29 encore
気に入らない気に入らない気に入らない。
思えば、あの時からあいつが気に食わなかった。
屋上で意を決して、覚悟を決めて彼女を拒絶したあの時も。
あいつはずけずけと、不躾に好き勝手なこと言いながら踏み入りやがった。
俺は元々、そんなに感情を出す方じゃなかった。感情を適当に押し留めて無難に生きていくことができたんだ。
ただ、あの時はそうした方が、彼女が俺を諦めるだろうと踏んで、あえて感情を剥き出しにするように振舞ったのだ。
なのにあいつが横に入ってきて、引くに引けなくなって、ムカついて、苛立って。
それからだ。あいつの前だと妙に抑えが利かなくなる。
貼り付けた仮初の殻を維持できず、剥き出しの本音が出てしまう。
『諸星君、あなた本当は、あの時死のうと――』
………………………。
今回だってそうだ。
あいつはいつだって俺がせっかく張り替えた壁を、無理やり踏み砕いてきやがる。
だから逃げ出した。
無様にも、俺はあいつから逃げ出したんだ。
それすらも……癪に障る!
全力疾走したのはいつかの体育以来だ。
長距離を走るのは日課のランニングでやっているが、短距離走で使うようなスプリントは滅多にしない。
俺は後ろを振り返り、阿澄崎の姿が見えないことを確認してようやく落ち着くことができた。
とぼとぼと、信号に気を配りつつ、歩きながら思考を巡らせる。
俺は阿澄崎さくらから逃げ出した。
思えば、俺は逃げてばかりの人生を歩んできたと思う。
今回だけじゃない。嫌なことがあればすぐに逃げ出していた。
燈が死んでから、爺さんが空手を俺に教えた。
あの人は加減ってものを知らない。嫌になって何度も稽古から逃げ出したことがある。
結局首根っこを掴んで連れ戻されたっけ。
ここ最近だってそうだ。
入院中、結城がずっと俺に構うものだから、周りに人がいることに慣れすぎてしまった。
思えば、悪くなかったんだろうな。あの時間が。
『でもあなたはもう向き合うべきです。仮初めの人間関係ではなく、ちゃんとした信頼関係を築きなさい』
お婆さんがそう言うものだから仕方がない、進路を人質にされたから仕方がない。
そうやって祖母を言い訳にして楽な道へと逃げた。彼女達と親しくなり、楽しい時間を過ごすことに逃げた。独りから逃げたんだ。あとで苦しくなるってわかっているくせに……。
元々大学の学費は、自分で稼いで返すつもりだったんだ。その為にバイトだってしていた。
奨学金でもなんでも借りて、無理矢理自分の行きたい進路に進むことだってできたはずだ。
自分の浅ましさに嫌気が差す。自分が取るに足らないくだらない人間だと、嫌でも突きつけられたような気がする。
燈が身を挺して守った人間がこの有り様か。笑えるな。
もういいだろ? 楽しい時間は散々過ごしただろ? 十分甘い夢を見たはずだ。
これ以上はいらない。これ以上は俺を弱くする。
巻き戻るんだ。彼女たちに会う前の、誰も寄せ付けず、誰かの命を救うだけの人間に――
瞬間、片耳を殴りつけられるような大きな音が聞こえた。
クラクションの音、それもとても近く。
次の瞬間には体に触れてしまうんじゃないかと思われるくらいの距離。
音のする方に目を向けると、大きな鉄の塊が、今まさに襲い掛かろうとしていた。
トラック? なんで? 赤信号を渡ったか? いや、それはない。俺が信号無視なんてするはずがない。青信号の音だって俺の正面から鳴っている。
ゆっくりと流れるような時の中で俺は運転手の顔を見た。
ボサボサの髪、目の下に青々と刻まれた隈を持った男が、無様によだれを垂らし、呆気にとられたような間抜け面で俺を凝視していた。
……居眠り運転なんて下らねぇ真似しやがって。
止まったような世界の中で、俺の身体は身じろぎ一つできない。
――死ぬのか? 俺は。
自己管理のできていないこんな男の所為で、燈が身を挺して繋いだこの命を散らすのか? こんな死に方――
……いや、いい。そんなもんさ。
死に方なんて誰も選べるわけがないんだ。そうじゃなきゃあの子はあんなところで命を落としちゃいない。
誰も不幸な死に方を選ぶわけがない。
俺も同じなんだ。望んでいないところで、非業の死を遂げていった多くの人たちと。
何も不思議なことじゃない。
神無きこの世界では当たり前のことなんだ。
それに俺は確かに救ったじゃないか。
結城彩、俺が拒絶した結城逢の妹。
なんだ、俺は誰かを助けているじゃないか。
だから意味はあった。燈の死は無駄にならなかった。
十分にやったさ。きっと、結城彩を救ったあの日、あの時、俺はもう死んでいた。
何かの間違いで俺は生き残って、その時のツケが今回ってきただけなんだ。
ならこれでいい。
強張った俺の身体から、何かがするりと抜けていく。
存在もしない神に身を捧げるように、魂が肉体を捨て去ったかのように脱力する。
屈強な肉体が少しの風でも飛ばされるように、体が緩む。
これでいいんだ。
目を閉じ、自らの運命を受け入れるかのように、命を簒奪する鋼の躯体に身を委ねる。
――これで、
――やっと、
トンッと後ろから衝撃が走る。俺にとっては決して強い衝撃ではなかった。体幹でしっかり支えて立っていれば十分跳ね返せていた程度の力。
そんな力に、動かなかった身体が前に突き飛ばされる。
「……は?」
クラクションの鳴る音、ブレーキ、何かがぶつかる音と誰かの悲鳴が同時に流れ、半歩遅れて俺の膝をつく音が聞こえる。
「なんっ……で……」
振り向く俺の視線の先には、俺を突き飛ばしたであろう少女が置物のように横たわっている。
「結……城……」
細い腕があらぬ方向に折れ曲がり、赤い液体が彼女の頭部を包み込む。
深紅の血潮が彼女の美しい黒髪と溶け合い、俺の血走った目と同じように赤黒く染まっていた。
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