白い乞食
こっくりサンをやった次の朝、茜は変わらなかった。何事も無かったように皆の中にいようとした。
だが、操は茜が居ないかのように、言葉をかけなかった。追従して真弓も尚美も茜を無視した。茜は誰が話しても熱心に相槌をうち、笑顔を絶やさないいつも通りだった。
午前中は尚美の家で遊んだ。その日は弟の二才の誕生日だった。尚美の母親はいつもより上等の服を着せた息子の写真を撮っていた。ついでに、私たちを並ばせ尚美に弟を抱かせて撮ってくれた。
それが只一枚の五人揃った写真だ。
「一回くらい茜の家で遊ぼうや、近いんやろ」
午後は私の家に集まった。玄関で皆がつっかけを脱ぎかけた時に、真弓が言い出した。
一度も出されたことの無い提案だった。猛暑で外遊びが辛くなり、操と真弓と尚美と私の家を回るのに飽きていた。四人の家で遊ぶのが定着していて、茜の家は除外していた。それは茜本人が誘わなかったからだろう。
真弓は、茜が困るのはわかっていて退屈しのぎに反応を見たかっただけなのかもしれない。私も、茜がどうするか面白がっていた。
泣いて帰ってもいい、明日ラジオ体操に来なくなってもかまわない……その頃には、自転車の荷台に茜を載せるのが疎ましく感じ始めていたのだ。もう一人でも平気、むしろ楽だった。茜が嫌いではなかったが虐めに加わるのも面倒で、四人にもどりたい気分だった。
「ごめんな、誰もおれへんから、家にあげたら、あかんねん。お母ちゃんに怒られるねん」
茜は手を合わせ皆に拝むように、でもやり過ごせるつもりで拒否した。でも誰も茜の言い訳に納得はしなかった。友達の親に無条件に従う子供時代は終わりかけていた。茜は、文化住宅の住人、親は鉄工所の工員だ。大人が、どこの馬の骨ともわからん貧乏人と蔑むのを聞いてる。私たちは会ったことの無い茜の母親を全く恐れていなかった。
「人の家に上がんのに、おかしいやん、なあ」
真弓の理屈に皆は同意した。
今から珠算教室が始まる五時まで、おじゃみやトランプ、人生ゲーム、すっかり飽きた遊びを続けるより茜の家に行くのは面白そうな気がしてきた。
「明日やったらあかんか?おかあちゃんに聞いとくから、なあ、頼むわ、頼むわ」
茜の声がだんだん大きくなった。台所にいた父が聞きつけ、「なに揉めてるんや、仲良うせんかい」言いながら玄関に出てきてしまった。
「行くで、茜の家に行くで」
操の一声で皆は茜の返事も聞かず、走って茜の家へ向かった。
茜の家は文化住宅の二階端だった。茜は私たちより後から来て、しぶしぶ、鍵を開けて中に入らせてくれた。
「文化住宅って、アパートやんか」
真弓と尚美は、狭いと馬鹿にした。二間しか無い。でも風呂があったのには驚いた。ちょっと羨ましかった。部屋の中にはテレビとちゃぶ台と、鏡台があるだけ。茜は机も無いのかと驚いた。小さなちゃぶ台には電話が載っていた。
「電話あるんか。ええなあ」
真弓が羨ましげに言った。尚美の家に電話が無いのは知っていたが真弓の家にも無いのだと、初めて知った。電話がある家でも子供は勝手に使えない。私と操は、お互いの電話番号も知らなかった。
「面白いもの、ないの、出してえや」
不満げに皆で責めた。
「ごめんな」
茜は何度も言った。結局トイレを皆が使っただけで、扇風機も無い暑さに耐えきれず、腰をおろすこともなく廊下に出た。薄い鉄の廊下と階段が物珍しくて鬼ごっこした。そうとう騒いだが、他の住人に叱られはしなかった。工場に働きに出ているから昼間は誰もいなかったのかもしれない。
鬼ごっこにも飽きて、茜の家でテレビを見ようかと入りかけたら、
「河原に、乞食がおるよ」
茜が呟き、廊下の正面に見える堤防を指さした。
乞食と聞いて、退屈していた私たちは文化住宅をあとにした。
村で乞食を見ることは無かった。
大阪市内に住んでいた真弓が、大阪では駅の地下通路や歩道橋の上に白い服を着た兵隊さんの乞食がずらりと並んで座っている、と皆に教える。乞食は手が無かったり足がなかったり、するのだと。
真弓は他にも映画館にも何回も行った、ガメラの映画を見たとか、時折、自慢する。尚美はうらやましがり、操は嫌な顔をする。そんな雰囲気に私はなんだか気を遣った。
真弓が大阪で、と言い出すと肩の辺りが緊張した。茜も神戸から来たと言うが、神戸の話は一再しなかった。
「川へ行ったら、あかんやろ」
