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アヒ  作者: ゲントク
―第八章― 融けて沈む
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ーFlashbackー 冷たい罪悪感と温かい笑顔

 彼との時間を過ごして数日経ったある土曜日のこと。

 お昼時に彼の病室に訪れると、諸星君が難しい顔をしながら腕を組み、ベッドサイドテーブルと睨み合いをしていた。

 テーブルの上には、病院食が盛り付けられていたであろうお皿がある。諸星君の視線は、そのお皿に唯一乗せられているミニトマトに向けられていた。


「………………」

「………………」

「……諸星君、好き嫌いはだめよ?」

「わかってる。……わかってはいるんだ……」


 諸星君は顔を顰めながら天井を仰ぐ。

 顔を逸らした諸星君とは対照的に彼の天敵だと思われるミニトマトは蛍光灯の光を反射し、燦々と赤く存在感を示していた。


「出されたものは例え、苦手な食べ物でも粗末にはできない。そんなことはわかっている。でもね、結城さん。この赤い悪魔を口の中に入れる為には覚悟がいるんだ」

「赤い悪魔って……」


 たかがトマトでそんな大げさな……。


 好き嫌いのない私には、食べ物に対して一喜一憂する気持ちがわからなかった。もちろん好物のものが出てきたら嬉しいけど、そうでない食べ物に対して眉間にしわを寄せながらうんうん唸ったことはない。


「そうだ。結城さん、俺の代わりに頼むよ。君に食べてもらいさえすれば、こいつも無駄にはならない」


 妙案だ! とばかりに、諸星君は先ほどとは打って変わって、希望を見出したような顔を私に向けた。


「だめよ。好き嫌いはいけないわ。トマトは栄養が豊富なのだからしっかり食べないと」

「ああ知ってるよ。リコピンだろ? こいつにビタミンとかミネラルがたっぷり詰まってるのは俺だって承知さ。なんたって大きいの一個かじれば、一日に必要なビタミンCの四分の一はとれるんだからな」


