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【2】平凡な少女の平凡な朝

 

  

「こころ、あなたまだ準備できてないの? 月子ちゃん玄関で待ってるわよ?」

 平日の朝、小日向こひなた家のリビング。

 母親に急かされたこころ――市立翠羽瀬中学一年生――は、朝食のパンを咥えながら大慌てでアイロンをかけていた。

 制服に着替えようと思ったら、洗濯済みなのが干してあるものしかないことに気づき、生乾きの制服に急ぎアイロンを当てて乾かしているのだ。

「も、もう間に合わないから! お母さん、月子ちゃんに先行ってって言ってきて!」

「はいはい。あなたなんで昨日で準備しておかないのよ」

「ぜ、全部洗濯してるなんて思わないもん! 仕方ないでアチーッ!!」

 慌てすぎてアイロンに触れてしまい、叫び声を上げる。母親は呆れ顔で玄関へと向かった。

 母親と親友の月子が会話する声が微かに聞こえ、それから玄関が開閉する音がした。

 

(良かった、月子ちゃん、待たないで先に行ってくれたみたい。あたしに付き合わせて遅刻させちゃ、悪いもんね)

 

 壁の時計を見上げる。これから歯磨きと着替えもしなくてはならないので、どうやっても間に合わない時刻だ。こころはあきらめて、火傷しないようゆっくりとアイロンをかけた。

 

 

     ☆

 

 

「行ってきまーす」

 小鳥のさえずりが聞こえる、五月晴れの気持ちの良い朝だった――遅刻確実なのを除けば。

 間に合わないとわかってはいるものの、こころは玄関を出ると小走りで学校へと向かった。

 短めのツインテールが、駆け足に合わせて揺れる。童顔で小柄な彼女に、その髪型はよく似合っていた。

 こころは、派手さはないが、整った顔立ちをしている。

 黒目がちな大きな眼。ちょこんとした鼻に、小作りな唇。お餅みたいにすべすべの頬。どのパーツも幼い感じだ。

 ちょっと困ったような表情がデフォルトである。動物に例えるとチワワのような、保護欲をかき立てる雰囲気を持った少女だ。

 近所の公園の前を走り抜けて――いや、走り抜けずに、こころは速度を緩め、足を止めた。公園の方へと向き直る。

 微かに、猫の鳴き声が聞こえた気がした。こころは眼を閉じ、耳を澄ました。

 

 ……ミャー、ミャー……

 

 確かに聞こえる。こころは耳に手を当て、声の主を探して歩き出した。

 歩むにつれ、鳴き声がはっきりとしてくる。砂場の隣に植えられた樹のそばへくると、声が上から聞こえてくるのに気づいた。

 樹を見上げ、彼女は声の主を発見した。

 背丈の倍ほどの高さの枝に、子猫が身を縮こまらせて鳴いていた。きっと、登ったはいいが、下りられなくなってしまったのだろう。

 助けを求めるように彼女を見つめ、ミャー、ミャーと切ない声で泣く。

「あいたた……胸がキュ~ってなっちゃうよ」

 こころは苦しそうに胸を押さえた。すー、はー、と深呼吸し、気持ちを落ち着ける。

「待っててね、いま助けてあげるから」

 こころは木の根元に鞄を置くと、アイロンをかけたばかりの制服がしわになるのも構わず、幹に抱きついてよじ登り始めた。

 うんせ、うんせ、と登って枝にたどり着き、四つん這いになって枝の先へと進む。

 さして太くもない枝は、こころの控えめな体重でも、たわんで軋んだ。子猫が怯えて、ミャーミャーとうるさく鳴く。

「こ、怖がらないで……も、もうちょっと……きゃっ!」

 足を滑らせて、こころはバランスを崩した。とっさに手を伸ばしたが、他の枝には届かない。彼女は背を下にして落下した。

「きゃ~~!!」

 

 ぼふっ。

 

