き合ったに過ぎず、彼女を好きだと思ったこと、素敵だと思ったことは一度もない。彼女はただの一般的に可愛くて綺麗な人でしかなかった。僕の被写体ではない。
しかし、合コンで出会った白雪のような女性は、沢山の美しい背景の中で撮りたいと思った。その柔らかな頬と髪を、もっと撫でたいと思った。
女性改め今の彼女は、一見するとイケイケ系の派手なグループに属する、僕とは対照的な人のようだった。しかしその実、本が好きで特に写真集を買い漁ることが趣味で、お酒は付き合いの一杯しか飲まない、少しオタク気質のある人だった。よく喋るけど余計なことは喋らなくて、声も明るいのに心地よくて、ころころ変わる表情一つ一つが印象的で、白雪の頬が紅潮した瞬間は、何より美しかった。帽子が好きで、週替わりで様々な帽子をかぶって大学に来る。学部は違うけど隣の棟なので、空き時間にはよく待ち合わせて、写真家の話や撮りに行きたい場所の話をした。
美しい彼女、素敵な彼女。しかしなかなか、写真は撮らせてくれない。どうやら彼女自身、撮りはしないものの完成にはこだわりがあるようだ。ちゃんと絵になる場所でなければいけないと頬を膨らませて訴えられたことが何度もある。その代わり、彼女の懐中時計は何度か撮らせてもらった。光の反射具合や僅かなくすみが絵になる。でも一番のお気に入りは、彼女に内緒で撮った、陽だまりの中懐中時計を眺める、落ち着いた雰囲気の彼女の写真だ。
彼女はよく時間を確認する。一分一秒も無駄にしたくないからだそうだ。それでも、写真の話をする時は全く懐中時計を見ないのだから、その瞬間は彼女にとって無駄じゃないのだろうと思えた。なぜ懐中時計なのか、彼女は大切なものだからと答えた。長い時間持ち主を見送ってきたかのようにところどころ削れ凹み、しかしなお動きを止めない懐中時計は、女子大生が持つにはあまりにもそぐわない。ただ、彼女がじっと懐中時計を見つめ考え事をしているその時は、非常によく似合っていて、まるで何十年も前からずっと共に歩んできたかのような、貫禄のようなものがそこにはあった。きっと彼女の家で何代も受け継がれてきたのだろう。彼女のことを一番知っているのは、あの懐中時計に違いない。
「写真を撮りに行こうと思う」
そう僕が呟くと、彼女は待ってましたとまん丸の瞳を見開いて身を乗り出す。週末に出かけることがすぐに決まった。もちろん彼女も一緒だ。撮影目的ではこれまでに二回出かけていて、今回は三回目になる。ちなみに、各一回ずつしか彼女は自身の写真を撮らせてくれなかった。理由は、何枚も撮れるのではつまらない、貴重な感じがない、一枚を大切にして欲しい、飽きられたくない、などいろいろ。とにかく、断固として一枚しか許してはくれないのだ。僕は何枚撮ってもどれも素敵だと思うのだが。そういえば、複数枚から最高の一枚を選ぶ時に、選ばれず削除された写真に写っている私がかわいそう、なんてことも言っていただろうか。まぁ、たった一枚でも確かに素晴らしいものが撮れるのであれば、僕だってそれで構わない。
「ここ?」
彼女が振り向く。本物の白雪の中、彼女がくるくると舞い踊っていた。
今日は本当にいい日だ。まさか、珍しく降った白雪の中、夕日に照らされた教会の前で彼女が撮れるなんて。
「そこで止まって!」
絞りを調節、ピントが彼女に合う。白に紛れてしまう前に、彼女の一瞬を写し取る。
デジタルの画面に、淡い朱に染まった世界が刻まれる。彼女は、笑っていた。
「半分ね」
「どうしてさ」
撮れた写真を確認して、彼女は唇を尖らせた。
「わたしはこの背景に見合わない。せっかくの景色を壊してしまったわ」
そんなのは謙遜だ。彼女は充分に釣り合っている。でも、言われてみればなんとなく物足りない。彼女のせっかくの髪が光の加減で少しぼけて見える。それに何か、忘れているような。
「あ、懐中時計……僕が持ったままじゃないか」
「なんだ、忘れてたの」
「むしろ君は覚えてたのか」
