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欠月剣娘百越譚  作者: 宙うし
第1章 ベトナム
7/10

7.火のあとに残るもの

 アパートの階段は、まだ夜の湿気を吸っていた。裸電球の下に虫が集まり、羽の音だけが細く鳴っている。ロローリャは手すりに肩を寄せ、杖を一段ずつ置きながら上がった。膝の奥が熱く、喉には煙の苦さが残っていた。髪の先に焦げた匂いが絡み、服の肩には細かな煤が落ちている。布袋は軽かった。底にあったノコギリの重みは、運河の黒い水の底へ沈んでいた。


 廊下に上がると、ジウが裸電球の下に座っていた。団扇は膝の上に伏せられ、首だけがこちらを向いている。ロローリャが一歩進むと、ジウの目が布袋へ落ち、それから髪、肩、指先へと移った。ジウは立ち上がらず、膝を揉んでいた手だけを止めた。


「ずいぶん歩いてきたね」


 ロローリャは答えなかった。息を吐くと、自分の口から煙の匂いが出た。


 外では、遠い喧騒がまだ続いていた。夜の底に沈んだ街の一か所だけが、赤く煮えているようだった。バイクの音が何台も重なり、誰かが怒鳴り、どこかで戸が乱暴に閉まる。ジウは廊下の奥を見て、それからロローリャの肩に落ちた煤を親指でこすった。黒い粉が指先につく。ジウはそれを見て、口をきつく結んだ。


「港が燃えてるってさ。ハイアン運送の倉庫だって、下の通りで男どもが騒いでたよ」


 ロローリャの指が、杖の握りを強く掴んだ。


 ジウはそれ以上訊かなかった。訊く必要もなかった。布袋は軽く、服は煤け、髪には火の匂いが移っている。二万ドン札の代わりに、煙とガソリンの残り香だけがロローリャの周りにまとわりついていた。