 キツく眼を閉じて落っこちたこころは、地面に叩きつけられることなく、柔らかなものに受け止められた。

「ひやぁ……あ、あれ? だ、大丈夫だ……あっ、月子ちゃん」

 青空をバックに間近に現れた顔を見上げ、こころは状況を理解した。樹から落っこちた彼女を救ったのは、同じクラスで親友の、月影月子だった。

「まったく、眼が離せませんね、あなたは」

 月子はこころをお姫様抱っこで受け止めていた。

 細身だがこころより遥かに背が高い。同じ中学一年生だというのに、月子は170センチもある。切れ長の眼の、凛とした美人である。

 それにしても、いくらこころが小柄とはいえ、人ひとりが二階ほどの高さから落下してきたというのに、月子はそれを軽々と受け止め、今も抱き上げたままである。彼女の体重など、ぬいぐるみ程度にしか感じていないようだ。

「あ、ありがとう月子ちゃん、助かったよ。も、もう下ろしてくれていいよ?」

「いいえ、どこか怪我しているかもしれません。このまま学校までお連れします」

「いいよ! 恥ずかしいから! どこも痛くないよ!」

 それでも月子が下ろそうとしないので、こころは身をよじって彼女の腕から逃れた。地面に下りて、制服の乱れを正す。

「月子ちゃん、あの子助けてあげて」

 樹の上でじっとこちらを見ている子猫を指差す。

 月子は「わかりました」と返事すると、迷いなく樹に向かってダッシュし、幹を蹴ってジャンプした。

 枝をつかんで逆上がりするように身を翻らせ、その勢いで空中で一回転し、スタッと枝の上に直立する。それなのに、こころが乗ってさえ軋んだ枝は、そよ風が吹いたほどにしか揺れなかった。人間離れした運動神経だ。

 月子が近づくと、子猫は警戒して後じさった。

「大丈夫、おいで」

 優しく声をかけ、しゃがんで手を伸ばす。子猫はそれ以上後ろに下がることができなくなり、観念して大人しく抱かれた。

 月子は枝を飛び降り、音も立てず優雅に着地した。腰まである長い髪が、ふぁさーっと時間差で下りてくる。

 子猫を地面に放すと、月子とこころを見上げて「ミャー」とひと声鳴き、ピューッと公園の向こうへ走り去ってしまった。

「まあ、恩知らずですこと。礼くらい言えばいいのに」

「あの『ミャー』がお礼だと思うよ? いいじゃん、無事助けられたんだし」

 満足そうなこころに、月子は呆れ顔で向き直った。

「のんきですこと。遅刻が確実なのに、こんなところで野良猫を助けているなんて。危うくあなたが怪我をするところでした。お人好しが過ぎますわ」

 腕を組んで説教を述べるクラスメイトに、こころは苦笑いを返した。

「そう言えば、なんで月子ちゃんここにいるの? 先行ったんじゃ?」

「二人きりの時はわたしのことを『ルナ』とお呼びなさいと言ったでしょう。まだ慣れませんか、コロン?」

 ちょっとだけ怒ったように月子は言った。こころがふわっと顔を赤くする。

「な、慣れないよ~。ふ、二人だけの秘密の呼び方なんて……なんか恥ずかしい……」

「いずれ必要になる時が来ますから、今のうちに慣れてください……先ほどの質問は何でしたか? コロン」

 こころは赤い顔のまま、あひるみたいな口をした。

「……先に行ったと思ってたルナちゃんが、どうしてここにいるんですか?」

「わたしがコロンを置いて先に登校するなどあり得ないでしょう。とはいえ、巻き添えでわたしまで遅刻したとなるとあなたが気にするでしょうから、気づかれないように後をつけていたのです」