彼女は画面から目を離していたずらっぽく微笑んだ。
「だって渡したのは私だもの。それとも、懐中時計がないからいい写真にならなかったとでも思ってる?」
「そうは言わないよ。君は君だけで素敵さ。これは僕の技量不足だ。懐中時計は引き立て役って感じだから、なくても構わないはずなのに」
僕がまじめに首を振って答えると、彼女はすました顔で視線を上に向けた。大抵彼女がこういう顔をする時は、なにか裏の考えがある時だ。僕は内心でやられたなと顔をしかめる。
「ふーん。実は私ね、何の意味もなくその懐中時計を渡したわけじゃないの」
ロングコートの裾をわずかに揺らしながら二、三歩僕から離れ半回転する。細く短い髪が風に吹かれ彼女の頬をくすぐった。それでも、確かボーラーハットって言うんだったか、彼女が気に入っている丸いつばのこじゃれたハット帽は、淡い茶の髪をそっと押さえ平然とそこに居座っていた。
「私が時計を渡したわけ、それはね」
僕は一瞬目を伏せた彼女の美しさと、次に放たれる言葉への緊張から、口内に溜まる唾を飲み込んだ。
「あなたに私の一部を持っていて欲しかったからよ。たとえそれが一瞬だったとしても」
「じゃあ、半分ってそういうこと? 嵌められた」
僕はわざとらしく左手を額に当て首を振る。すると彼女は僕の傍まで来て上着のポケットに手を滑り込ませ、するりと懐中時計を取り出した。
「それはどうかな?」
懐中時計を顔の高さに持ち上げて揺する。チェーンがしゃらしゃらとやさしい音をたて彼女の手首に巻きついた。それはまるで、懐中時計が主を理解し、元ある場所へ戻った喜びを表しているようで、僕は少しだけ妬いてしまった。
「この子は私の大切な一部。私という存在を共にこの世界に刻んで、これからも刻み続けるもの。でもこの子だけなら、それは私ではない。私が持つからこそ、この懐中時計は私の一部となるの」
「それほど大切なものなら、不用意に人に渡してはいけないよ」
「それは、あなただからいいの。あなただって、私と共に時を刻み続けるものなんだから」
よくもそんな大胆なことを平然と言えるもんだな。けど、だからこそ主張の苦手な僕は惹かれてしまうのだろう。僕だって本心なら照れくさいことだって言ってみせる。けど、それは本当に言う必要がある時に限る。いつだって何でも言えるわけではない。こんな彼女の一面を知っているのが僕だけならいいのに。
「ねぇ、もう一枚」
みっともないけど、この高揚した気分に任せて僕は負けじと追いすがってみた。しかし彼女は華麗に受け流す。
「だめだよ、もう今日はお終い」
懐中時計を自らのポケットにしまい、諦めきれずまだカメラを持ったままの僕の右腕に左腕を絡ませる。仕方ない、か。彼女が半分と評そうが、それでもこの中に彼女の半分は写し取れたと思って今日は我慢しよう。
僕は彼女のいたずらに見事引っかかってしまったようだが、またの機会に、もっといい写真を撮ればいいだけじゃないか。けど、今度は必ず懐中時計を持たせよう。また半分なんて言われたらたまったもんじゃない。そこに彼女のどんな思いがあるか分からないが、二連続はさすがにきついからな。もし持った状態でも駄目だったなら、その時は現実を認めようじゃないか。そして彼女が満足するような写真を撮るために、もっと腕を磨こう。やっぱり、彼女に認められる写真を、完璧な状態で撮れなければ意味がないからな。
しかし彼女は、その日を境にもう二度と写真を撮れない姿になってしまった。
僕と彼女の思い出は、三枚と、彼女が評したその半分。たった、それだけ。
それだけで彼女は、逝ってしまった。
こんなことになるのなら、たとえ出来が悪くとも、もっと写真を撮ればよかった。半分でもそれ以下でも、積み重なれば沢山の思い出。なのに彼女は、僕に三枚と半分の思い出しか遺してくれなかった。意地悪にもほどがある。
三枚半の思い出と形見の懐中時計を抱えて、僕はこの先を生きるのか。生きられるのか?
