第二章 努力
彼女とマッチングしてから、二週間が経った。
毎日のように続いていたメッセージが、少しずつ俺の日常になっていた。
『おはようございます』
『お仕事頑張ってください!』
『ありがとうございます。そっちも配信頑張って』
たったそれだけのやり取りでも、仕事へ向かう足取りが少し軽くなる。
俺は、彼女との会話が楽しみになっていた。
まだ会ったことすらない。
それでも、もっと彼女のことを知りたいと思っていた。
そして同時に、一つ気になることがあった。
俺自身のことだ。
高校を卒業して働き始めてから、最初の三年間は仕事ばかりだった。
食事はコンビニや外食が中心。
運動する時間なんてない。
仕事で疲れて帰ってきては、適当に飯を食べて寝る。
そんな生活を続けていたせいで、気づけばかなり太っていた。
仕事に余裕ができてからも、それまでに染みついた生活習慣はなかなか変わらなかった。
鏡を見る。
「……これは、さすがにまずいな」
腹周り。
丸くなった顔。
昔の写真と比べてみると、別人のようだった。
今まで気にしたことはなかった。
恋愛する余裕なんてなかったからだ。
けれど今は違う。
好きになりかけている人がいる。
その人に少しでも「いいな」と思ってもらいたい。
格好いいと思われたい。
そう考えるようになった。
「……やってみるか」
次の日から、俺は少しずつ生活を変え始めた。
仕事が終わったら、家で軽く筋トレ。
休日には近所を走る。
夜食をやめる。
ジュースを水やお茶に変える。
食事も少しだけ気をつけるようにした。
最初はきつかった。
仕事で疲れている日は、
「今日はいいだろ」
と自分に言い訳したくなる。
そんな日は、ベッドに倒れ込んでしまいたくなる。
それでも続けた。
たった数週間で何かが大きく変わるわけじゃない。
体重だって、すぐには落ちない。
けれど――。
彼女にもっと好かれたい。
ただ、それだけだった。
スマートフォンに映る彼女の写真を見れば、不思議ともう少し頑張ろうと思えた。
そんな俺の努力とは反対に。
彼女からのメッセージは、少しずつ減っていった。
最初は気にしていなかった。
『今日も配信です!』
『頑張ってください』
『ありがとうございます!』
以前なら、その後も何時間か話していた。
今日あったこと。
最近見た映画。
好きな食べ物。
そんな他愛のない話を、夜遅くまで続けていた。
でも最近は、そこで会話が終わる。
次の日も。
その次の日も。
返信が来るまでの時間も長くなっていった。
半日。
一日。
時には二日。
俺はスマートフォンを何度も確認するようになった。
通知が来ていないと分かっているのに、画面を開いてしまう。
そして、何もない画面を見てため息をつく。
「……忙しいんだろうな」
彼女は配信者だ。
配信の準備もある。
撮影もある。
さらに夜はラウンジで働いている。
忙しいのは分かっている。
だから、責めるつもりはなかった。
むしろ、応援したいと思っていた。
無理をしてまで返信してほしいわけじゃない。
ちゃんと休んでほしい。
そう思っていた。
それでも。
返信が来ないと、少し寂しかった。
俺はまだ彼女にとって、会ったこともないただの一人なのだから。
そんな当たり前のことを考えるたび、胸の奥が少しだけ痛くなった。
ある日の夜。
久しぶりに彼女からメッセージが届いた。
『ごめんなさい! 最近忙しくて全然返信できなくて……』
俺はすぐに返信した。
『大丈夫ですよ。無理しないでください』
『ありがとうございます……』
そこで一度、会話が途切れた。
俺はスマートフォンを置こうとした。
そのとき。
画面がもう一度光った。
『最近、何か頑張ってます?』
思わず笑ってしまった。
『実はちょっと運動始めました』
数秒後。
『え! ダイエットですか?』
『まあ、そんな感じです』
『偉い!』