 奥の戸が開き、リエンが髪を乱したまま顔を出した。


「何の騒ぎ……」


 声が止まった。リエンの目がロローリャの服を見て、次に布袋を見た。タオもその後ろから出てきて、口元を押さえた。


「その匂い」


 タオが呟いた。


 リエンはロローリャの腕を掴み、ぐいと自分のほうへ向けた。


「あんた、何をしたの?」


 ロローリャは黙っていた。リエンの手は強かったが、震えていた。赤い爪が細い腕に食い込み、すぐに離れた。


「赤鳳会の倉庫だよ」


 ジウが言った。


 タオの顔から血の気が引いた。


「赤鳳会に手ぇ出したってことかい。あそこは、ただのチンピラじゃないんだよ」


 リエンはロローリャの前にしゃがみ込んだ。怒鳴ろうとして、喉の奥でそれを止めた。火の匂い、煤、軽くなった布袋。どれを見ても、もう尋ねる意味はなかった。


「ばかだね」


 リエンは低く言った。


「本当に、ばかだね」


 ロローリャは小さく唇を開いたが、言葉は出なかった。フオンの名も、ミーの名も、口に出せば廊下の床へ落ちてしまいそうだった。


 ジウは体をよじると、ポケットから古いスマホを取り出した。割れた画面を親指で叩き、連絡先を探す。呼び出し音が廊下に漏れた。やがて繋がると、ジウの声は低くなった。


「バオかい。ジウだ。今すぐ車を出してくれないか。市場裏じゃない、東の橋の下に、十分で来な」


 相手が何か言ったらしく、ジウの眉が吊り上がる。


「理由なんか後でいい。金は払う。あんた、まだあたしに借りがあるだろ」


 通話を切ると、ジウはスマホを胸元へ戻した。


「ここには置けない」


 リエンが目を剥いた。


「待ちな。どこへやる気だい?」

「朝になったら人が来る。赤鳳会か、警察か、その両方か。どっちでも同じだよ」


 タオが青ざめた顔でロローリャを見た。


「でも、どこへ逃がすっていうのさ?」


 リエンがロローリャの肩を掴んだ。


「あんた、どうするつもりだい。どこか行く当てはあるのかい?」

「ない」


 声は小さく、乾いていた。


 ジウが身を乗り出した。


「ここに来る前は、どこにいたんだい」


 ロローリャは目を上げた。裸電球の光がまぶしかった。長いあいだ思い出さないようにしていた地名が、喉の奥で硬い石みたいに転がった。


「中国」


 リエンの眉が動いた。


「中国の、どこ」

「昆明」


 廊下の三人が黙った。山の向こう、国境の向こう、ハイフォンの湿気と排気から遠く離れた異国の街だった。


「昆明って、あんた」


 タオが呟く。


「そんなところに、どうやって戻るのさ!」

「分からない」


 ロローリャは答えた。


「道も、分からない」


 リエンは額に手を当て、荒く息を吐いた。


「中国なんて、一人で行けるわけないだろ。足も、その身体も、その顔も、全部目立つ。途中で捕まっちまうよ」


 売られる、という言葉を誰も口にしなかった。けれど全員が同じものを思い出していた。


 ジウだけが、ゆっくり顔を上げた。


「ラオカイ」


 短い一言だった。


「あそこなら渡しがある。昔の客に、山のほうへ荷を運ぶ男がいる。まっとうな仕事ばかりじゃないけど、今はそれでいい。ラオカイまで出れば、国境を渡す連中もいる」


 リエンがジウの腕を掴んだ。


「あんたが連れていく気かい」

「そうだよ」

「馬鹿を言うんじゃないよ。火事の後だよ。赤鳳会が動いてるんだよ」

「だから今すぐ出るんだよ」


 ジウの声は急に低くなった。


「リエン、タオ、あんたらには子どもがいる。だから、あたしがこの子を連れていく」

「そんな言い方するんじゃないよ」


 リエンが低く怒鳴った。ジウは笑わなかった。


「時間がない」


 ジウは部屋へ戻り、古びた上着を羽織って出てきた。畳の下に隠していた封筒を抜き、胸元へしまう。リエンがそれを見て、目を細めた。


「あんた、それ」

「貯めてたのさ。いつかもう少しまともな部屋へ移るつもりでね」

「そんな金」

「部屋はまた探せる。この子は、今逃がさなきゃ終わりだ」


 ロローリャは何も言えなかった。ジウの指が封筒を折り、胸元へしまう。その動きがあまりに早く、迷いがなかったので、胸が痛くなった。


「私は、一人で行く」

「行かせないよ、ロローリャ」


 ジウは即座に言った。


「歩けるとか歩けないとかの話じゃない。あんたは今、火の匂いをさせてる。顔も知られてる。港の子どもは目につく。どこかで止められたら終わりだ」


 ジウは濡れ布でロローリャの髪を拭いた。煤が布へ黒く移る。拭いても拭いても、焦げた匂いは消えなかった。


「あんた、何も喋るんじゃないよ。車に乗っても、誰に訊かれても、黙ってな。あたしの姪だと言う。膝が悪くて、山の親戚へ預けに行く。それで通す」

「ジウ……」

「何だい」

「どうして」


 ジウの手が一瞬止まった。


「ミーがあんたの膝で寝てたのを見たからだよ」


 それだけ言った。


 ロローリャの喉が詰まった。ミーの小さな重みが、膝の上へ戻ってきた気がした。泣きそうになって、けれど涙は出なかった。


 リエンは薄い上着を持ってきて、ロローリャの肩へ乱暴にかけた。


「その煤だらけの服で外へ出るんじゃないよ。目立つ」


 タオは乾いたパンを二切れ、布袋へ押し込んだ。


「途中で食べな。食べられなくても、口に入れな」


 外から短いクラクションが聞こえた。ジウが顔を上げる。


「来たね」


 タオがロローリャの手を握った。短く、強い握り方だった。


「生きな。何があっても、生き延びるさ」


 リエンはロローリャの頬を両手で挟み、少し乱暴に顔を上げさせた。赤い唇は色を失っていた。


「あんたは、ばかだよ」

「うん」

「でも、あいつらが悪い。あんた一人が悪いんじゃない。そこだけは、間違えるんじゃないよ」


 ロローリャは頷いた。リエンは額を一瞬だけロローリャの額へ押しつけ、すぐに離れた。


「元気でね、エム(私のかわいい妹)