 やたらと詳しく力説する諸星君。そこまでわかってるなら素直に食べてしまえばいいのに。


「でも、そんなものは他の食べ物で代用すればいい話だ。なんならサプリメントでも――」

「だめよ。それはここの栄養士さんがあなたの健康のことを考えて作っているのだから、あなたが食べるべきだわ」


 いいから食べなさい、とばかりに私はトマトのヘタを掴んで諸星君の口の中に突っ込む。

 ヘタを引っ張るとそのままぷつっと千切れ、実のみが諸星君の口の中に残った。

 観念した諸星君は、鼻をつまんで、できるだけトマトの味を口の中に広げないように咀嚼する。目元にうっすらと涙を浮かべながら苦い顔をしている。


「何も突っ込むことないじゃないか」

「そうしないとあなた何時まで経っても食べないでしょう」


 少し前の彩ちゃんを思い出す。こうやって、ピーマンを嫌がるあの子を窘めて、食べさせてあげたことを思い出した。


 またある時、学校帰りに彼の病室に訪れる。

入院している二ヶ月、私が付きっ切りで授業で進んだ範囲を諸星君に教えることになった。

 学校で出された問題集の宿題をそのまま彼にやってもらっていたのだが――


「諸星君、どうして古文だけやっていないの?」

「……いや、どうも筆が進まなくて……」


 諸星君は口をへの字に曲げながら腕を組み、明後日の方を見て私から目を逸らす。


「だめじゃない。出された宿題はちゃんとやらないと」

「いや、これは出す側が悪い。こんな、将来何の役に立つことのないものを宿題に出すこの国の教育機関が悪い」


 とうとう文部科学省に文句を言い始めてしまった。


「そもそも古典は捨ててるんだ。国語なんて他の科目をちゃんと取ればいいだけの話じゃないか」

「だめよ。苦手なことから逃げてはいけないわ。例え役に立たなくても出された課題を熟さないと」


 はい、見ててあげるから、と言ってシャープペンシルを持たせると、諸星君は渋々と課題に取り掛かった。


 初めの頃はどうしてそこまで高潔なのだろう、どんな崇高な目的をもって生きているのだろう、どんなにすごい人なのだろう、なんて思っていた。

 蓋を開けてみればその大人びた顔には似つかわしくない、子供っぽくて世話の焼ける手のかかる人だった。


 まるで彩ちゃんの他にもう一人下の子ができたような、とっても大きい弟。そんな印象。


 共にいる日々を重ねるにつれて、彼の接し方も徐々に変化していた。

 ツンとした態度で強がったり、ぶっきらぼうに皮肉を言ったりと、彼の素の面が見えることも増えてきた。


 その日の私は彼の病室に入る時に、ついノックを忘れて入ってしまった。

 私に気付いた諸星君は、ギョッとした顔で手に持っていたスマートフォンを、掛け布団の上に押し付けた。


「ノックくらいしたらどうだ!」

「……見られてはまずいものでも見ていたの?」

「ち、違う。俺は常識的にそうするべきだということをだな」


 話を逸らして誤魔化そうとする諸星君。そんな姿を見て、私は少し意地悪をしてみようと試みる。


「えっちなものでも見てたんでしょう。あなたにはまだ早いわ」

「な、違う! 断じてそんなもの見ていない!」


 諸星君は慌てふためいてそれを否定する。顔を赤らめて必死に弁明しようとする彼の姿に、私はついつい嗜虐心を覚えてしまった。


「違うというなら見せてみなさい」


 私は伏せてある画面を見えるようにしようと、スマホを持っている彼の手を掴む。


「おい馬鹿やめ……力強っ!」


 諸星君はもう片方の手も使って、必死に画面を布団に押し付ける。そんな彼の姿を見て、私は興が乗ってしまった。つい力を込めてしまう。


「わかったわかった! 見てた! そういうのを見てたよ! これでいいか!?」


 彼がそう白状すると、満足した私はぱっと彼の手を放して「最初から素直にそう言えばいいのに」と勝ち誇って見せる。

 諸星君はほっとしたようなげんなりとしたような表情で項垂れる。

 

 少しやり過ぎてしまったかしら。


「ごめんさい。少しいたずらが過ぎたわね。別に怒ったり軽蔑したりなんかしないわ。年頃の男の子だもの、仕方がないわ」

「……そりゃどうも」


 手元のスマホを素早く操作しつつ、ばつが悪そうに頭をかきながら諸星君はそっぽ向いた。


 こうして見ると、クラスの男子となんら変わらない。

 意外と表情豊かで人間臭い、普通の男の子だ。


 私はそれに負い目を感じずにはいられなかった。

 どんなことにも恐れない強くて優しい空想のヒーローとは違って、迫りくる車の前に立ちはだかるなんてとても怖いはずだ。痛いのなんて嫌なはずだ。私の所為で彼にそんな無理を強いてしまった。


 だとしたら、私はなんと厚かましくて恥知らずなのだろう。

 私が彼の為にしようとしたことは、私の犯してしまった罪から目を背けるための自己満足にすぎなかった。

 憧れというフィルターを通して彼を見ることによって、あたかも彼が傷ついたことを美談として肯定しようとしていたのだ。

 画面のヒーローが傷つくことが当然と思うように。


 私はきっと姑息で浅ましい人間なのだろう。本当は私の顔なんて見たくもないのではないか。私は彼の傍にいてはいけないのではないか。そう思ってしまうと、病室の扉が重くて仕方がない。


 私は一日だけ彼へのお見舞いを欠かした。

 