私は最初しぶった。
「見るだけ、川に入らなかったら、行ってもいいで」
操が言うなら、いいのだろうとすぐに思ったが。
「何で川に行ったらあかんの?―ちゃんが溺れて死んだのは二年の時やのに、変やなあ」
尚美は「飾伝説」を知らないと改めてわかった。溺れて死んだ子の名前を良く覚えているなと関心もした。あの日尚美も一緒だったかどうか、それすら覚えていない。
「あのときは大騒ぎやった。うちの父ちゃんが役に当たってたんや」
そういえば、操の父親が役だった。その次はうち。村の役は二年勤めなければならない。父は、もうすぐ終わりと酔っ払っては嬉しげに言っている。
川向こうは雑草が茂る広い空き地で、遙か遠くに町のビルが見えている。赤い橋が右側に見える。かなり距離がある。
「今、橋の上をバスが行ったで。お姉ちゃんが乗ってるかもしらんわ。今日はクラブに行ったんや」
真弓がまた自慢げに言う。
村の高校生の大半が公立高校へ通っていた中で、真弓の姉は大阪市内にある私立の女子校へ通っていた。制服がかわいらしく、革靴をはいているのも珍しく、それが漫画に出てくるミッションスクール風だったので、羨ましかった。
……河原へ降りる、石の階段があったはずだ。皆でさがしたがわからない。大人の背丈くらいあるセイタカアワダチソウの中に消えていた。蚊が私たちの気配で固まって浮き上がった。急勾配の土手を降りる気にはなれなかった。
乞食を捜していた視線は、土手の草むらに奇妙なモノをとらえた。段ボールと布で作った小屋があったのだ。乞食の家に違いない。
「降りよ、行ってみよう」
茜が珍しく提案した。皆はその気になった。私だけが躊躇した。
「ここから石、投げよ、出てくるかも」
私の意見は通った。皆で小屋めがけて石を投げた。でも距離があり届かない。腕は疲れ、蚊が集まってきて、諦めた。
「降りて、見にいこう」
茜がまた誘った。私はやっぱり嫌だった。ふと操が同意してくれそうな案を思いついた。
「男子やったら届くかも。野球やってるし。頼んだらどうやろう。どうせ、もう、そろばん行かなアカンし」
誰も時計は持っていない。おおざっぱな感覚で珠算教室に移動していた。思った通り操が同意してくれた。
操は護に話した。男子達も乞食に興味を持った。石を投げたが届かなかったと言えば、「やったるわ」と話に乗ってきた。
六時に珠算教室を出て、私たちは自転車に乗って、また堤防へ向かった。乞食小屋の近くで、白い煙がもやっと固まっていた。火は見えない。何が燃えているのか、草の陰に隠れて見えない。皆で石を投げた。聖だけは、しゃがんで草をむしっていた。
護と進の投げた石は小屋まで届いた。ぶら下がった布に石が当たって揺れた。
「出てくるで」
息を詰めて待つ。何も反応が無い。護と進は聖に先に行くよう促して土手を、セイタカアワダチソウの茂る中をゆっくり降りていった。
女子は「危ない、あかん、やめとき」興奮して叫んだ。風向きが変わり、煙が堤防に上がってくる。関東炊きの臭いに似ていた。聖が白い煙の中まで行った。硬直したように立ち止ってる。譲と進はへっぴり腰で聖を盾にして、首だけ伸ばし、煙の元を覗こうとしている。三人が重なって、ひとかたまりになったかと思うと、「うわあ、」と叫んで、土手を這い上がってきた。
「黒い毛ついてた」
「犬や、大きな鍋で犬炊いてるんや」泣きそうな顔で進と譲が叫んだのと、
「出てきた、こっちへ来る」私の金切り声は、ほぼ同時だった。
いた、こじき、が、いた。
ワンピースのような白いモノを来ている。膝から下の足が見えている。足は白い、顔も白い。背が高く細い。腕も白い、右手だけ長い、いや、……手に白い棒を持っているのだ。
「どこや」「どこにおるんや」「小屋の、うしろや、うわ、こっちに来る」
乞食は、細い棒で、ばしばし雑草を払う。その動作が私たちへの脅しに見えた。
「うわああ」進が叫んで、一番に自転車に乗った。聖が、目の前に来た。大きな目が私を見ている。
「ひじり、逃げるんや」
護が聖をひっぱり連れて行く。逃げるのだ、早く自転車に。皆も後に続いた。私は誰かと何回もぶつかった。ハンドルが大きくぶれて一回倒れた。膝が震えて、ペダルに足が乗らない。
何回も足を付いて、やっと、こぎ出してから、ある事に気がついた。来た時より軽い。なぜ?