 ジウが先に階段を降りた。ロローリャは杖をつき、その後に続いた。階段の途中で一度だけ廊下を振り返る。裸電球の下で、リエンは唇を噛み、タオは目元を袖で押さえて見送っていた。


 橋の下には、古い灰色の小型トラックが停まっていた。運転席には頬のこけた男が座り、煙草をくわえている。前歯が一本抜け、そこだけ黒い穴のように見えた。


「ジウ。何だよ、こんな夜中に。港が大騒ぎだぞ」

「ラオカイのほうへ出る車はあるかい」

「ラオカイ?」


 男はロローリャを見た。杖、上着、布袋、顔。すぐに値踏みする目になった。


「高いぞ」


 ジウは封筒から札を抜いた。


「途中まででいい。乗り換えられるところまで運びな。人に見られない道で」


 男は札を数え、舌打ちした。


「これっぽっちじゃ足りねえぞ」


 ジウは男の目を見た。


「あたしがあんたの借りを一つ消してやったこと、忘れたのかい」


 男は口を曲げた。しばらく黙ってから、荷台を顎で示す。


「後ろへ乗せろ。しっかり顔を隠せよ。途中で訊かれても寝てることにしろ」


 ジウはロローリャを荷台へ回した。中には古い麻袋と空き箱が積まれている。ジウはその隙間にロローリャを座らせ、自分も横へ乗り込んだ。


「ジウ、あんたも行くのか?」

「ああ、行くよ」

「帰りのことまでは知らねえぞ」

「ああ。帰る道くらい、自分で探すさ」


 車が低く唸った。橋の下の水が震え、ロローリャの背中に荷台の板が当たる。ジウは布の隙間から外を見た。港の赤い空が、建物の間に切れ切れに見える。


 車が動き出した。


 ハイフォンの路地が後ろへ流れていく。閉まった店、倒れた椅子、まだ火を入れていない屋台、電線に止まった鳥の黒い影。ロローリャは布の下で膝を抱えた。義足の革紐が汗を吸い、切断された腕の先が疼いている。けれど痛みは遠かった。


 ジウが小さな声で言った。


「寝られるなら、寝な」

「眠れないよ」

「目を閉じるだけでもいい」


 ロローリャは目を閉じた。すぐに炎が見えた。ハイアン運送の赤い鳳凰。焼けたアパート。ミーの手。フオンの膝。閉じたまぶたの裏で、全部が同じ火に照らされていた。


「ジウ」

「何」

「中国に入っても、帰るところはないの」


 ジウはすぐには答えなかった。車が角を曲がり、荷台が大きく揺れる。遠くで鶏が鳴いた。夜明けが近づいていた。


「だろうね」


 ジウは静かに言った。


「でも、ハイフォンにいたら朝までもたない。まずラオカイへ行く。川を越えて、そこから先は、またその先で考えるんだよ」

「うん」

「今は、とにかくこの町を、いやこの国から出ることが一番だ」


 車は街を抜けた。工場の煙突が後ろへ流れ、港の匂いが少しずつ薄くなっていく。代わりに、湿った土と夜明け前の畑の匂いが入ってきた。空はまだ暗い。だが東の端に、薄い灰色が滲みはじめていた。


 ジウは布の下でロローリャの手を探し、そっと握った。


「覚えておきな。戻る場所がないのと、生きる場所がないのは違う」


 ロローリャは手を握り返した。


「ミーのことも、フオンのことも、置いていかなくていい。抱えたまま行きな。重くても、抱えて行きな」


 車は北へ向かった。ハイフォンの火の色は、もう見えなかった。


     ◇ ◇ ◇


 夕方近く、山の影が道へ長く伸びはじめたころ、車はラオカイの手前で停まった。運転手はこれ以上進めないと言い、煙草に火をつけたまま、道端の小屋を顎で示した。ジウは封筒から残りの金を数え、古い木戸の前に立つ男へ渡した。


