プロローグ
人は死んだらどこに行くんだろう。
天国かな?地獄かな?でもここはまだどちらとも違う。
延々と続く川の端を私はずっと歩いている。きっと向こう岸へ行くんだろう。
今となっては自分が何で死んだのかも覚えていない。どうでもよかった。
だってそこには戻れないから。
足が冷たい水に触れた。もう行ってしまおうか。
ぼんやりした頭で考えていると後ろで誰かの泣く声が聞こえた。
振り向くと黒っぽい髪をした幼い少年が泣いていた。
ここへ来たばかりなんだと思った。
「少年、なんで泣いているの?」
川へ向きかけていた足を少年へ向けると私は声をかけていた。
私よりちょっと背の低い少年に視線を合わせるように屈むとその赤く腫らした目と合う。
泣きながら少年はいう。
「僕は戻らなきゃダメなんだ。でも道がわからないんだ。」と。
少年は「戻る」と言う。どこに?
少なくともこの少年は私にはもうない生きている頃の記憶があるんだろう。
自然と少年に手を差し伸べた私は「じゃあ、一緒に探してあげる。」と言っていた。
うらやましかったのだ。私にはない希望を持つ少年が。
なぜか助けてあげたい気持ちになった。
笑顔になった少年は涙で濡れた手を服で拭うと恥ずかしげに私の手を握った。
そして川の端を歩きながら少年は私に住んでいる場所のことや人のこと、美味しい食べ物のことにきれいな景色の話を聞かせてくれた。
それから
「ドラゴンがいるんだ!」
「ドラゴン・・・?」
少年は楽しげに話す。
「すごく強くて、炎とかも吐いて、恰好良いんだ!」
少年の話す世界はとても楽しそうだ、と思った。
他にも獣みたいな人間や怖そうな顔の怪物がいること、不思議な力、魔法と呼ぶらしい力を使う人もいるそうだ。
「それからそれから、魔法で出すご飯はすっごくまずいんだ!」
「それは残念だね。」
「うん!僕のお母さんは料理が下手でよく魔法で出してくれたんだけどそれもまずくって、でも優しくて、それにね、お父さんはすっごく強くて・・・・・」
と、最初は力強く話していた少年の語尾はいつのまにか消え入りそうに弱くなった。
握られた手が少し強くなった気がした。
少年の瞳はどこか揺れていて、私は川の向こう側をなにげなく見つめた。
そうか、この少年の両親はもういないのだ。
「それでも戻りたいんだ?」
私の質問に少年ははっきりとうなずく。
「仲間が待ってるから。」
そういった少年の手が一回り大きくなった気がした。
「少年、戻るんだね。」
一緒に歩いてたはずの少年の足は透けていて、もう「ここ」にはないのだとわかった。
私は少年に笑いかけた。
「良かったね。」
ずいぶんと背の高くなった少年の頭を手を繋いでいない方の手で撫でると、最初の時のように泣き出す。
目の端の涙を拭ってやるとその手を握られた。
目線はどこまでも高く私を見下ろすその瞳は優しげに細められる。
「一緒に探してくれてありがとう。君の名前は?」
私は口をつぐむ。
彼は察したのだろう、にこやかに笑うとこう続けた。
「俺の名前は―――――。また・・・」
「?」
彼はすっと消えていった。そこには最初から何もなかったみたいに。
きらきらと空気の中を光が漂った。
「・・・なんだっけ?」
思考の中で少年の記憶が急激に薄れていく気がした。
少年が消えた途端に私は「これまで」の私に戻ろうとしていた。
ふと見つめた指の先に水滴がつたう。
何もないはずの手のひらに確かに暖かさを感じた。
「あ・・・」
少年と話したのはほんの少しだった。
けれど少年の存在は確実に私の中に何かを残していったのだ。
忘れられるはずもない。
少年の記憶を必死で手繰り寄せる。
私は彼に教えられる名前すら覚えていなかった。
でも彼は言ったのだ。
「また、会いたい」と。
私がここにずっといたのは寂しかったから。
きっとどこへ行ってもそれは変わらないと漠然と思っていた。
だから私は待っていたのかもしれない。私の手を握ってくれる人が現れるのを。
死んでしまった今でも。
私が生きていた世界に戻りたくはなかった。
だけど彼のいる世界なら―――――――
私は掴めるはずもないその手に、空を漂う光に手を伸ばした。