森から追放された熊、偶然入ったのは食い放題のレストラン!?〜天敵の猟師は至近距離でしか攻撃できない〜
雨混じりの暗い森。古参の雄熊との壮絶な死闘の末、漆黒の瞳に己の血が滲み込んだ。重い巨体は地面に叩きつけられ、腹部からは焼けつくような痛みが逆流する。牙が深く肉を穿ち、皮膚を裂く音と、骨が砕け散る軋みが耳朶を突き刺す。骨と筋肉が砕ける度、魂まで砕かれるような錯覚に襲われた。俺の咆哮だけが荒々しく夜空にこだまする。上から覗き込むその漆黒の瞳には、ただ鮮血に染まった俺の顔しか映っていない。
他の熊たちは沈黙したまま周囲を取り囲むだけ。森の掟は残酷だ。勝者の足元で鮮血にまみれた俺の姿を見下ろし、弱者への情けなど存在しない。倒れ込んだまま、泥と血にまみれた草を手で掬い取り、まるで遠い世界を眺めるように自分を取り巻く風景を俯瞰していた。そこに残っていたのは、からっぽの虚無と冷たい絶望だけだった。俺は、寒気と絶望に全身を包まれていた。
恐る恐るがらがらと立ち上がる。血にまみれた前脚を支えに、なんとか衰弱した身体を起こす。傷口から零れる熱い血潮が地面を赤く染める。胸からこみ上げる痛みと震えに、冷たい汗が背筋を伝う。だが、痛み以上に俺の胸を締め付けるのは屈辱だった。敗北の味が喉に絡み、悔しさが傷口に火のように焼け付く。もう、逃げるしかない。ここに留まれば死が待っているだけだ。脚を引きずりながら、俺は震える足で森の外縁を目指して走り出した。鉛のように重い身体が、水気を帯びた土と枯葉を踏みしめる。耳元で敗北を嘲るような雄叫びと嗤う声が追いかけてくるが、振り返る余裕はなかった。足を踏み外すたびに全身を噛みつくような痛みが走り、それでも進まなければならない。長年の縄張りは終わった。もう、俺に帰る場所はどこにもない。過酷な地、血と飢えの記憶だけを抱え、俺は山を駆け下りた。
視界が開けた途端、夜景の海が広がっていた。眼下には無数の灯火が瞬き、街は昼のように明るく輝いている。鼻孔を突き刺す匂い──焼け焦げた油の匂い、甘ったるい焦げた肉の香り、そして湿ったアスファルトと下水の匂いが混じり合い、まるで獲物の血の匂いのようだ。轟音が耳を覆う。低く唸るエンジン音、クラクション、人々の喧騒。すべてがかつての森とは正反対だ。そこでは静寂と規律だけが支配していた。しかしこの街では、夜ですら明るく、無数の匂いと音が渾然一体となって襲いかかる。人間という生き物たちが、街角のあらゆる場所で息づいていた。スマホを覗き込みながら歩く者、真夜中に踏切を渡る者、コンビニの前で缶コーヒーを片手に談笑する者。彼らはまるで目隠しをして餌場に放り出された羊のようだ。あまりにも無防備に、自らの獲物であることをさらしている。人間──ここはまさに『食い放題のレストラン』だ。牛や鹿の血を追い求めていたかつての狩猟者にとって、この世界がいかに地上の楽園か、俺は思わず鼻で笑った。
嗅覚が危険を告げる。飢えと渇望が、俺の脳を苛立たせる。やがて目の前を一人の若い男が通り過ぎた。スマホに夢中で顔を上げる気配はなく、口角にはパン屑がまだ残っている。チャンスだ。俺は完璧に息を潜め、高層ビルの影から静かに彼に近づく。ネオンの明かりが彼の眼を無防備に照らし、背後に気配を感じる余裕など与えていない。一瞬の沈黙の後、俺は飛びかかった。鮮やかな赤い閃光が目の端を走り抜ける。前脚が彼を捕え、顎が喉元へと食い込む。ザクッという音とともに、彼はすぐさま力を失った。熱い血と生々しい肉の味が口腔内に広がる。妖艶な甘い香りと、ほのかな鉄の味。かつて森で飢えに喘いでいた日々が、嘘のように過去のものになる。腹に収まった温もりが、俺に安らぎをもたらす。なるほど……。人間の肉は、想像を超えたご馳走だ。男は静かに息を引き取った。最後に漏れた吐息が、虚しく夜空へと消えていく。俺は放心したように、前脚に血塗れの獲物を引きずったまま立ち尽くした。
その夜を境に、都市での狩猟は急速に加速した。泥酔したサラリーマン、道に迷った旅行者、寝静まった繁華街を走るタクシーの助手席──狩果は増え続けた。季節は巡り、俺の生活は夜闇に包まれた狩猟の日々となった。俺は暗闇に紛れ、躍動する街の中で獲物を選び取る。スマホ片手の若者は画面に夢中で首筋を晒し、イヤホンで音楽を聴く少女はリズムに乗って前後に揺れながら口ずさむ。人間たちは都市という檻の中で、まるで安寧に浸っていた。鉄とガラスで固められた都市の群れと人工の光に守られたことで、警戒心を解いたその習性は非常に都合がいい。自動販売機の前で列を作り、誰も後ろを気にしない。夜明け前のパトカーのサイレンは俺にとって揺りかごの子守唄だ。ビルの谷間にたむろするホームレスと、夜を徘徊する夜行性の人間でさえ、俺にとっては格好の晩餐だ。空腹を抱える獣にとって、街は手付かずの宝庫だった。街灯に照らされて歩く彼らの背中は、まるで俺を挑発しているかのようだ――『今だぞ』と。人間社会への皮肉は尽きない。彼らは自分たちを「知的生物」と信じて疑わない。しかし、目の前で起こる非日常に気づかぬ様子を見ると、俺は何度も思わず苦笑した。俺には、それが彼らへの最高の皮肉だった。
夜明け前の薄明かりの中、街の灯りは一つまた一つと消えゆく。群衆のざわめきは遠のき、静寂が支配し始める。そんな中、俺は少し膨らんだ腹を撫でながら、丘の上でゆったりと腰を下ろした。獲物を貪った証の血が毛皮に染みついている。胸元まで満たされた腹はまるで胎児のように温かく、手足を伸ばすように熊は安らぎと共に重い息を吐く。朝焼けが地平線から顔を覗かせ、都会は穏やかに目覚めていく。遠くで鳥のさえずり。ビルの谷間に差し込む柔らかな光。もはやあの過酷な森に戻る理由などどこにもない。遠くの記憶に残った森の匂いは、ただ淡く霞むばかりだ。満腹の腹を抱えて、俺は満足げに呟いた。『ここが、俺の新たな王国なのだ』。都会の光が静かに照らす中、暗闇はどこにも残っていなかった。安らかな眠りが、その体を包み込む。