 男はロローリャの身体を上から下まで見た。義足、杖、片腕、焦げた匂いの残る髪。口の端で笑いかけ、ジウの目を見てやめた。


「この子だけ渡すのか?」

「ああ。中国側までたのむよ」

「二百万だな」

「ふっかけるんじゃないよ! 子ども一人っぽちだ。荷もないだろ。百二十万」

「片足で片腕じゃないか、面倒が増えそうだ。百八十」

「百五十」


 男はジウを見た。ジウも目を逸らさなかった。しばらくして、男は舌打ちし、手を出した。


「先払いだ」


 ジウは封筒から札を数え、百五十万ドンを男の手に押しつけた。


「夜になったら渡す。声は出すなよ。もし水に落ちても、助けないからな」


 ロローリャはジウを見上げた。


「さぁロローリャ。あたしはここまでだ。ここからは一緒に行けないよ」


 ジウはしゃがみ、ロローリャの上着の襟を直した。


「中国側へ入ったら、人の流れについて行きな。昆明の名前をすぐ出すんじゃないよ。足元を見られる。分からないふりをして、聞いて、黙って、少しずつ進みな」

「うん」

「戻ってくるんじゃないよ」


 その言葉に、ロローリャの目が揺れた。


「冷たい意味で言ってるんじゃない。戻ったら、あいつらに食われる。リエンもタオも、あんたが帰ってくるのを待つんじゃない。生きてると思って、それでいいことにする」


 ロローリャは頷いた。涙は出なかった。泣ける場所は、ハイフォンに置いてきた気がした。


 ジウはロローリャの額に唇を当てた。湿ったザウゾーの匂いがした。


「行きな!!」


 夜が落ちるころ、小さな舟が川へ出た。水面は黒く、向こう岸の灯りが揺れている。ロローリャは舟底に座り、杖を胸へ抱いた。ジウは岸に立ち、最後まで手を振らなかった。ただ、ずっとこちらを見ていた。


 舟が流れに乗る。岸の影が遠ざかる。ジウの姿は闇に沈み、やがて見えなくなった。



     ◇ ◇ ◇



 黒い車は夜の山道を走っていた。ラオス国境へ抜ける古い道で、舗装はところどころ割れ、窓の外には湿った森が続いている。ヴー・クアン・タイは後部座席で鞄を抱え、何度も後ろを振り返った。金の鎖は外し、翡翠の指輪も外套の内側へしまっている。赤鳳会の頭として港に座っていた男は、今は汗を拭う布さえ震わせていた。


 薬が燃えた。警察も動いた。下の連中も散った。だが本当に恐ろしいのは、そのどれでもなかった。第三倉庫が焼けた報せは、国境の向こうへ届いている。ベトナムの赤鳳会だけで済む話では、もうなくなっていた。


 車が小さな集落の外れで止まった。


「ボス、ここで乗り換えましょう」


 運転手が言った。声が妙に乾いていた。


 クアン・タイは鞄を抱え、車を降りた。閉じた商店、消えかけた街灯、雨に濡れた土の匂い。道端には別の車が一台、灯りを消して停まっている。


 その車の横に、男が立っていた。


 クアン・タイの足が止まる。背後で、乗ってきた車の扉が静かに閉まり、運転手はいつのまにか頭を下げ、闇の中へ下がっていった。


「サオカムトゥン様……」


 クアン・タイの声がかすれた。


 サオカムトゥンは挨拶を受けず、細い目でクアン・タイの顔から鞄へ視線を落とした。札束を詰めた革の鞄が、クアン・タイの腹に押しつけられている。


「その金を持って、どこへ行く」


 クアン・タイは笑おうとした。丸い頬が引きつり、喉の奥で湿った息だけが鳴った。


「逃げちゃいませんよ、サオカムトゥン様。そんな真似、私がするはずがないでしょう。ハイフォンはいま火事と警察で鼻も利かねえ。あそこで私が押さえられりゃ、港の筋も、役人の筋も、余計な名前までぞろぞろ出てくる。だから一度、身を引いただけです。火の粉を払って、口の軽い連中を黙らせて、それから立て直す腹でした」

