【9】「瞳子様がお呼びです」
こころと月子が初めて“悪しきココロ”と戦った日の翌日、日曜日の朝。
月影家のメイドが、二人を起こさないよう静かに寝室のドアを開けた。
足音を消して窓に近づき、カーテンを開ける。清々しい朝日が部屋の中に差し込む。
それからベッドに行って天蓋をめくり、タッセルで束ねる。すやすやと眠っている月子とこころを、朝日が照らす。
抱きつき癖のあるこころは、母に甘える子供のように月子に抱きつき、胸に顔をうずめている。微笑ましくて、メイドは笑みをこぼした。
朝日のまぶしさに、こころが眼を覚ます。
「んん……」
顔に当たっているのがおっぱいだということに気付き、月子の家にお泊まりしているのだということを思い出して、こころは慌てて身を起こした。
案の定、ベッド脇にメイドさんが柔らかな笑みを浮かべて立っていた。
「おはようございます、こころ様」
「あ、お、おはようございます」
眼をこすりながら挨拶を返す。
月子の家のメイドさんは、声をかけて起こすのではなく、こうしてベッドに朝日を入れて、こころが自然に眼を覚ますのをじっと待つのだ。
それに気づいてからは、陽の光を感じたらすぐに眼を覚ますようにしている。無防備な寝顔をじーっと見つめられるのは恥ずかしい。
「んー……こころ、もう起きたのですね、おはようございます」
月子も眼を覚まし、半身を起こした。
「おはようございます。朝食のご用意ができております。こころ様、こちらでお召し上がりになりますか?」
「あ、いいです。食堂の方で」
お泊まりするたびにこれを聞かれるのだが、何かこぼしてこの高そうな布団やシーツを汚しては大変だから、いつも断っている。朝食をベッドで食べるという選択肢があるところに、庶民とお金持ちの常識の違いを感じる。
「お食事がすみましたら、瞳子様がお話があるそうです。お部屋においでになるようにと仰せつかりました」
こころは、今度こそシャキーン!と眼が覚めた。
☆
朝食後、こころは広い畳間に通された。
間に座卓も何も挟まずに、瞳子と正座して向かい合う。隣に月子、後ろには昨日リムジンに乗っていた如月と三宅が控えている。
こころは月子の母が苦手だった。気品と貫禄がありすぎて気後れしてしまい、前に出ると身体が縮こまってしまう。膝元の茶托に乗った茶碗に茶が注がれているが、緊張して手をつけるどころではない。
「こころさん。昨日はよくお休みになれましたか?」
「あ、は、はい、ぐっすり寝れました、ありがとうございます」
こころはペコッとお辞儀した。あまり優雅な所作ではなかった。
「先ずは」と言って瞳子は、畳に三つ指をついた。「魔法少女として覚醒し、“悪しきココロ”と戦い見事にあの怪物を退けた功績に、月影家を代表して、心よりお礼を申し上げます」
十二歳の少女を相手に、月影家の当主である瞳子は額が畳に付きそうなほど深く頭を垂れた。こころがびっくりして膝立ちになる。
「お、お母さん! あ、あたしそんな大したことしてないので……お、お顔を上げてください!」
おたおたと手を振り回して、こころは瞳子に顔を上げるよう促した。ちなみに、こころはいつもは友達のお母さんを「おばさん」と呼ぶのだが、月子の母だけはどうしてもそう呼べなくて、「お母さん」と呼んでいる。
しばらくしてから瞳子がようやく頭を上げたので、こころは溜息をついた。実際は十秒くらいだったと思うが、すごく長く感じた。
「元はと言えば月影家の初代であるドリスが原因なのです。本来であれば月影家が自力で解決せねばならない問題ですが、月影家には“ココロ”に抗する力が無いのです。そのため、こころさんのお力をお借りしなくてはなりません。本来無関係なあなたを巻き込んでしまったことは、お詫びのしようがありません」
瞳子はまた頭を下げた。