あそこまで誰かに惹かれたのは、たぶん彼女が最初で最後。なぜあれほど惹かれたのか、正直僕にも分からない。ただ彼女には、なんらかの因果が複雑に絡みついたような、不思議な力があった。そんな気がする。もしかしたら、懐中時計が彼女に特殊な空気を纏わせていたのかもしれない。ならば本当に、彼女の半分と言っても、過言ではなかったのだろう。彼女の母親から渡されたその半分を手に、僕は通夜の帰り道、途方に暮れていた。
明日、目が覚めたなら、或いはこの懐中時計が巻き戻り、彼女が死ぬ前の世界に、なっていたりしないだろうか。彼女を刻んだ時計なら、過去の彼女を呼び覚ますことだって出来そうなものだろう。僕はきみの主になることは出来ない。だってそれは、彼女が一部だと言ったきみを失うことだから。きみだってまだ彼女の半分であるうちに、正しい主の元に帰りたいだろう。
なんだ、私の願い、無事届きそうね。
不意に、彼女の声が背後から聞こえた気がした。当然振り向いても、そこには何も、誰も居ない。分かっていたのに、その現実が苦しかった。握りしめた懐中時計を額に当てる。手が、震えた。熱い雫が頬を滑り落ちる。彼女の温もりが、僅かでも懐中時計から伝わるような、そんな気がして、暗闇の中しばらく、俺は立ち尽くしていた。
朝、目が覚める。何かとても辛いことがあったような気がして、胸が痛んだ。夢でも見ていたのだろうか。眉をしかめて軽く伸びをしながら起き上がり、何気なく机の上にある懐中時計を手に取る。
あれ、僕いつの間にこんなもの買ったんだ。昨日拾ったんだっけなぁ。なら、朝のうちに大学の事務室にでも届けるか。持ってて泥棒扱いされても気分悪いし。
首を回し、携帯で時刻を確認する。まだ出かけるまでに余裕はあった。のんびり朝飯を食べて、それからやることを確認……って、そうだ、今日は合コンだ。参加してくれって頼まれたんだったな。面倒くさい。俺には何よりも大切な彼女がいる、はず?
あれ、今の彼女のこと、そんなに好きだったかな。だいたい僕が自ら女性を愛することなんて、今までにあったか?
じゃあこの思いは一体……頭に一瞬浮かんだ女性は、誰だったんだ。
あぁ、また胸が苦しい。本当にどんな夢を見ていたんだろう。まぁいい、とにかく準備して出かけよう。家にいても仕方ないし、夜に色々出来ない分早めに大学に行って写真の整理でもするか。彼女に見せる写真でも選んでおこう。合コン、早く帰れるといいんだがな。
僕は、何か納得がいかない、思考回路に霞みがかったような複雑な感覚を忘れるため、普段より素早く行動し、さっさと家を出た。コートのポケットには、あの懐中時計を入れてある。よく分からないが、今日持っていかなければいけない気がした。いや、拾い物なんだからすぐに届けるのが正しいんだ。なに当然のことを、俺は改めて考えているんだ。
「あの、その懐中時計私のなんです。返してくれますか」
突然声をかけられ、僕は顔を上げる。目の前には、僕をおかしそうに見つめる女性が一人、僕のポケットを指差して微笑んでいる。薄茶の柔らかな髪、今日は、白のニット帽。出会ったばかりの女性をまじまじと見つめていることに気づき、僕は慌てた。
「ああの、これですね、たぶんどっかで拾って、その」
女性が差し出した真っ白な指に、ポケットから取り出したものを乗せようとする。迷いなく動かしたはずの腕が、ふとその動作を中断させる。あれ、そういえばどうしてしまっていたはずのこの懐中時計に、この女性は気づいたんだ。