茜を乗せていない。
振り返った。黒い雲に夕焼けが混じり不気味な空だった。
堤防に、茜を見た。そしてすぐ後ろに、乞食がいるではないか。茜は走っている。乞食はゆっくりと歩いてるが二人の距離は縮まっていく。前を見れば皆の姿が遠い。いやだ、こわい、いやだ。もう、前を行く真弓と尚美しか見なかった。必死でペダルをこいだ。
坂道を下り、家の前を通り過ぎ、商店街まで来ても、皆止まらない。どこに逃げてるのかわからない。ただ、ついていった。結局、皆が行った先は、珠算教室の前にある駄菓子屋だった。
辺りは薄暗く駄菓子屋の店先だけオレンジの明かりでぼおっと浮き出ている。心臓がどきどきして勝手に涙が出てきた。
尚美は膝をすりむいて泣いていた。血が出てる。可哀想だけど、かまう余裕が無い。
「大変や、河原に乞食がおった、犬を炊いてた、僕が入れるくらい大きな鍋やった」
譲と進が駄菓子屋のお婆ちゃんに、興奮して訴えた。
駄菓子屋のお婆ちゃんは左の頬が陥没している。醜い怖い顔だが、村の子は見慣れてるから平気だ。優しいお婆ちゃんで、大好きだった。
「乞食は野良犬食べるんやろか。えげつないなあ。そら怖かったなあ」
一人一人の頬を撫でて慰めてくれた。特別に一個一円の菓子を少しオマケしてくれた。でも、乞食については、特に何もしてくれる気は無かった。
「はよ帰って、お母ちゃんに、ちゃんと言いや」
最後はそう言い、店を片付け始めた。
「もう七時やんか、怒られるわ。帰るわ」
駄菓子屋の時計を見て、操が一番に帰って行った。男子達も、それぞれの家の方向に行ってしまった。
茜が居ないと、誰も言わなかった。気がついてもいないのか、分からない。あの堤防の光景……乞食が茜を追いかけているのを見たのか、それもわからない。気になるが、遅く帰って叱られるのは嫌だ。だから、まだ泣いてる尚美を真弓に任せて、帰った。
珍しく父はいなかった。母に、帰るなり河原で乞食を見たと報告した。遅く帰った言い訳が必要だった。母は「ほんまかいな」と半信半疑で聞いていた。全然叱られなかったのは、嬉しかった。
夜遅く、酔っ払って帰ってきた父に起こされた。乞食はどこに居たか、何をしていたかと、しつこく聞かれた。見たとおり話した。茜が乞食に捕まったかもしれない、とは、わざわざ言わなかった。
茜はどうなったのだろう?布団に入ってから、一人で想像した。乞食は茜の後ろに居た。逃げられる訳は無い。捕まって……「殺されたんちゃうか」口に出すと、なぜか心が躍った。茜が殺されるシーンが、テレビドラマの殺人シーンに重なる。首を絞められたか、包丁で刺されたか。可哀想なんて、みじんも思わなかった。はやく明日になって、想像のどれが当たっているのか知りたい。明日が待ち遠しい。私だけが茜が乞食に捕まったのを知っている、それも快感だった。
私の興奮を煽るように、落雷のあと、激しい雨が朝まで降り続いた。
翌朝、茜は居た。塀にもたれて、いつも通り、私が出てくるのを待っていた。何事も無かったのだ。
がっかりした。しかたない。「おはよう」と笑いかけた。
茜はいつものように「おはよう」と笑う。でも、その顔が気味悪く見えた。まじまじと顔を見つめた覚えが無いから、昨日までと違う確信は無かったのだが。
「あんたら、川へ行ったらあかんで。三年水神様に捧げ物してないからな、飾が出るかもしらんで。飾に殺されるかもしらんで」
隣のお婆ちゃんがやけに大きな声で言う。ふと、もしかしたら、乞食は水神さまで、茜は水神様に殺されそうになったが、命乞いして……飾さまが取り憑いたのではないかと閃いた。これは面白い想像だった。
ラジオ体操の間中、私は、わざわざ茜の正面に来て、じろじろ顔を見た。なんで気味が悪いのかと観察してしまったのだ。青白い顔と長いまつげ、薄い色の小さな唇……昨日までと同じ顔だ。でも何だか違う感じがする。どこが違うのかわからない。頭が混乱してきた。体操が終わってすぐ、逃げるように操の側へ走った。
「なあ、聞いて」
茜の顔が今日は変だと告げたかった。でも護に先を越された。
「親に、こじきの話したか、なんて言うてた?」
と操に聞いてきた。操は、父親が警察に電話したと答えた。今朝にでもパトカーで捕まえに来るかもと。警察と聞いて皆の目が輝いた。村に交番はない。警官もパトカーも実際に見る機会は少ない。進はパトカーで警官がきて乞食をピストルで撃つ、と勝手に決めつけて喜んでいる。
誰が言い出したのか、また、見に行く話になった。朝ご飯を食べたら集合、と決めた。
私は気が乗らなかった。堤防へもどこへも行きたくなかった。昨日までと違う不気味な茜を、自転車に乗せたくない。二人になりたくない。
茜は児童公園から私の家まで、黙っていた。そして自転車を降りる時、
「潤ちゃん、『飾伝説』怖いんやろ」
と大人が子供に言うように、小馬鹿にしたように言った。私の想像を見透かされたようで、ぞっとした。