家の中に、家がある-間宮響子-
間宮響子は、目を閉じる前から違和感を覚えていた。
相談者の家の前に立った瞬間、皮膚の内側を冷たい指で撫でられるような感触があったのだ。
中古で購入したという郊外の一戸建て。築年数は浅く、外見は整っている。だが、玄関の扉だけが妙に重い。物理的な重量ではない。意味の重さだ。
「由香は……まだ目を覚ましません」
由香の母親はそう言って、何度目かの謝罪を口にした。
娘が昏睡状態に陥ってから三日。医師は原因不明と首を振るばかりで、脳波は「起きているようで、眠っている」と曖昧な表現をしたという。
「幽体離脱の動画を、見ていたんです」
母親は震える指でスマホを差し出した。
動画のサムネイルには、ポップな文字でこう書かれている。
――自分の家に帰ろう。魂だけで。
間宮は再生ボタンを押さなかった。
再生しなくてもその儀式的なものはわかる。
「……試したんですね」
母親は、うなずいた。
由香の部屋は二階にあった。
ベッドに横たわる少女の顔は穏やかで、眠っているようにしか見えない。だが、間宮にははっきりと見えた。
由香の“殻”は空っぽだった。
「ここで、やります」
間宮は床に座り、背筋を伸ばした。
呼吸を整え、目を閉じる。
意識を一点に集め、肉体の輪郭をほどいていく。
――離れる。
浮遊感。
次の瞬間、間宮は自分の家の玄関の前に立っていた。
何度も訪れた光景のはずなのに、今日は違った。
扉の隙間から、ざわめきが漏れている。
開けた瞬間、理解した。
――いる。
数ではない。
量でもない。
充満している。
人の形をしたもの、崩れた影、声だけの存在。
それらが玄関から廊下、リビング、天井、床下に至るまで、隙間なく詰め込まれていた。
そして、その中央――
家そのものに溶け込むように、巨大な悪霊が鎮座していた。
顔はない。
だが、響子をじっと見ている感覚はある。
『……帰ってきたのか』
声は、家鳴りのようだった。
梁がきしみ、壁が呼吸する。
『ここは、帰る場所だ』
響子は歯を食いしばった。
「違う。ここは――」
『違わない』
空間が歪む。
霊たちが一斉にこちらを向いた。
その中に、由香がいた。
制服姿のまま、玄関の隅に立っている。
目は虚ろで、足元が床に沈みかけていた。
「由香さん!」
呼びかけた瞬間、悪霊が笑った。
音のない、しかし確実に嘲笑とわかる振動。
『この家に入ったんだ。自分から扉を開けた』
由香が、ゆっくり振り返る。
「……帰ってきたかっただけ」
その声は、家の壁を通して反響した。
「私の家、ここだから……」
響子は理解してしまった。
この悪霊は、家に憑いたのではない。
「家」という概念そのものだった。
帰る場所を失った霊。
居場所を求め続け、空間に巣食い、人を呼び込む。
「連れて帰るわ!」
響子は由香の手を力強く掴んだ。
次の瞬間、猛烈な圧力がかかる。
霊たちが一斉に伸ばす腕。
悪霊の声が、家全体を震わせる。
『ここに居ろ』
「帰れ! 帰れ!」
響子は叫びながら意識を一点に集中させた。
肉体へ。現実へ。
――戻る。
衝撃と共に、視界が暗転した。
由香は、目を覚ました。
母親は泣き崩れ、奇跡だと言った。
母親は泣きながら、優しく娘を抱きしめた。そして何度も娘の名前を繰り返し呼んだ。
由香は――ゆっくりとうなずいた。
だが、間宮響子だけは、納得しなかった。
由香の目が、まばたきを忘れていたからだ。
「……由香さん」
声をかけると、由香は一拍遅れてこちらを向いた。
その動きは、まるで誰かに操作されている人形のようだった。
「帰ってきた?」
響子がそう問うと、由香は無機質に微笑んだ。
「……うん。帰ったよ」
その言い方が、妙に他人行儀だった。
「……ここは、人間の住める場所じゃない」
響子は、そう告げた。
「邪悪に満ちています。早くこの家から出てください」
母親は震えながら、うなずいた。
引っ越しは急がれた。
響子の忠告を、母親は一言も疑わなかった。
夜の家で、誰もいないはずの二階から足音がする。
浴室の鏡に、知らない影が映る。
――由香が眠っている間、家は“増えて”いた。
最後の日、母親は由香に言った。
「もう、あの家には戻らないからね」
由香は首を傾げた。
「……戻らない?」
「そう。新しい家に行くの」
由香は少し考えてから、こう答えた。
「でも……“あそこ”が家でしょう?」
母親は笑って誤魔化したが、響子はその言葉を聞いてはいけないものとして胸に刻んだ。
夜。
響子は、自宅で一人、違和感に耐えていた。
――視線。
家の中に、誰かの帰りを待つ気配がある。
仕方なく、彼女は再び目を閉じた。
幽体をほどき、意識を沈める。
――開く。
玄関。
そこは、あの“家”だった。
だが、前よりも整理されている。
霊の数は減り、ざわめきは抑えられている。
そして、中央に――
『……連れていったな』
あの悪霊がいた。
家そのものに溶けた、帰る場所の亡霊。
「約束が違う」
響子は言った。
「由香さんは、連れ戻した」
悪霊は、ゆっくりと“首を振る”気配を見せた。
『違う……あれは……半分だ』
空間が開く。
奥の部屋――新しく増えた部屋。
そこに、由香がいた。
ベッドに腰かけ、足を揺らしながら、こちらを見ている。
「……先生?」
響子の背筋が凍りついた。
「由香さん……?」
「大丈夫だよ。ちゃんと、ここにいる」
由香の背後。
壁に、無数の手形が重なっている。
「人は、全部は戻れない。ここに入った時点で、家は持っていく」
間宮は理解した。
由香の肉体に戻ったものは、由香の“意識”ではない。
ただの――居住者だ。
「……返しなさい!」
間宮の声は自分でもわかるほど震えていた。
悪霊は、初めてはっきりと“笑った”。
『もう、返している』
翌日。
由香は朝食を食べ、学校に行き、友人と話した。
問題は、何も起きなかったことだ。
ただひとつ。
夜になると、由香は必ず玄関の前に立つ。そしてドアノブに手をかけて、こう呟く。
「……もう一人の私、ちゃんと、家に帰れたかな」
母親が背後から声をかけると、由香は振り返り微笑う。
「なに?」
その目は、家の中を見ている人の目だった。
間宮響子は、それ以来、幽体離脱をしていない。
自分の玄関が、いつか内側から開いてしまう気がしてならないからだ。
そして今日も、どこかの家で動画が再生されている。
――自分の家に帰ろう。魂だけで。
コメント欄には、こう書かれていた。
「ちゃんと戻れました! でも、時々――家の中に、まだ私がいます」
――(完)――




