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第三十章 蓮の一歩

 つづみの大きな配信が終わってから、数日。


 蓮は仕事をしながら、あの日の言葉を何度も思い返していた。


『蓮さんにも、蓮さんの人生があるから』


 自分の人生。


 今まで、そんなことを真剣に考えたことはなかった。


 高校を卒業して働き始めて。


 仕事を覚えて。


 部署が変わって。


 少しずつ生活に慣れて。


 休日は友達と遊ぶか、家で過ごす。


 それで十分だと思っていた。


 けれど。


 つづみと出会ってから、少しずつ変わった。


 夢に向かって努力する彼女を見ていると、自分も何かをしたくなった。


「……俺も変わらないとな」


 昼休み。


 蓮はスマートフォンを見ながら考えていた。


 そんなときだった。


「蓮」


「はい?」


 声をかけてきたのは、以前から面倒を見てもらっている上司だった。


「ちょっと話がある」


「何ですか?」


「今度、新しい部署を作ることになってな」


「新しい部署?」


「ああ。今までより少し仕事の幅が広くなる」


 上司は資料を見せる。


「人手が足りなくてな。お前、異動してみる気はないか?」


「俺が……?」


「今の部署で三年やってるだろ。仕事も安定してきたし、そろそろ次に進んでもいいと思ってる」


 蓮は黙って資料を見る。


 今の仕事を続けることに不満はない。


 だからこそ、迷った。


「すぐに返事しなくていい。少し考えてみろ」


「……分かりました」


     


 仕事が終わったあと。


 蓮は一人で駅まで歩いていた。


 頭の中には、上司から言われたことが残っている。


 新しい部署。


 新しい仕事。


 今までとは違う環境。


 怖くないと言えば嘘になる。


 けれど――。


「これも一歩なのかな」


 ふと、スマートフォンが震えた。


 つづみからだった。


『今日もお疲れさまです』


『お疲れさま』


 少し迷ってから、蓮はメッセージを送った。


『今日、仕事でちょっと話があった』


『何ですか?』


『異動の話』


 少しして。


『すごいじゃないですか!』


『まだ決まってないよ』


『でも、蓮さんが新しいこと始めるんですよね?』


『そうなるかも』


『私は応援します』


 その言葉を見て、蓮は笑った。


『つづみに言われたから、少し考えてみようと思って』


『私がきっかけになれたなら嬉しいです』


『十分なってるよ』


 しばらくして。


『じゃあ、私ももっと頑張らないと』


『無理はするなよ』


『蓮さんもです』


 二人で同じようなことを言っている。


 それがおかしくて、蓮は小さく笑った。


     


 数日後。


 蓮は上司に答えを伝えた。


「異動の話ですけど……やってみたいです」


「本当か?」


「はい」


「分かった。じゃあ、頼むぞ」


「よろしくお願いします」


 席に戻った蓮は、少しだけ深呼吸した。


 何かが変わる。


 今までと同じ毎日ではなくなる。


 不安もある。


 でも。


 少し楽しみでもあった。


 その日の夜。


 つづみに連絡する。


『異動、受けることにした』


 すぐに返信が来た。


『本当ですか!?』


『うん』


『おめでとうございます!』


『ありがとう』


『じゃあ、お祝いしないとですね』


 蓮は思わず笑う。


『またデートする?』


『はい!』


 すぐに返事が来た。


『今度は私が誘います』


     


 数日後。


 二人は休日に会うことになった。


 待ち合わせ場所に着くと、つづみが先に来ていた。


「蓮さん!」


「お待たせ」


「全然です」


 つづみは嬉しそうに笑う。


「今日は私が考えたんですよ」


「どこ行くの?」


「秘密です」


「秘密?」


「はい」


 そう言って、つづみは歩き出す。


 連れて行かれたのは、小さな美術館だった。


「ここ?」


「はい」


「意外だな」


「私、こういうところ好きなんです」


 二人で展示を見て回る。


 配信や仕事の話ではなく。


 夢の話でもない。


 ただ、お互いの好きなものについて話す。


 そんな時間が心地よかった。


 美術館を出たあと。


 近くのベンチに座る。


「蓮さん」


「ん?」


「最近、少し変わりましたね」


「そう?」


「はい」


 つづみは蓮を見る。


「前より楽しそうです」


「……つづみのおかげかな」


「私?」


「うん。自分のことも考えるようになった」


「よかった」


 つづみは安心したように笑った。


「私、蓮さんが私のことばかり考えてるの、少し心配だったんです」


「そんなに?」


「はい」


 少しだけ間を置いて。


「私の夢を応援してくれるのは嬉しいです。でも、蓮さんにも幸せになってほしいから」


「……」


「私のためだけに人生を使ってほしくないんです」


 蓮は黙ってつづみを見る。


 その言葉が嬉しかった。


 同時に。


 彼女が自分のことを本当に大切に考えてくれていることが分かった。


「ありがとう」


「はい」


「俺も、つづみには幸せになってほしい」


「……」


「夢も叶えてほしいし、やりたいことも全部やってほしい」


 つづみが少し照れたように笑う。


「じゃあ、お互い頑張りましょう」


「そうだな」


 二人は拳を軽く合わせた。


「約束です」


「約束」


     


 帰り道。


 つづみのスマートフォンが鳴った。


「……あ」


「どうした?」


「事務所からです」


 画面を確認したつづみの表情が変わる。


「何だった?」


 つづみはしばらく黙っていた。


 そして。


「……海外のイベントに出ないかって」


「え?」


「まだ正式な話じゃないです。でも、候補に入れてもらえたみたいで」


 蓮は驚いた。


「海外?」


「はい」


 つづみの目には、驚きと喜びが混ざっている。


 けれど同時に。


 少しだけ不安そうだった。


「すごいじゃん」


「……でも」


「どうした?」


「もし本当に決まったら、しばらく日本を離れるかもしれません」


 蓮は黙った。


 これまで以上に、二人の距離が離れる可能性。


 つづみの夢が、また一つ大きくなろうとしている。


 それでも。


「だったら、行ってこいよ」


「……蓮さん」


「チャンスなんだろ?」


「はい……」


「だったら絶対行くべきだよ」


 つづみの目が少し潤む。


「寂しくないですか?」


「寂しいよ」


 蓮は笑った。


「でも、それ以上に応援したい」


「……」


「俺も自分の仕事頑張るから」


 つづみはしばらく蓮を見つめる。


 そして、小さく笑った。


「……ありがとうございます」


「うん」


「私、頑張ります」


「俺も」


 二人は並んで歩く。


 これから先。


 今まで以上に会えない時間が増えるかもしれない。


 それでも。


 以前とは違う。


 離れることを恐れるのではなく。


 お互いがそれぞれの未来へ進む。


 そして、また会える場所まで戻ってくる。


 二人はそんな関係を、少しずつ築き始めていた。


 ――けれど。


 つづみに届いた「海外イベント」の話は、まだ始まりに過ぎなかった。


 そしてその仕事が、二人の関係を大きく揺らすことになる。


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