「お人好しはどっちだよ、ルナちゃん」

 親友に軽めの突っ込みを入れるコロンだった。

 二人は学校に向かって歩きだした。どうせ遅刻が決まっているので、のんびりと歩いて行った。

「だいたいですね、困ったときには電話でわたしを呼べばよいのです。何のためにわたしが常にあなたに付き添っていると思うのですか?」

「何でって、ルナちゃんがどうしてこんなに親身になってあたしを守ってくれるのかあたしの方が聞きたいんだけど、とにかく親友に、『遅刻するけど猫助けて』なんてお願いできないでしょ? 普通」

「ですが、それであなたが怪我をしてしまったら元も子もないでしょう。今日だってわたしが見ていなければ、どうなっていたことか……無茶をしては困ります」

 う~ん、と、コロンは腕を組んで唸った。

「でもねぇ、ああいうかわいそうなのを見ちゃうと、胸がキュ~ッてなるんだよ。チクチクして、痛いの。だから、どうしても放っておけないんだよね」

 コロンは照れて笑った。ふとルナを見ると、彼女が眼をうるうるさせて見つめていたので、コロンはギョッとした。

「コ……コロン……あ、あなたは……」

 交通も多い路上で、ルナは感極まってコロンに抱きついた。

「わっ! ル、ルナちゃん! ここお外だよ!」

「コロン! あなたって子は……なんてお優しいのです! わたしは……わたしは、一生あなたについていきます!」

「く、苦しい~! つ、つぶれちゃうよルナちゃん~!」

 月子の豊かな胸の谷間で窒息しそうになりながら、コロンは必死にもがくのだが、彼女の怪力の前に為す術がないのだった。

 

 

     ☆

 

 

 市立翠羽瀬中学校、一年A組の教室。

 始業時刻に二十分遅れて、クラスの問題児、五十嵐シンディーが教室の引き戸を開けた。名が示すとおり、ハーフの女子である。

「ちゅーっす」

 手を敬礼みたいにして、首をすくめ挨拶する。三十代のA組担任男性教師、青山がジロリと睨んだ。

「五十嵐、また遅刻か? 入学して二ヶ月にもならないのに、何度目だと思ってる?」

 シンディーは、サイドテールにしたハチミツ色の髪をせわしなくいじった。

「いやー、今日は間に合うと思ったんですよ、そしたらおばあさんが道に迷って困ってて、案内してあげてたら遅れちゃいました。すみません」

「嘘つけ」

 青山はにべもなく切り捨てた。

「ちょ、ちょっと先生! ホントですって、人助けしてたんですよ、人助け!」

 スキージャンプみたいなポーズで抗議する。すごくアホっぽかった。黙っていればハリウッドの子役女優みたいな美少女なのだが、喋るとすごく残念な子だった。

「たとえ本当だとしても、遅刻は遅刻だ。さっさと席に着け」

 取り合ってもらえず、シンディーはフグのようにふくれて自分の席に着いた。

 そこへ、またカラカラと音を立てて引き戸が開いた。月子とこころが並んで立っている。

「おはようございます。先生、遅くなり申し訳ございません」

「すみません」

 二人揃って頭を下げる。

「おお、来たか。月影と小日向が遅刻なんて珍しいな。連絡がないから心配していたんだぞ。どうしたんだ?」

「え、えっと……」

 こころが言い淀んでいると、月子がスッと一歩前に出た。

「小日向さんが樹から下りられなくなった子猫を助けようとしていたので、わたしもそれを手伝っていました」

 教室が、しん、と静まった。

 青山は五秒ほど静止したあと、

「……席に着きなさい。今回の遅刻は、見逃します」

 と言った。シンディーがイスをひっくり返しそうな勢いで立ち上がる。

「せ、先生! 何で月子の言うことはすぐ信じるのよ!?」

「やかましい! お前の遅刻も今回だけ見逃してやるから大人しく座ってろ! 悔しかったらお前も普段の生活態度をキチンとしろ!」

 こめかみを押さえて青山は言い返した。月子は何事もなかったように教室を歩いて席に着き、こころも慌てて自分の席に向かった。

 

 

     ☆

 

 