 その次の日、学校からまっすぐ帰宅すると先に帰っていた彩ちゃんがトテトテと私の元に歩み寄った。


「あいちゃん! きょうね! きょうね!」


 その日学校であった出来事を楽しそうに話す彩ちゃん。

 この子の無垢な笑顔は、欺瞞と自己保身に満ちた私の醜い性根をジリジリと焼いた。

 私は本当にこの子の保護者を名乗る資格があるのだろうか。

 あの時の諸星君の叱責が今になって突き刺さる。


「あいちゃん! さいね、おにーちゃんにおはなししたいことがいーっぱいあるの!」


 そんな私の胸中を彩ちゃんは知る由もなく、私を再び罪悪感の矢面に立たせる。


 それを拒む理由も資格も私にはなく、彩ちゃんを連れて、私は彼のいる病院へと足を運ぶ。

 重たい病室の扉を開けると彼はベッドの上で美しく背筋を伸ばし、てのひらに収まるような小さな文庫本を真剣な面持ちで読み耽っていた。


 私に気付いた彼は、目を丸くして私に焦点を合わせてそっと微笑む。


「なんだ、もう来ないかと思ったよ」


 ほんのりと、ほんのりと彼の吐息に安堵が混じった音色を感じる。

 それを見た私は、つい一瞬先の本を読む彼の表情に寂しさを覚えたような気がした。

 ああ、まただ。また自分で勝手に脚色する。都合がいい方へと脳を錯覚させる。この期に及んで私は自分の事ばかりだ。


 刹那的な自己嫌悪の最中で、諸星君は彩ちゃんに気付く。


「や、久しぶり」


 諸星君が彩ちゃんを見てはにかむ。

 それに呼応するかのように彩ちゃんは、ぱあっと笑顔になり諸星君にじゃれついた。

 怪我をしているから体に負担をかけてはいけないことを事前に伝えているので、二人が強く接触することは無かった。


 彩ちゃんが彼の手の届くところまで顔を近づけると、諸星君は大事なものを触れるかのような優しい手つきで彩ちゃんを撫でながらくしゃりと破顔してみせる。

 端正でシャープな顔立ちが満面の笑みで崩れ、顔にギュッと皺が寄る。

 表情、声色、全てが優しく幸せに満ちたものだった。

 でも、その瞳だけにはどこか儚げで吹いた風にでもかき消されそうな切なさがあった。


 私はその光景を美しいと思ってしまった。何よりも美しく尊いものだと感じた。

 また魅せられていたのだ。彼の瞳に。


「これ、返すよ」


 一頻り彩ちゃんを撫でくりまわした後、諸星君は持っていた本を私に差し出した。

入院中、暇そうにしていたので随分前に私が暇つぶしにと彼に貸した本だ。


 家族の絆が描かれた内容のお気に入りの一冊。

「合わなかったかしら。その……随分と時間がかかったみたいだから……」


 気を遣わせて無理に読ませてしまったのでは、と私が恐る恐る尋ねると「いや、面白かった」という言葉が返ってくる。


「返すのが遅れて悪かった。その……どうも活字ってのを読むのに慣れなくてな。時間がかかった」


 若者の活字離れって奴が身に染みたな、と諸星君は皮肉交じりに笑った。


「でもまあ、昨日一気に読んだよ。君が来ないから暇でさ。手持無沙汰になった。一人の時間には慣れてたはずなんだが……君の影響かもな」


 諸星君は頬を人差し指でかくように擦る。照れ臭さを隠すようにそっぽ向いて続ける。


「君のいる時間に慣れ過ぎた」


 ほんのりと赤みがかっている彼の耳を見て私はほっとする。 


 私のことを憎く思っているのなら、そんな照れ隠しは出てこないだろう。

 そんな小学生のような機微を抱えた自分を微笑ましく思いながらも、私の心の曇りは晴れていた。


「また来るわ。明日も明後日も、その次も」


 またここに来てもいいんだ。ここにいてもいいんだ。私は。


 別に家族以外に居場所ができないわけじゃない。

 でも私には他の居場所は必要なかった。

 そう思っていたのに、今はこの場所がとても大切に思えた。

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