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アヒ  作者: ゲントク
―第八章― 融けて沈む
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ーFlashbackー melt

 ある日、諸星君が熱を出した。


 来るなと言われたが心配になった私は、学校が休みの土曜日に彼の病室に訪れた。

 時計の短針は十を指しているのにもかかわらず、諸星君はまだ眠っていた。

 眉間に皺をよせ歯を食いしばり、浅い呼吸でかけられている布団が小刻みに揺れ動いている。


 悪い夢でも見ているのだろうか。目元にはくっきりと青紫色のくまが刻まれていた。きっとあまり眠れていないのだろう。よく見るとうっすらと、目じりに涙を浮かべている。


 一刻も早く起こしてあげようと私は、彼の肩に手を伸ばす。すると「かあ……さん……」と諸星君が呟くのを聞いた。ふと目線を下げると、布団をギュッと握りしめて震える手が目に入った。 


 私は諸星君の家族がお見舞いに来るところを見たことがない。

 お母さん曰く、諸星君は保護者の連絡先を教えてくれなかったそうだ。

 ずっとひっかかっていた。彼が以前言っていた、一人の時間には慣れているという言葉に。それはきっと寂しさに慣れてしまったことなのだろう。どれだけ一人の侘しさを重ねてきたのだろう。


 以前、彼に小説を貸したことを思い出す。家族の絆が描かれた私の大好きな本。

 時間がかかってしまうはずだ。

 彼からしてみれば、自分の手の届かない眩しい幸せを見せつけられるようなものなのだから。

 また彼に残酷なことをしてしまったかもしれない。


 ……それでも私は、私だけでも彼の傍にいたい。

 寂しそうに震える彼の手を、私は思わず握り締めた。

 どんな複雑な事情があるかはわからない。そんな寂しさを抱えていながらも、他人の幸せを護り、壊れなかったことに涙を流して喜ぶ彼の隣で手を握ってあげたい。


 助けられた恩から来る義務感や、哀れみから来る道徳心ではない。生まれて初めて、家族以外の誰かの為に心から手を差し伸べたいと思った。

 しばらくすると、握っている手の震えは収まり、諸星君の険しい表情も段々と緩んでいき、穏やかな寝息がすぅすぅと静寂な病室にこだまする。


 ああ、よかった。


 安らぐ諸星君を見て、私は心の底から安堵した。彼の温かいはずの心に開いた、冷たい孔を少しでも私が埋めることができたかもしれない。

 こんな私でも、ほんの少しでも誰かの救いになれたのかもしれない。その事実が私の心を埋めていく。


 私はきっと、心のどこかでは、身内以外を蔑ろにしても構わないという自分の在り方に思うところがあったのだろう。

 彼の目じりに溜まった涙を拭うと、指先がじんわりと熱くなる。それには、命の炎が迸る威力を感じられた。


 彼の温もりを。刻む心音を。うねる脈拍を。

 彼の生きている証を感じ、干渉に浸っている間にも時は過ぎ、彼は目を覚ます。

 私に握られている左手を見るなり、妙な声を上げて慌てふためく諸星君を可愛らしく思えた。

 悪い癖が出る。ついついいじわるをしたくなる。「怖い夢を見たの?」と問いかけると、図星を突かれた諸星君は押し黙ってしまい目を伏せた。


 ふと諸星君の目じりを見ると、また涙を浮かべていた。

 今日は泣き虫さんの日なのかもしれない。

 もとより感じていた寂しさに加え、怪我や発熱から来る心細さが相当堪えたのだろう。


 私は再び涙を拭い、もう片方の手も加えて彼の大きな左手を包みこむように握る。

 こうしていると本当に弟ができたみたいだ。

 そんな私の考えを察するかのように、諸星君は不満げに言う。


「子供扱いするな」

「そういう扱いに過剰に嫌がる方がかえって子供っぽいと思うけど」

「…………」


 言いくるめられて黙ってしまう諸星君に私は悪いと思いながらも、その無垢な素直さを尊く思ってしまう。


 私はきっとこういう無垢さに弱いのだろう。

 太陽のように周りを明るく照らす彩ちゃんとはまた違う。

 まるで一面に広がる空のような無邪気さ。夕焼けのように赤く照れたり、雨雲のように涙が零れてしまう。そんな正直で真っ直ぐな素直さ。


 とくん、とくん、と握る彼の手から脈打つ鼓動が速くなる。彼の耳まで真っ赤になり、てのひらはより一層熱を持つ。


 あなたは泣き出しそうな顔を堪えるようにして、私と目を合わさずにうっすらと笑みを零す。

 指先に乗せられた涙は今もなお、私と諸星君の体温と共に輝くように熱を放っていた。


 父の影響で母に着せられた氷の鎧が融けていく。


 彼に融かされ、液状になったものが、また彼の冷たい部分を融かしてくれればいいのに。

 きっとそれがまた私の心を融かす。それを繰り返していけば、きっと大きな水たまりができるでしょう。

 私はそこに沈んでいく。そこにはきっと息苦しさなんてなく、温かくて心地のいい、赤みがかった顔をしたあなたの照れ笑いのように、愛おしい空間なのでしょう。


「大丈夫、今は一人なんかじゃない。私がいるわ。あなたの側に」


 ずっとここにいたいと思った。


 あなたと共にいるこの時間がずっと続いてほしいと思った。

 

 私はあなたに溺れていた。


 なのに


「邪魔なんだよ。お前みたいに頼んでもいないのに纏わりつく奴は」


 あなたはどうして


「笑わせるな! お前なんかに何ができる!? 思い上がるな!」


 そんなに悲しそうなの?


「お前たち姉妹のことなんざ知ったことじゃあない!」


 何をそんなにも恐れているの?


「いい迷惑なんだよこっちは!」


 どうして今にも泣いてしまいそうなの?


「お前なんか眼中にないんだよ!」


 私にはあなたが何かに怯えているようにしか見えない。

 どんなにひどい言葉を投げかけられても、どんなに口汚く罵られても、あなたの見せかけの怒りは私には届かない。


 あなたの憤怒の仮面の裏に流れる、涙の伝う音を聞かないふりはできない。

 あなたの苦しみが、悲しみが、私に伝わっていく。助けを呼ぶような叫び声が、こめかみを射抜く。


 私にはどうすればいいのかわからない。ただ、あなたの代わりにこの目から涙を零すことしかできない。


 またあなたの笑う顔が見たい。笑顔が見たい。微笑みが見たい。


 ねえ、教えて。諸星君。


 どうすればまた、心の底から笑ってくれますか?

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