「しるし」の死
「ごめん、本棚の『赤ん坊少女』とって」
天井まで届く本棚は漫画本で埋まってる。
夫はその古い本のありかを知っていたのか、さっと持ってきてくれた。
中学三年の担任だった西真奈美先生が餞別にくれた本だ。
間に写真一枚隠してあるのを思い出した。
当時五年生だった私と四人の友達、それに二才の幼児が映っている。テレビを前に画面に収まるよう身体をくっつけて座っている。
真ん中が尚美、名字は忘れた。二才の弟を抱いている。この子の誕生日だからついでに撮ってもらった。
尚美は髪を耳の上で二つに束ねて半袖のブラウスを着ている。目を閉じて写ってる。のっぺりした顔が余計に平坦に見える。
尚美の右が操だ。肩までの真っ直ぐな髪。黒っぽいヘアーバンドでおでこを出している。太い眉。目も鼻も大きくて立派な顔立ちだ。
その横が私。
尚美の左は大西真弓。きつい天然パーマで色が黒くて太ってる。
左端が水野茜。一人だけ微笑んでいる。長い髪をみつあみにして前髪は眉をかくして切りそろえられている。
四十年ぶりに見た写真が、なんか怖い。
「死んだ子の最後の写真やから怖いんかな」
もちろん、その怖さもあるが、怖いモノが映り込んでるように見えるのに、コレだと探し出せない怖さなのだ。
「心霊写真か? どっかに顔が映ってるの? 手が多いとか」
違うと言ったが、夫は、どれどれと写真を手に取る。
「古いカラー写真やからな、色が変やけどな」
写真に不自然なところはないと言う。
裏には昭和四十四年八月と拙い字で書いてある。
昭和四十四年の夏まで、私はまだ村の中だけで生きていた。村から出る必要も用事も無かった。
村にはコンビニのような何でも売っている万屋が数軒あったし、駄菓子屋もあった。
天龍通りという商店街には本屋、散髪屋、歯医者、飲み屋に寿司屋、銭湯もあった。賑やかで夜でも明るい。この商店街が村の中心で私の世界の中心でもあった。
村の南の果ては神流川で、北は国道が境だったと思う。
通っていた小学校は国道を渡ったところにあった。
西側は田んぼの先の小規模な工業団地が突き当たり。
そして東は、村の墓地。
まだ私は自転車に乗れなかった。
それで私の世界は、歩いて行けるエリアだったのだ。
あれは一学期が終わる数日前だった。
私の家で「徴」が死んでしまった。
「徴」は五才離れた姉で「妙」とい名だったが、当時は知らなかった。生まれつきの重度の障害児を一様に「徴」と呼ぶのが村の風習だった
「徴」はずっと屋根裏部屋に置かれていた。そこに上る階段は無い。仏間の天井に入り口があり、入るときには梯子を持ってくる。母だけが世話をしに日に何度か上がって行った。
私の家は木造の平屋で建物より広い庭があり、門は無いが黒板の塀で囲まれていた。両親と私の三人で暮らすには狭くはなかった。それでも村の他の家に比べれば小さい粗末な家だった。玄関から廊下が延び、突き当たりに便所があった。廊下の右側に台所と居間、両親の部屋、私の部屋が並んでいた。廊下の左側は仏間と広い和室が二つあったが、勝手に入るのを禁じられていた。もしも自由に出入りできたとしても「徴」の声がよく聞こえるので遊ぶ気になれなかった。
同じ家に居ながら「徴」を一度も見ていない。
ただ声だけを知っていた。ウエーとかワーの、言語ではない声を。記憶の始まりから声はずっと耳に届いた。朝の雀、夕暮れのカラスの鳴き声と同じだ。アレは「徴」だといつ誰に教えられたのかもわからない。村には他にも「徴」がいる家があり、屋根裏部屋か、離れに置かれていた。「徴」の世話は大人の仕事で子供には関係ない、皆そう言われて育った。
家に「徴」が居るのは良いことだと父は言っていた。
何で良いのか理解できなかった。「徴」の声は耳障りな時もあり、世話をする為に梯子を運ぶ母の顔は嬉しそうには見えなかった。「徴」など、いなかったらいいのに、と思っていた。