 一限の授業が終わった。月子は日直なので、次の社会の授業で使う日本地図を取りに行った。

 こころが机の上を片付けていると、空いていた前の席にシンディーが座った。馬にまたがるように前後逆にイスに座り、向かい合う。

「いやー、こころ、ありがとね。おかげで遅刻見逃してもらえたよ」

「あたしは何もしてないけど……でもあんまり遅刻が多いのは良くないよ、シンディーちゃん」

「てへへ、おっしゃるとおり、オオカミ少年だよね。実際おばあちゃんの話も嘘だし」

 シンディーはバツ悪そうに頭を掻いた。

 大人しいこころに、お調子者のシンディー。正反対の二人だが、シンディーはこころに一目置いていて、よくこんな風に話しかけてくる。

 入学当初、先生の話をろくに聞かないため忘れ物や連絡事項の聞き逃しが多かったシンディーを、何度も助けてくれたのがこころだった。

「それにしても、こころと月子って、仲いいよね。わりと正反対な感じなのに」

 イスの背もたれの上で腕を組んで、シンディーは言った。

「月子ちゃんがあたしにかまってくれてるんだよ。なんでかわかんないけど」

「そーだよねー。月子のほうがこころにべったりだよねー。あんな完璧スペック少女なのに」

 シンディーは顎に人差し指を当て、上を向いた。

「背が高くてスラーっとしてるのにおっぱい大きくて、髪は腰まである超ロングなのに毛先までサラサラで、顔はっていうと切れ長の眼が麗しい超美人で、容姿がここまで完璧なのに成績は学年トップで運動神経抜群、家は大金持ちって、神様ってば二物どころかよくまあこんなてんこ盛りに長所を与えちゃったもんだと思うけど、その完璧超人があたしたちと一緒にごくごく普通の公立中学校に通って、庶民代表のこころにべったりって、何なんだろうね?」

 と、好き勝手なことを述べて、シンディーはこころの顔を見た。こころは困り顔を返す。

「それはあたしが一番知りたいよ。市内に私立わたくしりつのお嬢様学校もあるのにね」

「謎が多いよね、月子は。おっと、噂をすれば」

 月子が日本地図の巻物を持って教室に戻ってきた。

 真っ先にこころを探し、シンディーが話しかけているのを見て眉をひそめる。問題児のシンディーがこころに近づくのを快く思っていないのだ。

「じゃ、あたしは退散するね。ちゃお」

 アメリカ人とのハーフのくせに、イタリア語で挨拶するシンディーだった。月子とすれ違いながら、「今朝はあんがとね」、と声をかける。

 ジト眼でシンディーの後ろ姿を見送りながら、月子はこころのそばに立った。

「こころ、あんな問題児とお付き合いしてはなりませんよ。宿題見せてとか言われませんでしたか?」

「シンディーちゃんいい子だよ。月子ちゃんのこと褒めてたよ、美人で頭が良くて運動神経がいいって」

「それは……こころに相応しい友人になれるように、日頃から自分を磨いているからですわ」

「相応しいって……あんまり頑張られるとあたしがどんどん月子ちゃんに相応しくなくなっちゃうんだけど……シンディーちゃん、何で月子ちゃんあたしに構うんだろうって、不思議がってたよ」

「それは……ここでは話せない事情もあるのですけど、一番の理由は、わたしがこころのことを愛しているからですわ」

「わひゃっ!」

 平然と愛の告白をした月子に、こころは顔を真っ赤に染めた。周囲五メートル以内のクラスメイトが、眼を大きくして二人を注視していた。

「あ、あたしのこと好きなのはわかるけど……もうちょっとオブラードに包もうよ、月子ちゃん……」

 頭から湯気を出してうつむくこころ。ちょうど授業開始のチャイムが鳴り、月子は「事実ですもの」と言い残して自分の席に戻った。

 ヒソヒソと会話するクラスメイトに囲まれたこころは、社会の教科書を立てて開き、前かがみになって赤い顔を隠した。

 

 

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