「お、お母さん! そ、それは二百年前のことですから、お母さんが謝ることではないですし……あ、あたし何にもできないですけど、ちょっとでも人の役に立つなら、魔法少女やってもいいかなーって思ってますから!……お、お願いですから、お顔を上げてください!」
瞳子がスッと頭を上げた。その顔にはいつもの引き締まった雰囲気が戻っていた。
「ありがとうございます。こころさんにそのような志がおありになることを、大変ありがたく思います。
返しようのないご恩があるのに重ねてお願いをすることになるのですが、こころさんにはこれからも世のため人のため、“悪しきココロ”と戦ってもらわねばなりません。
時には、命の危険を伴うこともあるでしょう。こころさんはこれまで普通の生活を送ってこられたので、戦闘は不慣れでございます。
これからは何事も月影の指示に従ってもらわねばなりません。勝手な申し出ですが、こころさんご自身の安全のためにも必要なことなのです。どうかご承知ください」
瞳子は、今度は頭を下げなかった。真剣な眼で見つめる瞳子に、こころは「は、はい!」と力んで返事した。
「よろしゅうございます。さて、“悪しきココロ”のことは、昨日月子からいくらか聞いたと思いますが、慌ただしくて充分な話はできなかったことでしょう。少しかいつまんでご説明しようと思います。……ですが、その前に昨日の戦いについて、ひとつ注意がございます。……月子」
「は、はい!」
月子がビクッとして背を伸ばした。いつも冷静な彼女には珍しいことだ。
「あなたは蜘蛛の糸に絡められ、大変なピンチにおちいりました。こころさんが助けてくださったからよいものの、そうでなければ二人とも倒されかねない状況でした。
あなたがこころさんをお守りしなくてはならないのに、これではあべこべではないですか。だいたい相手が蜘蛛なのですから、あの攻撃は予想がつくでしょう。闇雲に戦うのではなく、頭を使いなさい」
「は、はい! 申し訳ございません!」
月子はぺたんと畳に額をついて謝った。プライドの高い月子にここまで平謝りさせるなんて……こころはあらためて瞳子を畏怖した。
「わかればよろしい。……さて、こころさん」
「は、はいっ!」
親友が隣で怒られたばかりなので、こころは声がうわずってしまった。
「少し長くなりますが、魔法のことと、事の起こりから今に至る経緯をご説明いたします」
「は、はい……お願いします」
瞳子は、手を広げてこころに向けた。指が細く美しい手だった。
「魔法はその対象によって、大きく三つに分けられます。先ず、“モノ”を操る魔法」
親指を内に折る。
「“モノ”とは生の無い物質や現象をさします。ここにある物全てが“モノ”、水や空気も“モノ”。そのほか光、温度、力などといった物理現象も含まれます」
「は、はぁ」
魔法のことだからもっとファンタジックな話かと思ったら、意外に難しかった。瞳子は続けて人差し指を折った。
「次に、“イキモノ”の魔法。これは人間や動物など、生あるものを操る魔法です。月子の身体能力や、わたくしが昨日月子に施した回復魔法などがこれに含まれます。一般に“モノ”の魔法よりも高次であり、扱える者が少なくなります」
こころは学校の授業よりもずっと真剣に話を聞いた。瞳子が中指を折る。
「三つ目が、“ココロ”の魔法です。“ココロ”を操るのは非常に高次の魔法であり、わたくしを含め、現在月影家には扱える者がおりません。ドリスは、“モノ”、“イキモノ”、“ココロ”の全ての魔法を高度に操れる、希有な魔法使いでした」
「ほ、ほぉ……」
「ドリスはわたくしどもには及びもつかないほど高度な技術で、罪人から“悪しきココロ”のみを取り出すという技をあみ出しました。
しかし、万全を期したと思っていた封印が何らかの原因で解けてしまい、“悪しきココロ”を世に解き放ってしまうという失態を犯しました。
ドリスはその強大な力でなんとか“悪しきココロ”を再び封じ込めることに成功しました。しかし、将来また封印が破れてしまうことがあるやもしれません。