たった一言。
それだけなのに嬉しかった。
彼女が、自分のことをちゃんと見てくれている。
そう思えた。
『もっと格好よくなりたいと思って』
送信してから、少し後悔した。
こんなこと言うんじゃなかったかもしれない。
何か変に思われたらどうしよう。
画面を見つめる。
しばらくして、返信が来た。
『誰か好きな人でもできたんですか?』
そのメッセージを見て、心臓が跳ねた。
俺はしばらく画面を見つめた。
どう返せばいい。
冗談で返すか。
ごまかすか。
それとも――。
『……いるかもしれません』
送信。
途端に恥ずかしくなった。
何を言ってるんだ、俺は。
まだ一度も会ったことがない相手なのに。
しかも、相手は彼女だ。
取り消したい。
そう思ったが、もう遅かった。
数分。
返信は来ない。
十分。
三十分。
一時間。
やっぱり変なことを言った。
そう思い始めた頃。
スマートフォンが震えた。
『ふふ、誰なんでしょうね』
それだけだった。
俺はそのメッセージを見て、少しだけ笑った。
答えは言えなかった。
まだ「好き」と言えるほど、俺たちは近くない。
それでも。
少なくとも、彼女に嫌われたわけではない。
それが分かっただけで、少し安心した。
俺はスマートフォンを置き、天井を見上げる。
そして、この日改めて決めた。
もっと自分を変えよう。
体型だけじゃない。
もっと自信を持てる人間になろう。
いつか彼女と会ったとき。
「会えてよかった」
そう思ってもらえるような人になろう。
その頃。
白石つづみは、ラウンジへ向かう車の中でスマートフォンを眺めていた。
画面に表示されているのは、桐生蓮とのトーク画面。
さっき送った言葉を見返す。
『ふふ、誰なんでしょうね』
本当は、もう少し違うことを聞きたかった。
誰ですか、と。
もしかして私ですか、と。
でも、そんなことを聞く勇気はなかった。
つづみはスマートフォンを胸元に置く。
「……忙しすぎるよ」
小さく呟いた。
今日も配信。
その後はラウンジ。
帰る頃には深夜になる。
寝る頃には日付が変わっている。
起きたら、また次の予定。
そんな毎日を繰り返していた。
つづみ自身も気づいていた。
最近、蓮との連絡が減っていることに。
嫌いになったわけじゃない。
むしろ逆だった。
だからこそ、少し怖かった。
まだ一度も会っていない相手なのに。
メッセージが来ると嬉しい。
返信したくなる。
仕事の合間にスマートフォンを開けば、無意識に蓮とのトーク画面を探してしまう。
返信が遅くなれば、嫌われるかもしれない。
興味を失われるかもしれない。
そんな不安もあった。
「……どうしよう」
窓の外を眺める。
流れていく街の明かり。
自分が進んでいるのは、いつもの夜の街。
華やかで、きらびやかで。
たくさんの人がいる場所。
それなのに。
今のつづみの頭に浮かんでいたのは、一人の男だった。
まだ会ったことのない。
マッチングアプリで知り合っただけの。
普通の会社員。
けれど、話していると落ち着く。
返信が来ると嬉しい。
そして――。
もっと話したいと思う。
「……蓮さん」
誰もいない車内で、名前を小さく口にする。
自分で口にしてから、少し恥ずかしくなった。
つづみはスマートフォンを握り直す。
本当は、もっとメッセージを送りたい。
でも今は、どうすることもできない。
「……ごめんなさい」
誰も聞いていない車内で、つづみは小さく呟いた。
その日も二人は、同じ相手のことを考えていた。
蓮は、もっとつづみに好かれるために。
つづみは、もっと蓮と話したいと思いながら。
まだ二人は、お互いの顔を直接見たことすらない。
それでも、少しずつ相手の存在が大きくなっていた。
ただ――。
二人の距離は、少しずつ近づいているのか。
それとも。
知らないうちに、離れてしまっているのか。
二人には、まだ分からなかった。