「誰が許した」


 低い声だった。怒鳴り声でもないのに、雨に濡れた土の上でクアン・タイの膝がわずかに揺れた。


「許し、というほどのことでは……。状況が状況でしたから、私の判断で」

「おまえの判断で、荷を焼かせた。おまえの判断で、港を騒がせた。おまえの判断で、金を抱えて国境へ向かった」


 クアン・タイの額から汗が落ちた。彼は鞄を抱える腕に力を込め、すぐにその力をゆるめた。


「違います。これは逃げ金じゃありません。立て直しの金です。役人に食わせる金もいる。船を動かす金もいる。散った下の者を戻すにも、金がなければどうにもなりません。燃えた分は埋めます。必ず埋めますとも。港はまだ私の手の中にある。警察にも税関にも顔が利く。鍵番も警備も、倉庫に関わった連中は私がまとめて首を取る。見せしめにして、港じゅうに分からせます」

「第三倉庫の荷は、誰の荷だ」


 クアン・タイの口が止まった。


「……あなた方の荷です」

「赤鳳会の頭は誰だ」

「私です」

「なら、焼けたのは誰の首だ」


 クアン・タイの喉が鳴った。丸い頬を汗が伝い、外套の襟へ吸い込まれていく。


「分かっております。ええ、そこは分かっておりますとも。だからこそ私が動いているんです。だが今回ばかりは、相手が妙だった。腕の立つ殺し屋でも、よその組の鉄砲玉でもない。倉庫の周りにいたのは、宝くじ売りの小娘だったそうです。片腕で、片脚で、杖をついて、汚い札束を握って歩いているようなガキですよ。警備の連中も、そんなものを目に入れる値打ちもないと思った。まさか、それが油を撒いて火をつけるなんざ、誰が考えます」


 サオカムトゥンの目が、わずかに細くなった。


「片腕」


 クアン・タイは慌てて頷いた。


「ええ、片脚でもあります。杖をついた小娘です。小娘ひとりに倉庫を焼かれたなんて話、港の面子に関わる。だからこそ、私が始末をつけます。必ず見つけ出して、手足の残りも舌も潰して、誰が赤鳳会に火をつけたのか思い知らせます。サオカムトゥン様、私をここで切るより、使ったほうが得です。港を知っているのは私だ。役人の弱みも、船の通し方も、荷の隠し場所も、私の頭に入っている。私はまだ使えます。これからも、あなた方の荷を――」


 言葉はそこで切れた。


 銀色の線が、濡れた夜気を細く裂いた。クアン・タイの鞄が地面に落ち、札束が泥の上へ散った。彼の身体は車の側面にぶつかり、そのままずるりと崩れた。


 サオカムトゥンは剣を下ろした。血を払う音だけが、暗い道に小さく返った。


「片腕。片脚。宝くじ売り」


 彼は低く呟いた。


 ハイフォンの裏路地が、一瞬だけ目の奥をよぎった。ナイフを持った男たち、銃声、壁にめりこんだ弾丸。五十万ドン札を胸にしまい、杖を握ったまま、腹を立てた顔でこちらを見ていた少女。


 自分で立て。でなければ死ぬ。


 そう言い残したとき、少女は何も答えなかった。ただ、こちらの剣から目を離さなかった。


 サオカムトゥンは、闇の向こうを見た。


「まさかな」

これにて第一章、ベトナム編は完です。


次章くらいから、ようやく剣劇寄りのエピソードが入れられるかなぁ?

よろしければ引き続き、ロロ―リャの旅路にお付き合いください。

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