ドリスは素質ある村の娘に、自分の“ココロ”を操る魔法を託しました。ドリスはこのために“ココロ”を操る力を無くしてしまったそうです。
ドリスのように自在に“ココロ”を操れるわけではありませんが、娘は“悪しきココロ”を完全に滅する力を得ました。その力は娘の子孫に伝えられます。ドリスはそうして、後世に“悪しきココロ”に対抗する術を残したのです。……ここまで、ご理解いただけましたか?」
こころは授業中ぼーっとしているときに先生に当てられたように慌てた。
「あっ、は、はい!」
「よろしゅうございます。一方的に長々と話してしまいましたが、何かご質問はございませんか?」
「えっ? し、質問ですか……え、えっと……」
なるべく早くこの場を退散したい思いもあったが、それよりも知りたい欲求の方がまさった。
「あ、あの……“ココロ”を操る魔法少女って、あたしの他にも、いるんですか……?」
余計な口を挟まず二人のやりとりを見守っていた月子が、横目でちらりとこころを見た。
かしこまっているわりになかなか鋭い質問をするなと、ちょっと感心した。
「おりません」
瞳子は結論から述べた。
「ドリスが力を与えた娘の女の子孫は、現在こころさんを含め約千人おります。しかし千人全てが胸に痣を持っているわけではなく、それどころか、同じ時期に痣を持って生まれるのは数人に限られます。
こころさんのおばあさまも、胸に痣がおありでしたね?」
「あ、はい。見たことあります」
「あなたの痣より、だいぶ薄かったでしょう? 少女期を過ぎると、力が失われ痣も薄くなるのです。いまちょうど良い年齢で痣を持っているのは、こころさんひとりです。ですから、是非ともあなたに力を貸してもらわねばなりません」
「は、はい。わかりました。……あの、もう一個質問が……ま、魔法が使えるのは、女の人だけなんですか?」
そのとおりです、と瞳子は答えた。
「女は腹に子を宿し、乳を与えて育てます。そうして魔法の力も受け継がれるのです。男などというものは種を蒔くだけで終いです。それで力が移るわけがありません」
「はあ、なるほど……」
こころはちょっと頬を赤くした。保健体育の授業で習ったので、言わんとしていることは分かった。
「他にご質問は?」
「……」
こころは、ちょっと肩をすくませた。月子も如月たちも、質問しようかどうしようか迷っている雰囲気を感じ取った。
「あ、あの……あと、ひとつだけ」
「どうぞ、せっかくの機会ですから、何なりと」
瞳子が促す。こころは、正座した膝の上に置いた手に、ギュッと力を込めた。
「あ、あたしも、月子ちゃんみたいに背が高くなりたいんですけど、どうしたら身長が伸びるんですか……?」
ピキーンと、すごい緊張感が走った。如月と三宅はサーッと顔を青くした。
月子も青くなって、首をわずかに捻り彼女の方を見た。ふざけているのかと思ったが、こころは口を結んで真面目な顔をしていた。どうやら真剣に聞いているらしい。
瞳子は、食材が何だかわからない料理を出され、食べて味わってもやっぱり何かわからなかったときのような顔をした。
それから、瞳子は表情をニュートラルにして、
「カルシウムをお取りなさい。ただし、過度に効果を期待してはいけません」
と、助言した。
☆
「……全く、冷や汗が出ました。お母様にあんな質問をするなんて」
廊下を歩きながら、月子は額に手を当てていった。
「だって月子ちゃんに同じこと聞いても、『そんなことを気にする必要はありません』とかしか言わないんだもん。あたしにとっては切実なんだよ」
「だからってあの場で……身長などどうでもよいではないですか」
「ほらほら、それだよぉ」
こころは足を止めて、月子に向き直った。月子も足を止める。
「あたし平均よりちょっと低いだけだから、ホントならそんなに気にしないですむはずなんだよ。でも、あたしと月子ちゃんの身長差、何センチあると思ってるの?