僕の手は、女性の指先に触れる瞬間で時が止まったかのように微動だにしない。不安と焦燥に駆られ、周囲の景色すら静止して見えたその空間で、僕の心臓だけが何かを告げるように大きく脈打っていた。
「どうかしましたか?」
女性が笑顔のまま僕に尋ねる。その表情を見て、なぜか切なさに胸が痛んだ。朝起きた時と同じ、いやそれ以上に、苦しくて、呼吸すらままならなくなる。
「やっぱり、渡せない」
どうにかそれだけ呟き、僕は手を引っ込めようとした。
「渡したら、何か大切なことを忘れてしまう気がして、今もやもやしているもの、思い出せそうなものすべて失う気がして」
自分でも、何を言っているのかよく分からなかった。それでもここで大人しく懐中時計を渡す気にはなれない。すると女性は顔をほころばせ、それから僕の出した手を両手で包み込んだ。
「心配しなくても、もうあんなヘマはしませんから。安心して、私に任せてください」
女性は僕の目をじっと見つめる。柔らかな唇が言葉を紡ぐ。
「確かに、急にホームで人にぶつかられた時はびっくりしました。しかもそのまま足滑らせて線路に落ちるとか、何のギャグかと思いましたよ。電車も来るし。その瞬間、まずいと思っていつもみたいに時計の力を使ったんですけど……なんか、直前まであなたに渡していたからか懐中時計が主を迷ったみたいで。それで発動までに少し時間がかかったみたい。ちょうど私が死んだのも黄昏時でしたし、迷っても仕方がなかったのかも」
僕を試すように、女性は僕を見上げ続ける。どうしてよいのか分からず、僕はたじろぐばかりだ。しばらくすると、女性は愛おしげに僕に笑みを投げかけ、なおも話し続ける。
「あなたも、同じことを願った」
心臓が一度、大きく跳ねた。
「だから、懐中時計は自分のすべきことに迷わなかった。ありがとう、私の好きな人。何度繰り返しても、必ずあなたを手に入れてみせるから」
そして女性は、僕の手からするりと懐中時計を奪い去った。人ごみに姿が紛れてゆく。
「あの、最後に一つだけ」
追いすがるように手を伸ばして僕は言う。女性は振り向き、人差し指を口にあてた。
「最後じゃない。これから、始まるの」
そのまま、女性は居なくなった。
「なぜあなたを好きになったのか。そんなことは、今更どうだっていいの。ただ私はあなたが欲しい。それだけよ」
不思議で、妖しくて、しかしどうしてか懐かしいその声が、僕の脳内を駆けて消える。
今、何があったっけ。よく分からない。けど、今日の合コンには、なぜか期待が持てる気がした。僕好みの素敵な女性が、きっとそこに、待っている。
大変お久しぶりでございます。ええそうです、春風 優華です。
一月に課題で提出したものを、もう時効かと思い投稿します。本当はもっと早く上げれたんですが、見事にめんどくさがりを発動していた結果、新学期始まって一か月が経とうとしていました。
小説は、友人に何度も推敲してもらった結果、なんとか課題で提出できるレベルにはなりました。成績もそこそこだったので安心しています。最後にあっと驚かせる話を書きたいですが、難しいですね。プロの短編小説を読んでいると、どうしてこうも上手に読者を騙せるのか……と感嘆します。真似できたものではないですね。
「君の名は。」を見たあたりで書いたといえば、ああなるほどという展開ではありますね。なんでも取り入れたい盛りだったんです。ですが、今は一向に筆が乗らず、見事に何も書いておりません。書きかけても挫折して放置です。情けない限りですね、誰か一発殴ってやってください。泣きます。
自分語りばかりになってしまいますので、このあたりでお暇します。
それでは、また。
2017年5月1日火曜日 春風 優華