二人並んでると目の錯覚であたしがすっごく小さく見えるんだよ。あたしの悩みは月子ちゃんのせいでもあるんだよ」
こころは腰に手を当て、ぷりぷり怒っていった。ちなみにこころの身長は、平均より少しではなくだいぶ低い。
ガーンと、月子はショックを受けた。
「そ、そんな……で、ではわたしは、こころのおそばにいない方がよいということですか……?」
「そ、そんなこと言ってないよ」
月子が眼を潤ませて泣きそうな顔をするので、こころは慌てて取りなした。
「でも、でも……」
しゅん、となってしまう月子。こころは困って眉をハの字にした。
「も~、なに凹んでるだよ。月子ちゃん、あたしの守護者でしょ? じゃあ、いつもそばにいなきゃダメじゃん」
めそめそと泣いていた月子が、パッと顔を輝かせた。
「い、いいのですか……おそばにいても」
「いいもなにも、そばにいてあたしを守ってよ」
「こ、こころ……は、はい! 命に代えてもお守りします~!!」
感極まった月子がギュ~ッと抱きついた。例によって乳に埋もれ窒息しそうになるこころ。
「つ、月子ちゃん! く、苦しい~!……ん?……ひゃぁっ!!」
こころが突然叫び声を上げた。月子がびっくりして彼女を放す。
二人の前に、いつの間にか女の子が立っていた。
こころよりもさらに二、三歳若そうだ。子供らしい丸い輪郭線に、整った顔立ち。髪は頬の辺りまでの長さで、ふわふわして柔らかそうだ。
これで笑顔なら天使のように可愛らしいだろうが、ちょっと吊り目で無表情なのが、すごく無愛想な印象を与えていた。
着ている服は布地が厚い濃緑のワンピースで、いかにも高級そうだった。
「おや、ほむらではないですか」
さっきまでの醜態を気にした風もなく、月子は言った。ほむらと呼ばれた女の子はノーリアクション。
「紹介します。月影一族の魔法使いのひとり、ほむらですわ」
「は、初めまして、小日向こころです」
こころは頭を下げて、上げた。ほむら、微動だにせず。
「え、えっと、ほむらちゃんは、いくつかな?」
こころは困ったような笑顔を浮かべて聞いた。答えが返ってくるか不安だったが、
「……九歳」
と、ほむらはぼそっとつぶやいた。コミュニケーションが取れないわけではないようだ。
「では、ほむら、ごきげんよう」
月子が先に歩き出す。
「え? あ、月子ちゃん」
すぐにあとを追っていいのか迷い、こころは月子とほむらに交互に眼をやって、結局「じゃ、じゃあね、ほむらちゃん」と言って月子を追った。脇をすり抜けるこころを、ほむらは首を回して眼で追った。
月子に追いついてから振り向くと、ほむらがこちらを向いて離れていく二人を見送っていた。リアクションすっごい薄いけど、人に関心がないわけではなさそうだ、とこころは思った。
「愛想のない子でしょう」
と、歩きながら月子は言った。
「う、うん……でも、歳は教えてくれたよ。ねえ、ホントにあの子も魔法使いなの?」
「そうです。いずれ彼女の力を借りる機会もあるでしょう。月影家には他に何人も魔法使いがいます。それぞれ能力が特化されているので、状況に合わせて必要な能力を持った魔法使いと協力して戦うことになります」
「あんな小さな子も戦うの……どんな魔法を使うの、ほむらちゃんは?」
心配そうに聞くコロンに、月子は微笑みかけた。
「心配は要りません。ほむらはああ見えて強いのですよ。
どんな魔法を使うか、ですか……そうですね、ほむらというのは、実は本名ではないのです。持っている能力にちなんだ名前でわたしたちは呼び合っています。それがヒントと言っておきましょう」
「ふーん……」
ほむらってどういう意味だったっけ? こころは後で調べてみようと思ったが、結局すっかり忘れてしまい、実戦でその意味を知ることになる。
「それはそうと、あなたは今日は、もう帰った方が良いでしょう」
「え? そう?」
いつもは帰ろうとすると引き留めるのに、珍しいなとこころは思った。
「ニュースを見て、ご両親も心配なさっていることでしょう。早めに帰って、安心させてください」
「?」
何で心配するのかわからなかったが、こころは家に帰ることにした。
☆
「ただいまー」
こころは特に荷物もなかったので、その足で家に帰った。
帰ったと言っても隣なので、外泊したという気にもならない。ときどきこころは、自分の家族が月影家の離れに住んでいるような気になる。
玄関に母が出てきた。
「おかえり。あんた、水着は買ったの?」
あー、そう言えば、そう言って家を出たんだったな、とこころは思い出した。
「ううん、いいのがなくって。また今度買いに行くよ」
ふうん、と、母は訝しげな眼をした。靴を脱いでこころが立ち上がると、母はジロジロとこころの全身を眺めながら、彼女の周りを一周した。
「な、何? お母さん?」
母は腕を組んで、ふん、と鼻から息を吐き、
「……あんた、お母さんに隠れて、魔法少女とかしてないわよね?」
と言った。